2021年12月31日金曜日

あやしうこそものぐるおしきエクリチュール

 コロナウィルスのおかげで足止めを食らって蟄居しているから、日暮らしパソコンに向かってよしなしごとを綴り、このブログにアップしている。そのうちのいくつかをピックアップして古くからの友人に毎月、「ささらほうさら・無冠」を制作し、送りつけていた。友人がアナログ世代であることはもちろんだが、デジタルに馴染んでいる人たちも多くなってはいるが、やはり紙にプリントされたものの方が、手に取って読んでもらうには良いと思うから、そうしている。

 一人、毎月の私の「無冠」に関して返信をくれる、完璧アナログの友人がいる。一枚の葉書の裏表に1千字ほどをビッシリと書き込んで送ってくれる。ときにはハガキに収まらず、6000字となったり、8000字となって封書で戻ってくる。ははあ、元気になったと、調子が良い証のように受け止めている。この方、肺を患い心臓にも問題を持ち、ここ十年ほどは低空飛行。ご両親は長寿であったからその血統を受け継いでいることが唯一の便りという風情。このところのコロナウィルス蔓延のせいで、逢うことも適わなくなり、月々の返信が健康状態の唯一の便り。

 だが、長く逢わぬ間に四百字詰め原稿用紙で1600枚に及ぶ「小説」『〈戯作〉郁之亮御江戸遊学始末録』を仕上げて上梓、目下読み続けている。それくらい元気になったのだと安心していたら、今月のハガキには、「……体調思わしくなく気持ちも少々萎え気味」と前置きして、でも裏表ビッシリと書き綴っていた。

 その中に先月号の「無冠」が四百字詰め原稿用紙で150枚とあって、それで自分の調子を測る手もあると思った。ブログ記事は、ファイルにしてまとめているから、どれくらい書いたかチェックするのは、それほど難しくない。ファイル・テキストは1800字1頁のスペースになっているので、四百字詰め原稿用紙にしておおよその4枚。ファイルはテキスト頁を知らせてくれるから、はじめてそれを数字に起こして四百字詰め原稿用紙の枚数に換算してみたら、面白いことが見えてきた。年の瀬にふさわしい見返りとなるか。

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 このブログは、2007年の11月から始めている。65歳の高齢者になった翌月から現在まで14年ということになる。2008年から2011年までは年間500枚ほどから800枚ほどへと緩やかに増えている。

 2012年に1100枚を超えた。この年から山の会が始まった。山行記録を書いて月間の「山歩講通信」に載せた。2013年には1400枚近くに増えた。この年3月定年後にやっていた大学講師の仕事が終わりとなり、ならばやろうよと声をかけられ、36会という高校同期生在京組のseminarを始めた。そのせいもあって、こまめにメモを取るようにしたせいもある。seminar後の「ご報告」を書くこともした。山へ足を運ぶことも多くなった。

 2014年には1700枚になっている。この年、母親と兄弟二人が亡くなった。わが身の来し方を振り返ることも多くなり、書き付けることが頻繁になった。2015年1500枚と少し減ったが、この年、亡母と私の兄弟5人の人生を振り返って一冊にまとめ、写真集も添えて母親の一周忌に間に合わせて本にしてもらった。

 2016年には1800枚、2017年1700枚、2018年1500枚と月間120枚から150枚のペースで記録していっている。その間に後期高齢者になり、seminarも順調、山へ入る回数も多くなった。そうそう、2018年には、私の最初の孫が二十歳になることから『**と孫たちと爺婆の20年』と題して、初孫が生まれてからのち5人の孫たちと過ごした20年間の記録をまとめて一冊の本にして、プレゼントした。

 2019年1700枚とコンスタントに書き続けている。山に入ることが多くなり、山の会の人たちとも「槍ヶ岳を目指そう」とトレーニング山行を組んだ。ああ、良いペースで歩くようになったと私自身は喜んでいた。だが後で振り返ってみると、ほかの方々には過剰だったらしく、「槍」が終わってみると、ずいぶんと体に無理がかかっていたようであった。

 そしてコロナが襲来する2020年。実はこの年に高校の同期生が喜寿を迎えることもあって、田舎で同期会が企画された。在京組のseminarを「ご報告」するのには一番の機会。それもあって、5月の同期会に間に合わせようと大部のseminar記録1800枚をまとめはじめていた。A3版三段組みで300頁になった。しっかりとデザインしてもらって製本印刷し、『うちらあの人生わいらあの時代 古稀の構造色-36会seminar私記』と題して仕上げ、同期会の方々にお配りした。逼塞することが多くなったせいか1800枚も後半にさしかかるほどになった。

 2021年の4月には、私の山の遭難事故があり、入院加療が20日近く続き、右肩を壊していたのに1600枚と結構な枚数に上った。山に行けなくなった反動か、家に逼塞している憂さ晴らしか。まさしく徒然草。

