2021年8月12日木曜日

こんなことがあったのか

 20世紀前半にドイツ語圏で健筆を振るった、作家・ジャーナリスト、カール・クラウスの言語論を取り上げた、古田徹也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ、2018年)を読んでいて、二つの事実を知った。

(1)ナチス・ドイツでも「言語浄化運動」というものがあり、ドイツ語に混じるフランス語起源の言葉をドイツ語に「戻す」運動があったと言うこと。日本でも戦前、日常語として使われている英語由来のカタカナの外来語を「日本語にする」ことがあった。アメリカ渡りのスポーツであった野球にはことに多く、大変だったと、ほとんど冗談話のように耳にしてもいた。そうか、ドイツでもあったんだ。古田が取り上げている事例は、フランス語由来の「Adresse(住所、宛名、上奏文、請願書、メッセージ、等)」を避けて、「Ansehrift(住所、宛名)」で代用させようというもの。

 クラウスはAdresseというフランス語が人々の暮らしの中で蓄えてきた多面的な「意味」が、ドイツ語で宛名、住所を意味するのは「Aufschrift」だが、それは、上書き、レッテル、碑文、銘文、宛名、住所を意味して請願書やメッセージという意味合いがこめられない。AdresseはAufschriftに置き換えることはできない。だからこそ、外来語としてドイツ語圏で導入されたのであろう。それを避けようと、「Ansehrift」と切り替えたのだが、逆にそれは、「書かれたものといういうイメージを無理矢理抑えつけて初めて獲得されるような意味」となり、平板化をもたらしてしまう。

 つまり、言葉の持っている生成由来は、ヒトの暮らしの形をなしたものであって、機能的に意味するものを限定して用いられている記号ではないということだ。だから、外来語には、そうなる由来があるわけであって、それを用いるときは、その都度、文化的な壁を越えていくだけの多面的な「意味」の言い換えや付け加えが必要となると言える。

(2)「最近では言葉の意味を閣議決定するケースすら出てきたことなどを鑑みれば・・・」と古田が記し、クラウスの指摘する「そうした文化」が現代日本でも生じていることを示している。へえ、そういうことがあるんだと脚注を参照する。脚注には、2017年4月19日に安倍晋三首相が国会答弁で使った「そもそも」という言葉には「基本的という意味もある」と応じた正当性を明かすために、5月12日の閣議で決定したとあった。

 とっくに私は政治家の国会答弁に関心を持たなかったから知らなかったが、そういうことを閣議決定するというのは、暮らしの中で培われた多面性を削ぎ取って、政治支配の符丁にしてしまう所業である。安倍晋三は、そのように自分の言葉の正当性を外部的に取り繕ってもらわねばならないような言葉の使い方をしてきたと言うことがわかる。だがそれ以上に私が懸念するのは、その閣議決定は、安倍首相の用語法を正当化するよりも、閣議の権威を損なうものだと思う。この宰相はしばしば閣議決定というものを、そのように用いてきたが、それは着実に政府の権威を損なっており、庶民の政治に対する信頼を失わせることになっている。

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「そもそも」という言葉を、古典基礎語辞典でひくと「接続詞のソモを二つ重ねた語。ソモは話を切り出すときの発語。ソモソモはこれをつよめたもので、やはり物事を説き起こしたり、強く切り出すときに用いる」と、解説がつけてある。語釈としては「接続詞として、いったい。さて。それとも。名詞として、はじめ。おこり。近世以降の用法」と付け加えている。閣議決定の「基本、土台の意味」はどこを探してもない。

 政治家の空疎な言葉だけではない。言葉がヒトの第六感というのは、人類史的な歩みの集積であるが故に多面的であり、いろいろな意味合いが含まれ、言い換えも聞く。しかし、その言葉が適切にしっくりくることこそ、実は、その言葉を使っている「わたし」が人類史に連なっている瞬間であり、それを実感するときなのだ。クラウスは立体的に言葉を理解すると言ったり、趣味やこだわりではなく言葉に対する責任の問題と言っているらしい。そうか、人類史的な暮らしへの「責任」を、いまの「わたし」も背負っているのだと思った。

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