8/5の朝日新聞にオリンピックの「魅力や意義とは何なのか。」と問い「集まる、観る、讃える 五輪の求心力」と題する記事が載った。「納富信留・東京大学教授(西洋古代哲学)と考えた」大内悟史記者のまとめ。
これまで何回かこのブログに掲載してきた五輪と新型コロナ禍との関係に目をとめた企画記事。いくつか気になる点があった。
(1)「ギリシャ世界の神ゼウスに捧げる宗教的な祭典」であったという。「肉体と精神の鍛錬や国際交流といった魅力の核心部分は、現代でも失われていない」というが、その共有されている中核部分の「神ゼウスに近づく」精神に取って代わっているのは、現代においては、何であろうか。大衆社会や情報化社会のもたらす「栄誉」とは何か。それが「資本家社会的な市場経済」の論理に組み込まれて作動するのは、致し方ないのではないか。それを総括する「哲学」とは何か。
(2)神なきあとの「栄誉」を支える「哲学」とは何か。「集まり、観る、讃える」という「国際交流の魅力」だとすると、もはやオリンピックだけではなく、スポーツ競技の世界組織と大会はそれなりにしつらえられている。オリンピックならではという「集まり、観る、讃える」魅力が、マイナーな競技や小国からの参加も含めて交流することにあるとすると、それを支える「哲学」とは何か。
(3)「紀元前8世紀から紀元後4世紀にかけての1100年超の間に293回開かれた」間の、紀元前4世紀の半ばにはアレクサンドロス大王のギリシャ統一と東方遠征が開始され、大帝国が築かれていった。その後は、ローマ帝国の登場といういわば(当時としては)世界大の「帝国」が成立していた。「ギリシャの神ゼウスに捧げる」という宗教的求心力と世界秩序のルールがアレクサンドロスの帝国なりローマ帝国なりの政治的支配力に依存することによって支えられてきた。後者の、政治的支配力は、米中という中心軸の移動変容はあるにしても、それなりにある。だが(グローバルに観て)、ゼウスに代わって「神」の位置を占めているのは「資本家社会的市場原理」である。でもそれは、機能的なメカニズムではあっても、精神的な基軸ではない。その位置に座るのは「貨幣の物神崇拝性」かと、冗談交じりにでも行ってみたくなる昨今の気配。
(4)「「より速く、より高く、より強く」という比較級の形で神に近づくこと目指す選手たちの実践活動」が、神なき里の人の行為として「生産力主義的」に見えるのも無理はない。それが逆に、人の振る舞いとして限定的な場であるというルールを示しもする。「神に近づく」という絶対的行為ではなく、「人の世の限定的振る舞い」とすることによって、スポーツは「場」を定め、たかがスポーツ、されどスポーツという認知を得ることになった。人類史的な人間活動の延長と観ることが、ヒトとしての共感性を呼び起こす。それが「観る、讃える」根底にある。ヒトとしての共感性とは、動物としてのヒトの自己認知でもある。そこに自然観が含まれ、ヒトとしての求心力になる。つまり、他の動物や生物との対比が予感できる端境の領域に立つことによって、次なる次元に自らを位置づける「哲学」の端緒につくのである。
この記事の文中に「古代ギリシャにもオリンピックを批判する知識人がいた。」として「競技参加者が専業化して精神と肉体の均衡を失っている、優勝者が過度に優遇されている、政治指導者や富裕層が権力や富を誇示する場になっている、などと現代にも通じる論点が見られたという」と、表層をなぞる批判を取り上げている。これでは「哲学」に至らない。競技を観ることによる「求心力」は、もっとヒトの本性に沿って掘り下げ、底に足がついた地点から組み上げていくしかない。「過度な美化を避けながらも、オリンピックの原点に立ち返った改革を模索すべきだ」というお定まりの提言で締めくくっては、せっかく「哲学不在」から論を立て直そうというのに、不十分である。面白い論点を流してしまわないように、そんなことを思った。
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