 つれづれなるままに、日暮らしパソコンに向かいて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

2021年12月30日木曜日

今年の閲覧数

 去年のブログ閲覧数が送られてきて、そうかそうだったと今年のそれを覗いてみた。今年は、4月に山の事故があったせいか、7月からの記録しか残していない。だが、大きな変化があった。

 2021年の週平均閲覧数は、590。去年の4割減。一昨年の6割減である。週の最高閲覧数は、975。去年の週平均1002にも及ばない。一昨年の最高閲覧数のほぼ半分になっている。週の最低閲覧数は、349。おととしの最低閲覧数は815だったから、半分以下だ。

 このサービスサイトのブログ総数は、相変わらず30万件を超えている。これは去年も記したように、消滅放置ブログが9割ほどと考えると、総数そのものは問題にはならない。

 一つ気になるのは、一昨年と去年の間には、閲覧数と順位との間にそれほどの違いはなかったが、今年は大きな違いが生じている。去年の最高閲覧数は一昨年のそれより1割ほど減、順位も21000位から26100位へと下がっている。ところが今年の最高閲覧数が昨年のそれに比して4割減しているにもかかわらず、去年の順位26111位よりもグンと上がって、15042位となっている。これは何を意味しているか。

 一昨年と去年の間には消滅放置されるブログもあれば、新たに参入するブログもそこそこあって、若干の生きているブログ数減で済んでいたのだが、去年から今年にかけては、消滅放置を埋める参入ブログがなく、減る一方となっていると推察できる。ツイッターやチャット、その他のSNSに向かっていって、ブログというしんどいメディアは廃れていっていると考えられる。

 ま、閲覧数とかその順位とかはブログ主宰者の私にとっては、どうってこともない。だが、もしそれが、長い文章を読むのがメンドクサクなって、写真や画像で直に脳幹に飛び込んでくるメディアが好みになってもて囃されていっているのだとすると、やがて人間のものの見方や考え方や振る舞いの仕方が、大きく変わってきてしまうんじゃないか。いやじつは私自身も、新聞記事の長いのを読むのがメンドクサクなって、見出しだけ目を通して、ふ~んそんなことを言ってんのかと一知半解して通り過ぎることが多くなった。さすがに違和感を感じて一言批判的に触れるときには、長くても読むけれども、そうでなければざあっと観て流す。私のそれは、歳のせいだと自分で承知しているつもりだが、案外、歳などは関係なく、時代の文化がそういう方向へ流れているのかもしれない。

 先日(12/20)取り上げた、ハンナ・フライ『アルゴリズムの時代 HELLO WORLD』は、そうした人々の趣味嗜好まで思うように誘導する手法が行き渡って社会に蔓延していることを記していた。社会システムというか、町の作り方や環境の形によって適応しようとする私たち自身が身を変え、それにうまく適合する才能のスイッチを押して、それを継承していくことを思うと、単なる揣摩憶測とは思えない。

 とまれ、週平均閲覧数の方々には、1年間お付き合いくださいましてありがとうございました。メンドクサイ年寄りのよしなしごとをご笑覧くださったことに、厚く感謝申し上げます。

 コロナウィルスの第六波がいよいよ姿を現し始めたような報道。それにしても、感染が一番少なくなっていた11月の段階で、第6波のピークが2022年の1月下旬に来るんじゃないかといっていた専門家の見立て。日々報道される感染者数は、その「予言」に導かれるように数値を伸ばしている。さすがというか、見事というか。私たち市井の庶民の観ているのとは違った世界を見つめる人たちがいるとわかるだけで、この世界よろしくねとお願いしたくなります。

 佳い年をお迎えください。

2021年12月29日水曜日

「哲学する」グレーゾーン

 国分功一郎が「哲学する」ことについて触れた文章が、微妙なところで私の思念とスパークして、なるほどと思わせると共に、わが身に突き刺さる。

 近代政治思想の出発点とも謂われるホッブズの「自然権」に子細に触れ、それが原点から説き起こそうとしたことを評価した後に、スピノザがやはり、ホッブズと同じ「自然権」概念のもっと子細な解釈からホッブズの「リヴァイアサン」とは逆の政治哲学へ転回する過程を追ってきたあとで、当時イギリスで人気を博していたジョン・ロックの『政府二論』を取り上げている。

 その入口のところでレオ・シュトラウスの言を引用して、

《ロックは哲学者として哲学者たちに語ったというより、イギリス人としてイギリス人たちに語ったのだと述べている》

 と前置きして「そのような本として読むべきなのかも知れない」と手厳しい評価を下して、こう続ける。

《哲学は概念を用いて根拠を問う。新しい哲学が生まれるのは、それまでものごとを基礎づけていると見なされてきた根拠が改めて問い直されるときである。……対し、根拠が問われずに述べられたことは、どれだけ理論的に見えようとも、哲学にはならない。それは著者の単なる主張である。……ロックの自然状態論とは、まさしくそのような意味での主張である》

