2021年8月10日火曜日

ゲシュタルト崩壊と物語

 オリンピックが終わった。全国紙が5ページ全面を使って「入賞者と日本選手の成績」を一覧にしている。こんなにたくさんの種目が行われていたというのを、関心がないこともあって、知らなかった。ときどきTVで報道されるのを気ままに観るだけだったから、ま、普通の庶民。

 おやっ? と思う報道があった。アメリカの女子体操選手が「決勝を出場拒否」と聞いた。シモーネ・バイルズという方。これまで金メダルを19個も取っていて「絶対女王」と呼ばれていたらしい。その彼女が「心の問題」で出場を拒否という。チラリと見た記事では、「自分が何をしているのかわからない」と惑泥していたそうだ。

 ああ、ゲシュタルト崩壊が起こっていると、私は受け止めた。ゲシュタルト崩壊というのは哲学者が好んで使う用語だが、ゲシュタルト=形、が捉えられなくなる。自分がしゃべっているコトバが、ある瞬間に何を言っているのかわからなくなるとか、書き慣れているはずの漢字が、はてこれでよかったろうかと、違って見えるような感覚を指している。

 シモーネ・バイルズに起こっているのがそれかどうかは知らないが、「絶対女王」が団体決勝を前にして「自分が何をしているかわからない」というのは、体操という競技の限定された場でどう振る舞うかというだけでなく、その振る舞っている自分の人生において、それはどういう意味を持っているか、自分の振るまいが世界に反響してアメリカの栄誉として跳ね返ってくることとは、どういう意味を持つのかと、自分自身でもわからなくなる。そういう惑泥ではなかったろうか。

 スポーツは限定したルールの「場」で競い合うと考えていたが、その「場」そのものがスポーツ選手にとっては人生そのものを賭けているようにさえなる。まして、「絶対女王」と呼ばれ、ヒロインとして讃えられ、ネーションを担うかのようにコトバを浴びせられる。それに応えようとするのも、人の常。そう振る舞ううちに、「わたし」はなんで、今、こんなことをしているんだろうと、宇宙からの視線で我が身を観るように感じる瞬間がある。そうしたとき仏教では、「色即是空 空即是色」と達観を教えているが、それは自分の立ち位置を固定しないで、全体像を眺めたときの印象のようなものだ。「絶対女王」という「色」=ゲシュタルト=かたちは、金メダルを受けたその瞬間のものであって、「是空」に過ぎないと受け止めなさいと教えている。

 ルールは限定しているが、我が人生はそれで終わりってわけじゃない。限られた「場」で得た栄誉は、すなわち「空」と考えていないと、わけがわからなくなる。ましてアメリカの黒人であるバイルズにすると、常にその狭間に身を引き裂かれるようにして活動しているから、自らの人生を通して今この瞬間に行っている活動がどう位置づけられるのかと意味を自問自答することになる。まして今アメリカ社会は、人種モンダイなどが混沌の様相を呈している。その中でナショナルフラッグを背負って限定された「場」で活躍する「絶対女王」って何だと、自問自答したくなるのは(何かの領域で頂点に立ったことなどない私がいうのは、あまり妥当ではないが)よくわかる。

 著名人としてのバイルズの振る舞いが、報道を介して大衆に伝えられるときには、庶民にも通じる物語が必要として添加されるから、わかりやすく鄙俗になり、その時代や社会の一般的な物語を反映する。柔道の阿部兄妹やレスリングの川井姉妹の同時金メダルとか、卓球混合ダブルス金メダルの、水谷隼と伊藤美誠の15年前からの兄妹のような話とかは、わかりやすい。そうした涙の物語がウケる。報道を介してみるオリンピックは、そうした物語のオリンピックでもあった。強制送還のような話もあれば、亡命もあった。

 二つ、私の目を引いた物語があった。

 ひとつ、自転車女子オムニアム銀メダル・梶原悠未。オムニアムの競技のことは知らないが、ケイリンの一種。彼女は自身の競技トレーニングを続けながら、大学院に身を置いて目下、修士論文の制作にも力を尽くしている。そのテーマは、自転車競技でトップアスリートになるまで。その教科書を書いていくことと、自らのトレーニングと、(たぶん)この後の人生で自転車競技を広め盛り上げていきたいと考えていることとが一つになって、今回の銀メダルは是非ともほしかった勲章であるし、この銀メダルでいくらか自転車の面白さを皆さんに知ってもらえると喜んでいるというTV番組の話だ。面白い。かっちりと競技と人生と彼女の「せかい」とが噛み合ってここまで来たんだなと感心する。

 もうひとつ。ボクシング女子フェザー級金メダル・入江聖奈。これも金メダルを取って後のTV番組で観たのだが、いまの大学を卒業したらボクシングをやめるという。「どこかでキリをつけたいけど、卒業したらやめるとしないとずるずるといってしまいそう」というのが、面白い。「場」を限定して自らの人生を生きている。しかも卒業したら「カエルに関わる仕事をしたい」と、これまた趣味丸出し。ぺこりぺこりと行儀がいいと褒められると、「愛想よくしてると敵が少なくなる」と笑い飛ばす。ああ、いまの若い子たちは、自分の「かたち」を「場」を切り分けてとらえている。バイルズもこの境地にまで至っていれば、「心の問題」にならなかったかもしれないと、人種モンダイのやっかいさをすっ飛ばして、思っている。

 ふたつとも、自らを対象として見つめる視線がきっちりと備わっている。

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