お盆明けの今日が、母親の正月命日。もう7年になる。104歳、長命であった。父親は75歳で亡くなり、今年37回忌を迎えると衣鉢を継いだ弟のヨメさんから聞いて、思いを新たにしている。
両方の享年を単純に平均すると、私は92,3歳まで生きることになる。正直、いやこの先、まだ長いなあと感じる。だが私の末弟は64歳で病没しているし、長兄は77歳で突然の死を迎えているから、子と言えども親の寿命をそのまま受け継ぐわけではないと、これまた単純にわかってはいる。ただ、躰の資質そのものはそれなりに受け継いでいるであろうから、あとは時代的な環境と、何をどのように食べ、どのように暮らしてきたかという自らの生き方が関わってくるといえそうだ。
後者のはじき出した寿命が、いわゆる平均寿命だ。2019年の日本人男性は、約81歳。それと前者の寿命数値93として、その平均をとると、87歳。こうなると、いまから8年ということになる。うん、これくらいなら身のうちの感触として「納得できる」ほどの数値だと思う。
宇野千代だったかが百歳を迎える頃、「わたし死なないんじゃないかしら」といったのを耳にした(か目にした)ことがある。生きている人としては、自分の寿命を事前に感知することはできないのかもしれない。物語の世界で、主人公が死期を意識して振る舞うということが時々見られるが、あれは、重い病を患って身のうちからひたひたと寿命の針が残りの時を刻むのが響くからであろう。青山文平の小説であったか、仕えていた殿の没後、殉死をせず、その殿の時代の編年記録を書きつづけ、それが何年か後に仕上がってから腹を切ったというのがあった(ように思う)。自らのお勤めを死ぬことと見つけたりという死生観がなければ、つまり彼岸から現在を見る目をもたなければ、なかなか自らの死期を察知することができない。
まして、今の時代のように、何をおいても生き続けることが第一という死生観が社会に蔓延していては、自ら命を絶つこともかなわない。にもかかわらず、「ちょっと長すぎる」と感じたり、「納得できるほどの数値」と感じるのは、何だろう。
漠然とこれまでの人生を概括して、我が身につけてきた視線の先へ届く距離だろうか。それ以上になると、視界はすっかりぼやけて見通しも立たない。視界距離の体感である。歳をとるとまず、体力が衰える。目も悪くなる。何よりも、生きようとする気力がだんだん希薄になってくる。
そしてすでに彼岸に渡った父母や兄弟が、日々近しい感触で我が身の傍らにいるように感じることが多い。先を見るよりも、歩き渡ってきた過去と形跡がよみがえって現在の我が身の振る舞いと重なって「意味」をもたらしてくるが、気になる。
伝え残すことは、あまたあるようにも思うが、いやそれほど気負わなくても、大丈夫よ、あなたなしでも、子ども世代はやってけますよと、コロナウィルスで自粛している生活が事実として示しているともいえる。せいぜい7,8年。それくらいが適当だ。
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