 と結論的に述べている(『近代政治哲学-自然・主権・行政』ちくま新書、2015年)。

 これが私にガツンときた。

 これまで、自らの自問自答を哲学していると考えて来た私にとって、半ばなるほどと思い半ば腑に落ちない思いがする。なぜだろうと立ち止まった。

 ホッブズとスピノザへの展開が「自然権」概念に関して受け渡すように語り出されていることは国分の追跡で明らかだが、スピノザとほぼ同じ時代に(オランダとイギリスという異なった土地で)活躍したロックは、自然状態を論じるときにホッブズの自然状態に関する言説を(根柢に立ち戻って)批判してではなく、自然状態には自然法があると提起して

《……すべての人類に〈一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由、または財産を傷つけるべきではない〉ということを教える》

 と引き取る。ホッブズは

《自然状態を描き出すに当たり「希望の平等」という非常に興味深い論点を提出してきた。この平等を根拠にして、戦争状態にまで至る論理が巧みに展開されていた》

 と、「自然状態」または「自然権」に対する根拠の差異を指摘し、ロックのそれには所有権の確立が前提されていると、その「根拠」の薄弱さを剔抉する。つまり、ロックのそれは、単なる主張に過ぎない=哲学ではないというわけだ。そしてロックは「イギリス人としてイギリス人に向けて語った」(つまり政治的言説)と見極めている。

 なるほど、そこまで根柢的に(自問自答であっても)やりとりをすることが「哲学する」ことなのかと、わが思考の底の浅さに思いを致す。

 と同時に、腑に落ちない思いも感じる。国分は「哲学者たちに語る哲学」を俎上にあげ(ようとし)ている。だが私はいつだって、「イギリス人がイギリス人に語って」いるように、日本人が日本人に語っている。というか、市井の庶民が市井の庶民に語るように、自問自答しているに過ぎない。そのとき、根源へ根源へと踏み込んでしまうと、まるでタマネギの皮を剝くように、どこまでも「わからないこと」が先に見える。といって(私にとって)スピノザやロックにあたるホッブズは何と問えば、敗戦体験まで戻る。敗戦体験以前の、わが身に伝承されている(親の立ち居振る舞い文化から伝えられた)大正教養主義は、私の無意識に沈んで土台となっている。そこへ降りたとうとするとき、いつも敗戦時の大転換が「齟齬」して、西欧的に身と心の、身体と精神との分裂をそのままに抱え込んでいるように感じられる。二つの違った文化流路が流れ込んで、いつも、何事に関しても引き裂かれた(アンビバレンツな)感懐を内心に生み出していると感じている。それが何かを突き止めようという思いが、私の哲学するである、と。

 こうも言えようか。

 国分が剔抉する「根拠」を探し求めて(わが身の内面へ遡るように)考え続けているのが私の「哲学する」一つの流路。もう一つが、現在の「わたし」が抱懐している「せかい」の奈辺に位置しているのかを位置づけようとして「哲学する」こと。

 その後者にあたる領域のひとつが、謂わば「政治哲学」と思ってきた。私がジョン・ロックに親しみを感じている(と今思って振り返ってみる)のは、戦後育ちの過程で意識世界に刻み込んできた第二次世界大戦への人類史的反省の産物、「日本国憲法」が、謂わば「根拠」のように(我が内心に)座っているからだ。それは、教育という形で外から持ち込まれたものでありながら、わが身の意識世界をかたどってきた原基であり、それを(日常の出来事に触発されて)対象化して批判的に再構成して受容していくことが、青年期以来の私の活動だと思っている。つまり哲学の歩んできた道筋を私は、門前の小僧としてしか知らないけれども、その門前の小僧の現代政治意識の一角にロックが位置を占めていることを好ましく感じているのだ。

 もちろん国分の提起する「哲学する」に敬意を感じている。彼のロックへの批判も理解できる。しかし私は、市井の庶民流の哲学する志を持ち続けていきたい。開き直るわけではなく、庶民の市井の道を歩いて行きたいと思うのである。

2021年12月28日火曜日

文化を忘れた金銭脳への偏り

 これまで日本社会をつくるのに経済脳ばかりになっていると批判してきました。もう少し子細にみると、経済脳であっても1980年代までの(つまり産業高度化過程の)日本の「資産」は、追いつき追い越せというモデル追随精神に溢れていたにせよ、世界の先端に追いつく気風に溢れていました。世界を牽引するほどの力が無いというのは、極東の島国という地政学的・歴史的な立ち位置から来る精神的核ではありましたが、高度経済成長が生み出す資金にも恵まれて、それなりに理化学研究や科学技術や人文社会科学にも潤沢な資金が回っていたわけです。むろんそれでも、その状況に満足できない優秀な頭脳は海外へ流出していきましたが、それはそれでまた、日本の学問研究に環流する回路をもっていました。またそれらが、(ある種の国民的一体性を保っているという社会的気風と雇用形態の作風とによって)一億総中流という中間階層の大量な創出という事態を生み出し、功罪取り混ぜてはいても、あるナショナル・アイデンティティを高めてはいたのでした。

