昨日(8/19)の朝日新聞「折々の言葉」が引っかかった。詩人・茨木のり子の言葉。
「言葉が多すぎる/というより/言葉らしきものが多すぎる/というより/言葉と言えるほどのものが無い」
それに付け加えて、鷲田清一はこう続ける。
「そうしてつぶやく。「さびしいなあ/うるさいなあ/顔ひんまがる」と。世には言葉が洪水のように溢れる。が、真に「ふかい喜悦」をもたらしてくれる言葉、渇いた心を芯から潤してくれる言葉にはめったに出会えない。人々はもはや言葉を信じていない。詩人はそこに「某国のきざし」を見た。……」
この詩人には軽い好感を抱いていたから意外であった。好感を持って読んでいた「わたし」が変わったのか。あるいは、詩の読み方てっものがあるのか。
沈黙しろっていうのなら、よくわかる。
でも「言葉らしきもの」って何だ? 私が鷲田の引用した茨木のり子のことばを感じるのは、常套句にどっぷり身を浸して疑わないマスメディアや政治家や評論家や市井の人の言葉に接したとき。だがそれとても「言葉らしきもの/言葉と言えるほどのもの」とは謂わない。それが「言葉」だからだ。言葉にだって美醜はあると、茨木のり子は謂うのだろうか。私はまず、自分の「ことば」がそれほどのものとは思わないから、そういう決めつけはできないが。詩人・茨木のり子が「そういう鬱憤」を抱くのは理解できる。彼女は言葉のエリート。でもね、「言葉と言えるほどのもの」って、「ふかい喜悦」をもたらしてくれるものだけなのかい?
ヒトは言葉が第六感と私は思っているから、美醜や貧富は抜きにして、ヒトのくっちゃべる言葉はどんなものであれ、「言葉」だ。詩人が口にする「ことば」が、庶民の日頃口にするおしゃべり言葉や実用向きの指示言葉などと違うことはわからないでもない。でもね、第六感て、霊感や魂が繰り出してくる胸底の言葉ばかりじゃないからね。「わあ、疲れた」ってため息も、「もうやってられんわ」という愚痴も、「きゃあ、うれしい!」って喜びも、第六感の繰り出す関係的表現よ。そういう次元に持ち込んで、謂えばさ。
あるいは、指示言葉にしても、人と人との間をつないで用を足すのには欠かせないお役目を果たしている。世の中が広くなり、多様になり、重層化して複雑になるにつれて、こうした実用語はたくさん繰り出されるようになった。
あるいはこんなことも言える。外国語の歌を聴いて、その歌詞が何を言っているかわからないけれど、リズムやテンポやメロディというか揺蕩うような韻律が、涙を誘い、心持ちをほぐし、あるいはいやな感じを増幅するってこともあるじゃないか。言葉は意味だけで構成されている訳じゃないんだよ。若い人たちが何を言っているのかわからないけれど、何倍速もの猛烈な早口言葉で繰り出してくる饒舌調の歌は、そのトーンというか、声の響きだけ聞いて、面白いって感じているってこともあるじゃないか。それもこれもヒトの属性、「言葉」だと思えば、ひっくるめて「ことばじゃないよ」っていわれると、じゃああんたがしゃべっている「言葉」ってのは、何様なのと聞きたくなる。
茨木のり子の詩の引用者・鷲田清一は、「人々はもはや言葉を信じていない」と話の次元を変えた。面白い。鷲田さんは、では、あなたのいう「人々が」しゃべっている言葉は「言葉らしきもの」「言葉と言えるほどのものではない」の、どこに位置しているんだ?
もちろん「ことば」が変容することを知らない訳ではない。人々が日常取り交わす言葉が「つまらないもの」だとしたら、その人々の日常はつまらないものなのだろうか。世の中を流れ伝わり、使い使われて「ことば」として広まっていくことを考えると、手垢にまみれて「言葉」になり、ヒトはそれらを物真似のように使いながら、文法作法を自らの裡につくりだしてヒトの世界に参入する。後に学校というところで「文法」とかで「正しい使い方」という社会的正当性が君臨していることを知るけれども、それを知らなくても、使い方は見様見真似と、我が身の裡で作り上げた作法とで、どうにかできる。それで十分と言っているんじゃないが、それを「言葉らしきもの」とか「言葉と言えるほどのものではない」と誹られる謂れは、ないぞ。誹るあなたは、では、何者なの? どこに立っているの?
「ふかい喜悦」をもたらす言葉なんて無用という訳じゃないけど、ただ無意味に、くっちゃべっていることばでも、それ自体で、そのヒトにとって意味を持つ。しゃべらなくても、裸でただ抱き合っているだけでも、ヒトは心落ち着き、外へ向かって攻撃的に振る舞うことを遠ざけておくことができる。沈黙しろって、言ってくれよ、そうならさ。
それさえできなくなるような観念の洪水、言葉の洪水の方が、遙かに「亡国のきざし」に見える。常套句にまみれて、ただ何かを口にしない訳にはいかないから言葉らしきものを発しているってことは、(歳をとってからは少なくなったが)ない訳ではなかった。ヒトの社会って、そういう風に、心にもないことを言わざるを得なくていってしまうことって、結構あったじゃないか。儀礼と階級的秩序に覆われた社会の現役だと、そういうことはしょっちゅうあるじゃないか。
それとても、私は、ヒトの属性として、まずは毛嫌いしないで「せかい」に位置づけようと考えている。ヒトの(社会の)悲しい性として。詩人・茨木のり子はさておいても、鷲田清一までがそれに悪乗りしては、臨床哲学者の名に傷がつく。
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