北九州市の特定危険指定暴力団・工藤会の総裁・野村悟に死刑の判決が出た。利権を巡って障害となった漁業組合長を殺害するなど、市民への4件の殺人と殺人未遂について罪に問われ、組織の長であることからこの判決を受けることになった。工藤会の会長・田上不美夫も無期懲役と罰金2000万円という判決。
「事件の指揮や指示をしたと認められた上層部に刑事責任が課された」というが、その論理は、《「厳格な統制がなされる暴力団組織」で組員らに犯行を指示できる上位者は両被告であると想定される》として、「事件を配下の組員が単独で行うことができるとは考えがたい。両被告の関与がなかったとは到底考えられない」として共謀を認めたと、報道はいう。異例のこと。
これまでは、指揮や指示、共謀の事実(証拠)がなければ有罪とされないというのが、司法の「常識」であった。そこに通用していたのは「法的言語」。だが、暴力団の組織において上位者と組員の間に意思疎通がないはずがないという見立ては、私たち庶民の「生活言語」の常識。今回の司法判断が「異例のこと」というのは、「法的言語」から「生活言語」へ重心が変わってきているということを意味する。
こうも言える。暴力団・工藤会が、自らの組織の利害に関わることの障害になる市民を殺害した。組織の幹部に不快な振る舞いをしたなどの理由によって殺人未遂が行なわれた。それでは堪らないと、庶民は感じている。その市民感情があったからこそ、今回の「異例」が具体化した、と。逆に見ると、「法的言語」が機能しなくなっている。「法的言語が機能する」とは、司法判断がそれなりに国民に信頼され、すべてが腑に落ちるというほどでなくとも、ま、そうだよなと、だいたい得心できる部分が多いことが必要なのだ。
そもそも近代社会の刑事司法とは、市民の間の直接暴力的関係を法的手続きと法的罪科に委ねることにあった。逆に言うと、市民(集団)の直接的「解決」を国家が占有して取り上げることでもある。それが市民の間の争いを穏やかに処理する方途として制度化された来た。いわば、暴力を国家が独占することの裏の保障装置でもあったわけだ。だからアメリカのように、市民には自ら身を守る権利という(銃砲所持の)権利は、広い大陸の(国家社会の手が十分行き届かない)中で自律的に社会関係を紡いでいく必要とか、国家自体の暴虐に対抗するという(歴史的経験に学ぶ)教訓を体現していなければ、暴力装置を市民が分割所有することは現実化しなかったであろう。
日本のように、すべてを司法に委ねるしかない社会では、それだけ統治者は生活言語からの乖離に気を配らなければならないはずであった。だが現実の状況を見ると、暴力団の世界だけでなく、政治家や官僚や企業経営者という、おおよそ統治者の側に立つ人たちの用いる法的言語は、ずいぶん空洞化してきた。情報社会でどんな些細な場面で使われた言葉でもすぐにマス・メディアに乗る事情も作用しているであろう。なんてひどいことをいうのか、馬鹿だなあと、用いられた言葉にチェックが入る。その様子が繰り返し報道されるだけでも、空疎さが広がるのに、さらにそれに輪をかけるように空疎な弁護やいいわけが重ねられる。
選挙で買収をした議員が処罰を受けても、それに多額の資金を提供した党の幹部たちは、司法によって何も問われない。役人たちの、記録を改竄するなどの不法な振る舞いがあっても、政治家たちはその解明に手をつけようとしないばかりか、改竄を指示した役人を出世させるという処遇をする。それを目にしてきた市民は、彼らの駆使する「法的言語」の虚ろさをいやというほど感じてきている。
「状況証拠」だけで処罰を決めていいのかと「法的言語」世界ではいうであろう。それは手続き面での不備を問うものであるが、事件の真相に迫るものではない。そこへ生活言語世界が介入すると、とどのつまり権力を握っているものが思いのままに「状況」を差配することが許容されるから、当然、弱い立場のものが不利にあしらわれる。それも困る。しかし今回の事件の場合、市民の暮らしを明らかに脅かす「事件」の真相に迫らずに、末端だけを始末していては、暮らしの脅威は取り去れない。庶民はその端境でコトを判断しなくてはならない。今回の事件でいうと、とりあえずは真相に近づいて判決してもらう方が「脅威」を取り除くことになる。それが、司法判断をするヒトを支えたのであろう。
だがテキも然(さ)る者。工藤会総裁は法廷で裁判長に「生涯このことを後悔するぞ」と言い放ち、会長は「ひどいねあんた、足立さん」と捨て台詞を残したそうだ。もう、これだけで「事件」だと、私などは思う。
さ、これを司法ばかりでなく、立法や行政がどう受け取り取り仕切るか。興味は湧く。でも、何か動きがあるとは思えない。それが私の実感の現在である。
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