 つまりこうも言えましょうか。

 経済的な成長・発展を考えるとき、市場をめぐる金銭というよりも、それを推進する人々のインセンティヴにもなる活力は、その社会を構成する人々の文化的な力に負うところ大なるものがあります。学問研究の水準という意味だけではなく、市井の庶民の立ち居振る舞いが持っている佇まいの文化性が産業過程に大きく影響しているのです。

 言語学者の大野晋だったと思うが、1980年代か1990年代にアメリカの自動車産業を訪れたときの印象記を書いていました。組立工程の工員が、吸っていたたばこをぽんと組立中の車に投げ込んでいるのをみて、ああこれでは、アメリカの自動車はダメだなって言っていたのを思い出します。丁寧とか、清潔とか、時間厳守とか、手を抜かない誠実さというのは、単に金銭的に始末できることとは別次元の「ものづくり」に関わる大切な要素だというのです。

 ところがバブル崩壊後の日本の為政者も、産業家たちも、グローバリズムの波に押されたとは言え、経済脳が金銭換算脳にだけ成り果てたようでした。しかもコストパフォーマンスとカタカナにして短期的な効果だけに目を留めた。大学改革にしても中等教育改革にしても、長い目でゆったりと育てる土壌をつくることに関心を失い、実利効果だけを評価する方向へ社会の気風を向かわせてしまったのでした。高校で言えば進学実績ばかりに目が向いて、生徒を育てる学校の気風は片隅に追いやられた。生徒たちは受験学力だけを求めるように仕向けられていったと言えましょう。

 為政者や産業家たち、日本社会の主導的な人たちの考えるトップダウンは、下司が黙って上司の言うことを聞く有り様をイメージしていたのでしょうか。現場仕事をしてきた私などからすると、現場に身を置く人たちが自ら熱意を持って取り組む仕事こそが、その場にいる人たちの力の差を補い合ってチームワークを生み出していく。そこには、その人々が育ってきた過程で関わった文化の総合力が現出するのです。産業家や為政者のリーダーたちは、そういうダイナミズムにたぶん気づくことなく現場仕事というものをみてきたのではないか。そう強く感じさせました。

 口先だけの百年の計ではなく、豊潤な大衆社会を過ごした時代経験を教訓にして、文化的な力が培われるような視線こそが、経済脳にも、バックアップする為政者の政策脳にも保たれていなくては、小心翼々の小吏と、面従腹背の庶民を輩出するだけの世の中になってしまう。いや、今の社会はそうなっています。そういう社会においては、内政的には得意満面のいいことづくめのイメージしか描けないだろうし、ひいては外交的にも、肝の据わった人間世界を見渡す施策を繰り出すことができないと思えるのです。

2021年12月27日月曜日

経済脳と謙虚さ

 昨日の「移民を受け容れることができるか」を書いた後で目にしたのが、東洋経済Onoine野々口悠紀雄の記事「日本が国際的地位を格段に下げている痛切な事実」。「いつの頃からか日本人は「謙虚さ」を失っている」と副題を振っている。

 2000年と2020年の先進40カ国の一人当たりGDPを比較して、日本の特徴をつかみ出している。2000年に、第1位ルクセンブルクに次いで第2位だった日本。アメリカは第5位であったが、2020年に日本は第24位、アメリカは変わらず5位だが2000年比58.7%増となっている。

「自国通貨建て1人当たりGDPの2000年から2021年の増加率をみると、つぎのとおりだ。日本が4.6%、アメリカが91.0%、韓国が188.0%、イギリスが78.5%、ドイツが64.2%。」と野口悠紀雄はデータを示す。野口は2点指摘する。

(1)アベノミクスが始まる直前の2012年には、順位が低下したとはいうものの、世界第13位。第10位のアメリカの95%だった。第20位のドイツより12%高かった。

(2)日本の地位がこのように低下しているにもかかわらず、日本人はいつの頃からか、謙虚さを失ったとして、次のような事実を挙げる。

《2005年頃、日本の1人当たりGDPのランクが落ちていると指摘すると、「自分の国を貶めるのか」といった類の批判を受けることがあった。客観的な指標がここまで落ち込んでしまっては、さすがにそうした批判はない。それでも心情的な反発はある。……日本の経済パフォーマンスの低さを指摘すると、「自分の国のあら捜しをして楽しいのか」という批判が来る。アメリカの所得が高いと言うと、「所得分布が不公平なのを知らないのか」と言われる。つまり、外国にはこういう悪い点があるのだという反発が返ってくる。……韓国の高い成長率に学ぶ必要であるというと、「韓国は日本の支援で成長したのを知らないのか」という意見にぶつかる。》

 いかにも実業場面をみてきた野口らしく、クールに事実を見つめない日本のエコノミストに憤懣やるかたない思いが伝わってくる。野口の憤懣の根にあるのは、彼に反論する人たちが「1980年代の成功体験」にしがみついていることと読める。これは私が言ってきた「自足」とは違う。野口はそれを「謙虚さを失った」と表現している。どういうことだろうか。

