朝日新聞夕刊(8/17)の「取材考記」で東京スポーツ部・勝見壮史記者が「なでしこ「今」と向き合って進もう」と、「W杯優勝から10年 五輪8強サッカー女子」の五輪奮戦記を書いている。
「優勝国(カナダ)、準優勝国(スウェーデン)と比べて現在地を測れる材料が、日本の手元にはある。比較するべきなのはかつての「自分」ではなく、今のライバルたちなのだ。感情に流されるだけでは進化はない。」
と、カナダやスウェーデンと戦って善戦した戦いぶりをあげて、今後の活力源を探り当てようとしている。スポーツは限定した「場」での、つまりルールのある戦いと、以前にも言った。この「取材考記」は、まさにそれを物語っている。戦いによって、自己像が明白になる。敵も変容する。それとの戦いによって、「現在地を測れ」る。かつての自分と較べてどうかというよりも、限定した「場」での敵との比較によって自己像をつかむことが、チームにもプレイヤーである選手たちにも必要なことなのだ。
と(まるで素人のわたしが)、あたかも五輪出場選手やそのチームと心情的に一体となったような感触でゲームを見ることができるのは、どうしてなのだろう。
人生という長い行程においては、それぞれの人にとっては欠かせない「自分の現在地を測る」尺度が、他の人との角逐にあると言い換えることができる。むろんそれは、火花を散らすものでなくともいい。我が身のうちで密かに戦い、密かに敗れ、相手がそれと気づかぬ間に訣れてさえいる。自分は何者かという問いは、どこから来てどこへゆくのかと問うことと同じだ。それは広い湿原の沼に浮遊する浮島にたって現在地を問うことに等しい。
ここではスポーツに限定して話を進めるが、スポーツと人生とを重ねて「感じる」ことができるのは、スポーツ・ゲームの持っている要素が生きることの様々な局面のことごとと相応するものを現しているからだ。ホイジンガーは人をホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)と規定した。生活することを逸脱して遊び興じる人の性(さが)というわけだが、これは逆に、ヒトは命を紡ぐためのみに生きているかのごとく暮らしに追われていることを皮肉った文明批判と受け取ることもできる。
スポーツがいきなり五輪に結びつくのは、TVや新聞といったマス・メディアのせいである。それ以前は、ご近所や学校や地域や地方や国といった単位の、スポーツの裾野と言われる次元のスポーツであった。それが国際的な次元とひと繋がりにみえるのは、情報化社会の進展と符節を合わせている。その次元の、入り口の方からみてみると、ご近所の朋友と遊び興じることと五輪とが共通して持っている要素は、限定した領域のルールがゲームの勝敗を決していることであり、戦う双方がそれを承認していることだ。
ご近所の場合は、ルールさえ勝手に決めはするが、戦う双方がそれを承認していなければゲームが始まらない。だが五輪は、あの手この手で「勝ちに行く」ことが画策される。異なる文化が出逢って(負け込むとわかって)、ルールが細かく変更されていった水泳競技のルール規定がそれだ。ドーピングや五輪(出場の)標準記録というのも、それに当たる。多分わたしが知らないゲームが始まる前の規定がもっといろいろとあるに違いない。でも、目にする世界最高レベルのゲームは、間違いなくご近所の遊びから始まるゲームと同質の要素を含みこんでいる。ゲームを見るときの次元と角度が分節化されているかいないかだけに過ぎない。
五輪は、スポーツゲームのエッセンスを目にすることができる。しかも見ている人々は、分節化されない(人間諸力の)諸要素が混沌のご近所ゲームと通底する「何か」を感じとる。それが観客が熱狂する理由でもある。その視線と熱狂がまた、エッセンスの発動に力となる。「観客」が五輪の大きな要素の一つと五輪の哲学が説く根拠は、そこにある。
しかしその「熱狂」の危うさが、国民国家の形成と符節を合わせて明らかにもなってきた。五輪と政治を切り離すというかけ声は、切り離せないという事実の裏返しであった。「平和の祭典」と呼ぶのは、そうでない事実が露わになっていたからである。だから「五輪と政治を切り離す」とか「平和の祭典」としゃあしゃあと常套句をしゃべる政治家やコメンテータは、端から信用されない。逆にこう言えようか。そういう常套句を口にする人たちは、スポーツゲームの表現している限定性に気づいていないか、それを利用しようとしている。その表現を受け取る自分の価値意識に無頓着である、と。
マスメディアについても、同様のことがいえよう。そうしたスポーツの熱狂を「報道」する人たちは、五輪の哲学を意識して、報道する自らの体現している価値意識に自覚的でなくてはならない。そうして、自己を対象化するように(つまり自己批判的に)筆を振るわなければならないと思う。
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