今日で9月が終わる。1年の4分の3。これは、コロナウィルスの到来から1年と4分の3でもある。この間にどれだけ学ぶことができたかが、人類の叡智ということになろうが、そう考えてみると、「現代」の歪が浮き彫りになる。
(1)コロナウィルスの発生源とその拡散経路の探査は、分からずじまい。国家利害の対立に阻まれて雲散霧消してしまっている。その国家利害も、その国の統治者の代表する部分的な利害が前面に出ていて、どこにも「全体の代表者」という気配を感じない。第二次大戦の折に、連合国は「全体主義vs.民主主義」という対立構図を「叡智の上着」にした。後にその上着を「理念」と呼ぶと,戦中生まれ戦後育ちの私たちは知って、それなりにまとった。
今やそれさえも、脱ぎ捨てたと言えようか。いや、かつては「叡智の上着」らしいぱりぱりにみえた上着であった「理念」も、長年着ているうちにすり切れてボロボロになり、もはや下着が透けて見えるようになった。それを取り繕う「理念」を、すでに世界は持ち合わせていなかったのであった。
着古した上着のせいというよりも、世界の進展とそれに伴う人間の変容が、窮屈になった上着を取り替えることを求めているとも言える。だがグローバリズムという戦後理念の延長で取り繕うことをしてきたから、「にんげん」としての一体性すらも見失ってしまう様相を呈するようになった。それが大統領選におけるヒラリー・クリントンの敗北であった。
その対抗軸が、トランプだったことが、「人類の叡智」の貧困を語っている。かれは、下着姿にしたのは、そもそもの上着であったと、その「(近代の)理念が裸である」ことを衝いた。だったら何も隠すことはないと、グローバリズムにおける「強さ」をむき出しにして、しかも対面交渉という「弱いもの相手」には一番の武器を取り出して、世界を4年間掻き回してきた。それが大国トランプの時代であった。
(2)他方で、「理念の根拠」から編み直すことも始められていた。「自由と民主という近代の上着」もさることながら、気候変動という「近代のもたらした災厄」に目をとめ、そこに「人類連帯の必要性の根拠」を置き、羽織る上着を紡ぎ直そうという西欧発のエコロジー。コロナウィルスが到来したこともあって、ますます「人類連帯の必要性」は求められたのだが、発生源の調査どころか、ウィルスへの対処の仕方についても諸国統治者の思惑が絡んで、一様に進まない。それどころか、ワクチン接種の優先順位が、やはり国民国家対立的に、かつ資本家社会的に行われている。感染拡大がなぜ起こるのか、なぜ縮減するのかを、1年と4分の3経っても「わからない」と為政当事者がいう。しかもワクチンも、シートベルト程度にしか利かないといわれては、自己防衛的に用心するほかない。つまり、国家の統治機能さえ信用を失い、科学的判断への信頼も、WHOなど専門機関の権威も薄れ始めている。
(3)人類が積み上げてきた「上着」が剥がれてくるとともに、国家的な統治や世界的な仕組みに対する幻想が浮き彫りになった。マスクをするしないということも、蓄積してきた文化の違いがむき出しになって収まりがつかない。何がフェイクか,何がほんとうかも、自ら見極めるほかない事態になっている。とどのつまり、自分たちのことは自分たちで護るしかないと「自律の志」が芽生えてきた(かもしれない)。思えばこれは、人類史の原点に戻るような「自律」だ。だがそれも、国民国家という「現代の枷」が囲い込み、その中での「自律」と、甚だ心許ない。「民主主義vs.専制主義」という構図を描き出して、夢の再来を試みている大国家リーダーもいるが、果たしてそれで昔日の「人類史的連帯感覚」が戻っているかどうか、頼りない思いをしている。
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そういうわけで、はなはだお先真っ暗の「自助・自律」状態におかれている庶民としては、なにが「まことのことか」を一つひとつのデキゴト毎に,自らの自画像を描くように吟味しながら,一歩一歩先へ歩いて行くしかない。この情報化時代に。慥かに心許ないが、心持ちの環境としてはかえってサバサバして、さあここからジンルイ史を紡ぐことになるぞと決意するような気分ではある。出立したばかりのホモ・サピエンスと思えば、不安と一緒にわくわくするような思いが湧き起こってくる。
と、いいなあと、年寄りは考えている。
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