 経済脳だけで考えても、1980年代の日本経済のバブル的隆盛は、日本の工業力の力だけで達成されたわけではありません。アメリカの自足による停滞という「敵失」もあれば、軌道に乗る前のEUのちぐはぐもあったでしょう。何より学ぶべき技術的モデルは欧米にあり、なお、東アジア・東南アジアの唯一の先進国という立ち位置が、途上国との依存関係という優位性も作用していたに違いありません。

 それを「日本人の優秀性」のように固定して受け止める心持ちが「停滞」へとつながるベースを為しています。1992年のブッシュ父大統領がアメリカの大手企業経営者を引き連れて日本訪問し、日米経済摩擦を協議したときの、日本マス・メディアの得意満面の報道ぶりは、印象深いものでした。そのときすでに日本の経済はバブルが弾け、「失われた*十年」へ突入していたにも関わらず、金持ち喧嘩せず然と鷹揚に構えて、何と600兆円もの内需拡大を約束したのですから、まさしく「太平洋戦争の恨みを晴らした」つもりになったのかも知れません。

「謙虚さを失う」と野口悠紀雄は評しましたが、経済競争において優位に立つか劣位に甘んじるかをクールに見て取るセンスが磨かれるには、優位なときほど謙虚に実力を見定める視力が必要なのです。その当時すでにどなたかが指摘していましたが、モデルを追いかけるときの日本は力を発揮するけれども、トップを走るには決定的な戦略的思考が欠けているという「課題」を本気でクリアしていったのかどうか。せいぜい1980年代に「ゆとり教育」を提起して、創造力を培う何かをやったつもりになっただけじゃなかったか。

 潤沢な資金を注ぎ込んで百年の計を立てたつもりだったかも知れません。だが計画を遂行するには、現場の気風を醸成することから諄々と手を尽くさねばなりませんのに、トップダウンが機能しないことが最大の現場問題として、国旗国歌の法制化や職員会議の決議権を取り上げるとかとか、現場の牙を抜くことに夢中となって、壮大な構想を現実過程に移して遂行していく実務を、ほとんど第二次大戦の兵站なしの戦線拡大のように指図したのですから、現場はボロボロになるばかり。教師たちは自分たちが何をしているかを自問自答しながら技を身につけていくものなのに、ただただ「年間計画」を提出し、「実施報告書」を書区ことに追われ、10年次の免許更新をすればいいんでしょとばかりに、新しい教育施策に向き合うようになった。それが21世紀日本の教育の実態であったと、すでに退職している私は、後輩たちから耳にしたのでした。結局その「ゆとり教育」も2010年代に「脱ゆとり」と称して取り下げてしまうほどでした。ときの文部行政の中心にいたヒトが「団塊の世代が現場からいなくなれば、学校は良くなりますよ」と1990年代に口にしたのは、忘れられません。その短期的な視野には呆れてものも言えませんでした。

 さて、そういうわけで私は、せいぜい小渕内閣が提起した「21世紀日本の構想」の答申がイメージとしてはもっとも良かったと受け止めていますが、むろん、言説だけです。日本の産業構造から、外国人労働者の受け容れ、地方分権や大学教育の改革などなど、フォローする視界の広さと長い年月を治めた戦略的視線は、ひょっとしたら面白い日本の変革につながるかと期待させましたが、全くの画餅になってしまいましたね。

 そのあげくが、アベノミクスです。株価とか企業収益の増減とか、通貨の円安を図るとか、何とも短期的なことにしか関心を示さないのが常態になってしまった。かつて大蔵省MOFが誇っていた日本の屋台骨を支えているのは私たちだという誇りも、一人の首相の切った啖呵を保持するために文書改竄を手がけ、しかもそれを指示した官僚を護ろうと奔走し、ついには裁判を回避するために訴えを「応諾」するという為体。野口悠紀雄ならずとも、日本のシンクタンクは、もうすっかり錆び付いてボロボロになってしまっていると、愚痴をこぼしたくなるだけですね。

 こういう状況だから、ますます防衛問題でも外交とかをすっ飛ばして、すぐに敵基地攻撃能力とかイージス艦装備という暴力装置の話になってしまうのですね。危なくてしようがない。そう思います。

 謙虚さを失ったという野口の評は、まだ甘いといわねばならないほど、日本の行政システムは腐りきっているように思えます。こんな日本に誰がした! と嘆くのは、まだ早い。バブルの恩恵に浴してきた人たちは、その前に、1990年代以降の30年間を、お前さんはどう過ごしたのかい? と自問自答して、自らの思念を長期的にめぐらしてみてはどうだろうか。その上で、経済脳から文化脳へ切り替えるにはどうしたらいいかを思案してみようかとおもっているのですが、さてどうしたらいいんでしょう。

