マキャベッリの『ディスコルシ』(永井三明訳、ちくま学芸文庫、2011年)は、文字通り、談論風発の意気込みを内包している。「ローマ史」と書名の副題で銘打っているが、むしろ当時マキャベッリが身を置いていたフィレンツェの政治状況を、長い目で見て立て直すには何が必要かを、ティトウス・リウィウスの著した『ローマ史』(BC.56)を起点に論じてみようという意気込みに満ちている。この「意気込み」こそが、マキャベッリが現代の私たちに遺した贈り物ではないかと思いつつ、目下、読み進めている。
専制か民主制かは、中国ばかりか、ミャンマーも、アフガンなどを巡ってもっぱらの政治論議の中心課題になる。情報を巡るフェイクかトゥルースか、告発と中傷を巡る争いもまた、500年後のいまと同じように、当時のフィレンツェでも論題になっていたようだ。それの善し悪しを直に据えるのではなく、ローマ史に学ぶというスタンスでマキャベッリは俎上にあげ、いろいろな記述事例を引用して、展開する。王制がいいか共和制がいいかをやりとりする視野が、始祖のロムルスからはじまるから、いわば、マキャベッリが本書を書いているまでの2000年間のローマやフィレンツェ(イタリア)を一視に納めて、回遊する。リウィウスのローマ史が読むものの共通起点として作動しているのであろう。それとして記述されているわけではないが、そう窺われる。私などは、高校時代の世界史で学んだ記憶が、せいぜいの共通認識。
つまり、フィレンツェの状況をめぐるマキャベッリ自身の胸中がどのように形づくられ、どうすることをよしと考えているかが、ローマ史を引き合いに出すかたちで記述されているのだ。そこには、彼の民衆観や社会観、国家観、とどのつまり人間観が脈々と流れていて、ではおまえさんはどう考えるのかねと、読者である私は問われているように感じながら、読み進める。それこそが、実は、共和制的な(いまで謂う)民主主義のプロセスだと感じさせるのである。その感触は、政治学を動態的に論じている気配ともいえようか。
マキャベッリという人は『君主論』の著者くらいしか印象を持っていなかった。というか、近代政治学を築いた人と考えてはいたが、権謀術数や政治構想の泥沼を結果責任に結びつけて、政治論議を機能的に見えるようにした人物と考えていた。
だがそうではない。彼自身が、本書を記しながら、政治体制の有り様を探っている。そのプロセスが実は共和制的なプロセスに欠かせない「近代化」だと、もし後の時代を見ることができていれば、マキャベッリは謂ったにちがいない。そう思わせる興味深い記述である。それだけの共通の文化遺産を伝えてきたイタリアって、ワインの里ってだけじゃなくて、面白そうだ。
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