いま鈴木正興『〈戯作〉郁之亮御江戸遊学始末録』(原町書肆、2021年)を読みすすめている。全四十八段のうち十四段を読み終わったところ。いや、実に大作である。A4版の三段組みで300頁になろうという。しかも、びっしりと文字が詰まっている。この作家から頂戴した手書きの「自称「小説」謹呈の御挨拶」は、こう記している。
《……しかのみならずモンダイは小生の文章の書き方、即ち一般の常識に悖るビッシリ書きとでも言うような書き方です。とにかく隙間なく文字を羅ね列べ、しかもやたらにルビ付きの漢字が押しくら饅頭しているとあっては読みづらさは必定、何しろ間も余白が殆どないのですから。今まさに目を通しておられるこの挨拶文もそうですよね。で、この言わばビッシリ書きの弊風はキューポラのある街の長屋で育った自分の生育歴に由来する貧乏性の所為でして、その故をもって余白ができやすい段落の設定や行替え、意味ありげな二、三行空け等々は可及的に忌避し、また会話部分もこれこそは行換えの必要があり、各種の小説を見ても、例えば「あっ!」だけでも一行分取ったりしてますが、読みやすいのは理解しても、ああ何と勿体ないとの感の方が強く、斯くして小生の場合は基本的に読みづらさも構わずの言わば連ね書きとなっています。……》
この「挨拶」状を一読してわかるように、この方、一癖も二癖もあるメンドクサイ作家なのだ。ちなみに、メンドクサイというのは、読む方の感懐であって、ご当人はすでに積年の蓄積もあって身に染みこんだクセとなっていて煩わしいとも感じていないはず。ただ、歳をとると、わが身も外界と溶け合うのか、だんだん輪郭がぼやけてどうでも良くなるのか、我がクセながら身の動きが追いつかず、我がことをメンドクサイなあと吾輩も思うようになっている。そのメンドクサさは、作者も読者も同じように歳をとることで進行している。なかなか融通無碍にはいかないのだね。
加えて、これを頂戴したのが11/16。その月の後半、珍しく私に忙しい予定が続いていて、歩いたり電車に乗って遠出したりすることが多く、読む暇がない。
何しろ、持ち歩けるようなしろものではないのだ。大きく、重い。重いと言えば何kg? と、この作家がクセを発動して聞きそうだから、量ってみた。650gもある。厚さも11mmあった。400字詰め原稿用紙で1600枚あると作家自身は「御挨拶」に書いているが、この方、パソコンを打つでもなく、文字通り原稿用紙に書き付けているから、正味1600枚ということ。常なる編集なら2000枚ほどに相当すると自称している。例えばいま手元にあるピエール・ブルデューの『世界の悲惨Ⅰ』(藤原書店、2019年)はB5版490頁。1頁1000字ほどだから、400字詰めで1200枚ほどの計算になる。だが、デザイナーのセンスを生かす為もあるのか、章割の扉にも2頁をたっぷり余白を取ったり、途中に挟まるインタビューも、余白を気にしない余裕の編集になっているから、正味で言うと大分少なく2割減になるかな。厚さは32mmもある。つまり貧乏性の作家の腹心の原町書肆が、資質も薄手の上質紙を使いながら、大部をものの見事に詰め込んで仕上げているとみた。
読むのが遅滞しているのには、ほかの事情も加わる。しばらく前に図書館に注文していた本が届く。別にふれているカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』。これは、返却期限がある。こちらは私の貧乏性といえば言えなくもないが、むしろ私は「反贅沢症」という気分が作用していると思っている。本は「共助」に頼ることにしているから、そちらをまず読まねばならない。そうこうしていると、上記ブルデューの圧巻がⅠ、Ⅱ、Ⅲと届いて、全体通して1533頁の通しページが打ってある。これはとても期限内には読み切れないわと悲鳴を上げそう。
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そういうわけで、『〈戯作〉郁之亮御江戸遊学始末録』は、気が向いたときに一段落ずつ読むようにして、やっと今、十四段を読み終わったのであった。
また因みに、この小説、聊斎志異などと同じように段落毎に、その節の概要を表すかのような表題が、さながら川柳風情の17文字で綴られている。ちょっと紹介しておこう。
四 眉上げて江戸事始めは長屋から
五 ご覧じろこの塾風や破天荒
六 小童が渓を成りて睦み来る
七 捨てなされ狷介一途の裃は
という調子。六の「成り」は「つくり」とルビが振ってある。これこそ「遊学」と言わんばかりに作家も遊び興じていることが伝わってくるではないか。
自らは〈戯作〉と銘打っている。「声に出して読む小説」とこの作家のエクリチュールを評した方がいて、《本当に音読すると咽喉をやられますので御注意ください》と先述の「御挨拶」にも記している。作家は「御挨拶」にこう記す。