2021年12月26日日曜日

移民を受け容れることができるか

 12/24の本欄で「自足が危う差を生み出す?」と書いた。経済的な競争において優位に立つことが起業家たちに「自足」をもたらし、差異性を生み出す競争社会において停滞の危うさのベースになっているという取材記者の話であった。では、1990年代以降の日本に先んじて1980年代に同様の状態にあったアメリカはなぜ今もトップを走っているのか。

 日本との社会的気風の違いを考えると、まず、アメリカ的であることがグローバル・スタンダードだという「(世界の)センター意識」が決定的である。日本の場合、つねに追いつく立場にあった。なにしろ欧米化が目標であった。「極東意識」という中心から大きく外れているという意識を忘れたことはない。その気風の違いが、移民の受け入れにも躊躇する気分をもたらす。小渕内閣の時、人口減少下で経済成長を維持するには毎年60万人の移民を30年間続ける必要があると「21世紀日本の構想」が提示されたが、それを実行してやっと総人口に占める移民の割合は14%ほど、ヨーロッパの18%に及ばない。いま日本の外国人の割合は1.8%ほどだから、体感的にも移民社会というのがどんなものであるか、とうてい分からないと言えよう。

 アメリカが移民社会になっている土台に「(世界の)センター意識」があることは疑いない。しかもそうした移民が大統領や副大統領になる気風であるから、仮令「経済脳」であっても停滞に陥らない競争原理を作動させてきたとも言える。

 この移民受け容れの「21世紀日本の構想」が発表された頃、高校生と言葉を交わしていて世代の違いを感じさせたことがあった。当時、電車の案内表示にハングルや簡体字の中国語が登場し始めていた。また電車の中でイラン系の人たちが集まってしゃべっている姿をよく見かけるようになって、私などはちょっとした違和感というか、畏れにも似た感触を感じていたが、高校生はそれに違和感をほとんど覚えていないとわかり、驚きでもあった。また、韓国や北朝鮮の人たちの「(日本や日本人に対する)要求」を耳にすると、ひとまず良く聞いてみなくちゃならないという傾きを私はもっていると話すと、高校生は(えっ、どうして?)とよく理解できない表情をしていたのも、印象的であった。彼らは、朝鮮人に対する罪責感を全く持っていなかったのだ。

 そういうことがあったから、60万人を30年間受け入れという「日本の構想」はほとんど荒唐無稽に思え、でもそうなったとき、高齢者になっていく私たちは馴染めるだろうかと不安を感じたことを覚えている。だから、このままでいいというわけではないが、外国人の技能実習生に対する処遇の酷さや不法滞在者に対する入管の接遇の仕方が酷いのが(わが身の感触が剥き出しになったようで)理解はできるように感じている。彼らを労働力として遇しているのであれば、単なる長期滞在者というよりも共同生活者として受け容れていく気風を培わなければならないんじゃないかと反省的に思う。

 反省はしながらも、しかし、外国人とか移民に対するこういう(私のように違和感を持つ)気風が社会にあるうちは、日本はとても「経済脳」で「(世界の)センター意識」でモノゴトを考えてはいけないんじゃないかと、思う。極東の端っこにいて、でも自立した国家としての誇りを持って、国際社会でそれなりに役割を果たしていくとすると、「経済脳」で競りだしていくのではなく、文化的なメンタリティに矜持をもって世界に位置付く志を抱けるといいのではないか。

 それがせめてもの、「(私版)21世紀日本の構想」である。日本が持つ文化的なメンタリティと私がイメージするのは、控えめで静謐な、しかし気配りと芯の強さを忘れないというような、生活者的な質朴な佇まいなのだが、はたしてそういう気風が、今の若い人たちに受け容れられるのかどうかは、わからない。

2021年12月25日土曜日

おだをあげる

 昨夜は月例のご近所飲み会。ストレッチを終えた夕方、近くのファミ・レスに集まっておしゃべりをした。クリスマスイブかつ学校の終業式の日とあって高校生がたくさんいるんじゃないかと思っていたが、案外閑散としている。やっぱりコロナのせいで、自重気味になっているのだろうか。

 しかし年寄りたちは、意気軒昂であった。碁会所に通う一人、

「7階建てビルの4階にあるんだけど、大阪のクリニックの火災以来、行くのが怖くなった」

 と、入口が一つしかないことを話す。

「碁敵にも、何回かに一回は勝たせなくちゃあね」

 と聞く方は、茶化す。

 途中で、北海道のスキーから羽田に降りた足で直行してきた方も加わった。65歳からスキーを始め、まもなく83歳だが、雪を求めて新潟へ北海道へと走り回っている。肋骨を折ったりもしたが、まだ懲りないと。

 スマホにワクチン接種済みの証明を受けとる方法が話題になる。できない機種がある。いやそれは、ちょっとした機能を追加すればいいだけだからと事情通がコメントする。古いスマホの電磁波がペースメーカーの近くにあると誤作動すると話が飛ぶ。そこから狭心症の話になる。

