もう30数年も前になる。その高等学校の教務主任を務めてきた、齢がひと回り上の方が(その役回りから)身を引くことになり、私にお鉢が回ってきた。当時私は、夜の学校の経験しかなく昼間の大規模校の教務主任が何をするものなのか見当もつかなかった。それを気遣い、彼は引継ぎの時に子細なメモをつくって渡してくれた。
学校というのは、世の中の移ろいに合わせるというよりも、ひとが暮らしの中で積み上げてきた文化を次の世代に継承していくという、ちょっと時代遅れになってついていくルーティン・ワークが、基本をなしている。世の移ろいは、それを受け継ぐ生徒たちの抵抗や反抗や不服従の姿に現れてくる。
教務主任というのは、そのルーティン・ワークの部分を教師たちがスムーズに運べるように調整する役回りであると、私は受け取った。似たような位置にいるのが教頭だったが、教頭は学校現場と教育行政との調整役を務めるのを主とする。そのときの教頭が新着任だったこともあって棲み分けることにした。それほどに県当局への「報告文書」が多かった。
身を引く先輩教務主任がつくってくれたメモのなかに、今でも記憶に残る印象深い箇所があった。
《年間の学校季節の進行をイメージして、①来年必要なこと、②次の学期に必要なこと、③来月必要なこと、④来週必要なこと、⑤明日必要なこと、⑥今日必要なことを、それぞれ考えて、打つべき手を打っておく。そうすれば、あとは不適宜に出来する出来事に対処すれば、手落ちなく役廻りを務めることができる》
そんなことを思い出したのは、「コロナ患者の受け入れを医師に任せ、重症(のおそれある)者以外は、自宅待機とする」と、発表したからだ。考えてみると、菅首相が得意として来た(官房長官という裏方的)領域は、教務主任と同じである。ただ舞台が、日本という国民国家の大きな場面をベースとして、世界という異なる文化と向き合うスケールの大きさではある。そして、官房長官が宰相になった。
感染者数が諸外国に比して少ないことを「民度が高い」と鼻に掛けてきた政府が、いつしか「感染者数」を目安から外して「医療逼迫」を目安の一つに加え「ベッドの空き数」確保を指示していると応じて、安全安心を謳ってきた。一年も前のことだ。その間にも、自宅待機者の数が増えている、待機者の中から死者が出ていると報道されるようになり、それが突然、「自宅療養を基本とする」ような発表になったのだから、一体政府はこれまで何をしていたんだと、怒りというよりもあきれてものが言えない。
スケールが違うから、動かす人がうんと多くなる。人の数が多くなると、それだけ思惑が絡む。裏方が考えたように人は動かない。でも、先輩教務主任は、人の動かし方をメモしてくれたわけではない。全体をみるというときの、時間軸による目の配り方を示唆したにすぎない。これは、自分が何をどうしたいということを抜きにして「全体」を見渡すときに必要とされる視線である。そうでなければ、「不適宜に出来する出来事」に対処する場当たり的な対策にしかならない。
一体政府は、去年一年間のコロナ禍をなんだと思っていたのだろう。すぐにでも収まるパンデミックとでも考えていたのだろうか。それとも、インフルエンザと同程度の、ワクチンができれば簡単に収まるとでも思っていたのか。でも、だとすると、ワクチンの手配くらいは、早々と済ませておいてもよさそうなものなのに、いまの出後れをみていると、それも見通していなかったのかと思わざるを得ない。
エリートを誇った日本のお役所も、宰相の忖度をすることしか眼中になくて、その日暮らしなのだろうか。たぶん今年、90歳になっているであろう先輩教務主任の方が、宰相を支える人の目にふさわしい。
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