《いっそのこと、その江戸時代後期町人文化が興隆していた頃、民間で流行した軽易な通俗小説を総称して「戯作」と言っていましたが、まあそのような一種調子こいた類いのものと思ってもらえば適当かも知れません。したがって前述した如く「近代小説」が時空を貫いて人間存在等に関する根源的な意味を問い続けてやまないのに比し、小生のはさような面での桎梏はなく、内容に重たさが必要ありませんので、その点気分はへっちゃら、我が「小説」への思いはただひとつ、話の筋があっちへ行ったりこっちへ行ったり蛇行するにしても淀まず流れる水のような、或いはまた耳朶を掠め過る風のような読物となってほしい、それだけでした。そのため物語の途中読み手に「ここは何を訴えようとしているのか」とか「作者の真意は奈辺にあるのか」なんぞと立ち止まって考えてもらっては本意に反しますので、そこはそれ「そんなこといいから、はい、さっさと行きませう」と調子こいたテンポ感で先を急がせるふうにしています。》
こういう芸風が、もう半世紀も前になりますが、「韜晦」と非難されたことがあります。私はこれを「遊びをせんとや生まれけむ」という人間本性、つまりヒトのクセの花咲き花散る様子と受けとっていました。大真面目に「韜晦」批判をなさる方々の、大上段ぶりをじつは揶揄していたのですから。
読み進めるとまさしく講談を聞いているような気分になり、耳朶に響く声を聞き分けると、作家と呼ぶよりも戯作者と言ってよと行間から聞こえてくるようです。
しかし、では戯作というのは酔狂と気分次第でしゃらしゃらと自在に書き流せるかというと、そうではないと、読んでみればわかる。いや、読んでは流れるような記述であるにしても、その土地土地の地理地形から神社仏閣の由緒由来、登場する人物の風体立ち居振る舞い、出自とその落ちぶれてきた径庭などを落ち着かせるためには、書き表されていない部分への深い考察がずいぶんと必要になる。あたかも海に浮かぶ氷山のように、9割方は見えないが重心を保ち、海上の突出部分を支え、どっしりと深く重く、由緒由来を沈黙に代えて潜在している。さらに洋学塾に学ぶ若侍を主人公に仕立ててあるとなると、江戸期の教養流行の行雲流水。唐来ものは言うに及ばず、和蘭陀やエゲレスなどの洋学の知恵知識があの手この手で流れ込み、それらを談じ論じる多士済々のお噺となるから、天文学、地学、植物学、化学、医学、鳥や獣学、昆虫学、薬学から、数学、哲学、歴史事情などなどに至る深い造詣が底流していなければ、なかなかどうして、お噺は停留して流れは止まり瀞となって淀んでしまう。しかもこの洋学塾、談論風発を旨として、欧風文化の位置づけなども方法論的にやりとりする場面もおいている。その視線は、まさしくこの作家の豊潤な内部から醸し出されてきている。
つまり、この〈戯作〉は、この作家の畢生の作品と自称するだけあって、謂わばこの作家の全人生が投入され、反映されている。自身は「近代小説」とはみないでくれと懇願の態であるが、読み取る側からすると、戦中生まれ戦後育ちという(今となっては)特異な世代に属するこの〈戯作者〉の辿った人生を鳥瞰しているような趣を感じる。
時代を江戸期に取ったのは、「近代の夢」から一歩ステップアウトした視点を確保するため。つまり渦中にいて渦を見極めるがムツカシイは必定という天下の作法に則って、「近代」から足場を脇へ移し、そこから「近代」を歩いた己が人生を鳥瞰してみれば、どのような物語りが紡げるか。そういう視線こそが、客観視の第一法則なのだからである。
もちろん客観視とか主観に満ちているとかは、この作家には関係がないと撥ね付けられるかも知れない。というのは、この〈戯作〉は、登場人物を一人として抽象化しているわけでもないし、何かを表象させようと設定されているわけでもない。まさしく一人一人がすべて、然るべく生きて然るべく姿を変容させ、いずれ消えてゆくかけがえのない特定人物そのものとして登場してくるからである。それが「近代」を抜けている証拠だとでもいうように、まさしく「お噺」として語られている。
社会を語るでもなく国家を語るでもなく、何かのテーマに限定して人を語るでもなく、生きた意味合いを取り出すでもなく、生きた姿をそのままに「かかわり」としておいて、人ってそういうものだと、まるごと、もちろん整理して秩序立てるなどという余計なことは読み手に任せて、雑然と投げ出すように開陳している。それがこの〈戯作〉を棒のように貫いていると感じ、その手応えの慥かさに震えるような気分の昂揚を覚えている。そうだ、これこそ私がイメージしていた人生ってもんだと、軽い感動に包まれて、我田引水している。
とは言え、この作家を結局私は何も知らないのだとわかるのが、まず第一の読後感である。先述の海の下の海氷の水没部分のように、この〈戯作〉を読むほどに、知らない鈴木正興像が浮かび上がる。しかもそれで「わかったか」というと、とんでもない。奥深く、底知れない。これフェイク? それともトゥルース? という疑問を各所に残し、その言い回し、表示に戸惑って、何度も辞書を引き、典拠が中華文明の古代の文献古俚にあることを知ったり、ただの洒落だったりすることに思い当たって苦笑いする。これも、読書の娯しみと気持ちを解き放てば、ますます、この作家のメンドクサイところが面白くなる。この作家の蓄積・所業にとうてい及ばない私も、その文化のお裾分けに預かるような気分で、誇らしくもうれしい。どうだい、オレにもこんな作家の友達がいたんだぜって! 或いは、もう少し弾んで、どうだい戦中生まれ戦後育ちって、こんなもんだぜって。
まだ当分、郁之助の遊学始末を味わい、戯作者・鈴木正興さんの人生やかくあらんと、彼を見知ってからの54年間を振り返って娯しむことができそう。ありがとう、郁之亮。ありがとう、鈴木正興。