「話すときはマスクをしてください」

 と、店員がやって来て言う。

「はいはい、御免なさい」

 と応じて、声を低くするが、いつしかまた、大きな声になる。

 こういうのを「おだをあげる」といっていたが、「おだ」ってのはなんだろうと疑問符が湧いてくる。今調べてみたら、「おだ」の解説はない。「おだをあげる」はどうでもいいことを話題にして気炎を上げるとあるだけ。日本国語大辞典に拠れば、各地の「方言」ともあり、その中に埼玉県の採取記録が数百とあった。へえ、面白い。

 クリスマスイブに年寄りがワインを飲みながらおだをあげている。3時間も過ごし、すっかり出来上がってご帰還。ちょっと飲み過ぎたかな。

2021年12月24日金曜日

自足が危うさを生み出す?

 韓国経済の現在を話している中で、元日経記者の鈴置高史が取材から得た面白い話をしていた。

 1960年代から1990年頃までを総覧してみると、日本がアメリカに追いついたというよりも、先を走っていたアメリカが止まっていて、その背中がどんどん近づいてきた感じであったという。1970年代のオイルショックを迎えたとき、日本の産業家たちはいかにエネルギーを節約するかに知恵を絞って生産性の向上を図ったのに対して、アメリカの産業家は潤沢な国内産石油に依存して生産性の向上に頓着しなかったがために、80年代になって自動車生産などで日本に追い越され、1985年のプラザ合意で円高を押しつけるしかなかったことを指している。

 韓国経済の急成長時代には国内のインフラ整備を含めて、日本に追いつき追い越せと懸命に産業構造の改革を推進してきたが、韓国の産業家の方からみると日本はまるで立ち止まってしまったようで、その背中がどんどん近づいてきたって感じだったと話している。日本の成長時代の産業家の主力は敗戦をくぐり抜けた世代であったが、それと同様に韓国のそれは朝鮮戦争をくぐり抜けた世代だった。

 生育歴中のハングリー体験が、金を儲けようとか経済成長をどうするとかいうことではなく、危機的な状況をどうくぐり抜けるかに懸命になる原動力となっている。だが、一度成長の味をしめ、豊かな時代を経験して育った世代にとっては現状維持の気分が湧き起こって、生産性向上という改革がことに見えてしまうといっているようであった。

 体験的にはとてもよく分かる。と同時に、差異から利益を生み出す資本制市場経済の仕組みが地球規模で作動しているから、一息つく暇がない。そういう国際関係を表している。そうは思うが、しかし、戦争と戦後の貧窮時代を知らない世代のインセンティブは、何だろう。金儲けか、それともゲーム感覚か。あるいは、何かに全力を注いで突き進んでいるという競馬馬のような熱中症か。いつだったか、日本の為政者を「経済脳」と誹ったことがあるが、そのとき私は、この元日経記者がいうようにつねに「改革」を叫んでばかりいて、その実、株価の高下しか目に入っていない為政者が経世済民を忘れていることを指摘したつもりであった。その「経世済民」には、自足することを知らない「経済脳」を揶揄う気分もあった。

 だが、鈴置高史は、自足して止まってしまったアメリカ経済と日本経済の産業家のインセンティブを取り出している。自足は国民国家単位の経済の危うさを招来しているという。経世済民は、自足からは生まれないというわけだ。走り続けなければならないのが資本家社会の市場経済だとはわかるが、では、ブータンのような足るを知る社会は、資本主義の元では誕生しないということなのか。それとも、グローバリズムの意味する経済圏から一足距離を置いた(国民国家よりもさらに小規模の)地域経済を(ある程度)自律的な核として築いた上で、国際関係をみていけということなのか。後者は国民国家の単位として、コロナウィルス禍の下で事実上成立してはいるが、グローバリズムが広がったせいで、小さな経済単位として自律的ではない。製造業さえも部品が調達できなくて止まってしまっているという欠陥を露わにしている。

 引退した戦中生まれ戦後育ち世代の年寄りが経済脳を批判するのは、止まってしまった暮らしから世界をみているから。そこに止まるわけにはいなない若い世代の頭がゲーム感覚を離れて、なお、インセンティブを絶やさない産業家のエネルギー源は、どこに見いだせばいいのだろうか。そんな疑問符をわが身に残した。

2021年12月23日木曜日

明るい冥府

 去年の記事「これから明るくなる冬至」を覗いた。

 一読、わが身を振り返った。去年は掃除に取りかかるのに「腰が重い」と実感があった。今年はそれが、ない。それは、やらねばならないという義務感が胸中に残っていたのが去年、今年はそれもない。4月以来のリハビリ中の右肩が思うように上がらないこともあろうが、掃除をしなくちゃあとわが身を責める視線も消えてしまっているから、焦りがない。「腰が重い」と気づく動機もなくなっているってコトだ。


 歳をとるって、そういうことか。「これから明るくなる冬至」というのは、わが身の外の物理的自然現象。それに引き換えわが身は「もう明るくならない証」を背負って冥府の暗闇に向かっているのか。それとも、「気にならない」という明るさが冥府に待ち構えているというのか。う~ん、ひょっとしたら後者かも知れない。そうだ、あくまでもわが身ありて実存ありとすれば、わが身が実感できないことは存在しないこと。年末清掃の義務感もきれいさっぱりとなくなって、明るくこの世を過ごすことができる。


 そうだね。たいていの神経症って、自己意識が自らを責めさいなむことが発端。何で悩むのよ、一切放下。投げ出しなさいよってことね。そうしたら、明るい冥府がまっている。

2021年12月22日水曜日

肩の荷を降ろす

 昨日(12/21)、秩父の山岳救助隊を訪れ、4月に救助してもらった御礼をしてきた。本当は「寄付」をしようと思っていた。だが、「寄付」を受けとる仕組みがないという理由で断られた。仕方なく、和菓子と若干の飲み物とお礼状と山の会に提出した「遭難事故報告書」のコピーとを携えていった。

 玄関口の立哨をしていた若い警察官が「山岳救助隊」に取り次いでくれ、出てきた方が私の用件を聞いて、「4月の救助に立ち会った隊員に変わります」といって、別の方を呼んだ。40代か50代の方がやってきて、パーテションで仕切られた廊下の片隅にあるビニールの仕切りがつけられた机に向かい合って座って言葉を交わした。暗かったが、話している途中で電気がついた。どなたかが気づいて点けてくれたようだった。

「どうして下山路でないルートを下ったのか」

「山と溪谷社の『埼玉県の山』記載されていたルートには、中津川へ下るルートのことが記されていた」

「廃道になっていると知らなかったのか」

「通常ルートとして使われていないことは知っていた。だが、本に記載があるので辿ってみようと思った。用心のため、ザイルやエイト環も用意した」

 隊員は紙に山頂付近の地図を描き、登山口から山頂稜線部へのルート。その途中から下山路があることを話し、私が救出されたポイントを記す。登山口から稜線部へ上がった辺りから下ったのではないかという。

「いや、中津川への案内標識が一カ所あった。またその少し先にはかつて案内方式がついていたであろう棒杭が立っていたが、そこを下ってもすぐに行き止まりになった」

 と、当日の経路を思い出しながら話す。隊員は、

「とすると、この辺りから下っていって、途中から尾根一つ西寄りへ辿ったんだね」

 と、図面に書き入れる。そうだ、そんな感じだったと相槌を打つ。一つ氷解したこと。救助隊のパトカーなどが最初にやってきたのは、私たちが下った沢の東側の対岸であった。どこから沢に下ることができなくて、ライトを点けて振り回しながら、スマホでやりとりが続いた。そのうち、北側から救助隊が来る灯りが見え、こちらもライトを振り回して場所の確認をしたのだが、そのときの最初に救助隊が来た辺りが下山路だったのだ、きっと。私は、その話を聞くまで救出された方向が下山路だと思い込んでいた。この見当違いは、ルートがなくなっているとはいえ、大きな間違いになる。

「ルートはね……、いやいや、話すのはやめましょう。行きたくなるから」

 と笑いながら、私の気持ちを先回りして続ける。

「私たちもそのルートを訓練で歩くんですよね。でも踏み跡はないし、救助に入った隊員でも迷ってしまうことがあるので、訓練で歩いてはみてるんですよ」

「……」

「いや、よく生きて下山しましたよね。」

「ありがとうございました。救助していただけなかったら力尽きていましたね」

「案内書も古いのがありますし、廃道になっているのも結構多いですから、一番新しい情報をチェックして向かうようにしてください。山の会の方々にも、そのようにお伝えください」

 と丁寧なサジェストをもらった。

 冬至の前に、4月救助の御礼を済ませることができて、ちょっと肩の荷を降ろした。さあ、来年は改めて、復帰の山歩きを始めてみようか。いやいや「復帰」ではない。肝に銘じて去年4月の昂揚を繰り返すことはしない。だから、山の会の人たちを案内することも、もう終わりとする。でも山を歩きたい。今ひとつ言えるのは、独りぼっちのハイキングって奴だ。時間はたっぷり取る。コロナ前に計画していた九州にも行ってみよう。そうやって平凡なハイカーとして歩いていれば、傘寿相応の山歩きの仕方が思い浮かぶかも知れない。冬至の今日は日の出から日没までの時間が9時間44分。明日からは、着実に明るい日中時間が長くなる。身が軽くなるのも、気分と相関している。

 古稀時代とおさらばして傘寿時代へ身を移す。そう考えると、身も心も軽くなる。

2021年12月20日月曜日

ここまできているアルゴリズム

 1980年代の後半であったか、コンビニがあちこちに広まり始めた頃、レジで客層や当日の天気、何がどれくらい売れたかがチェックされ、そのデータがコンビニ本部に集約されて、次の配送計画につながっていると聞いたのは。ほほう、そこまでデジタル化が進んでいるのかと感心した覚えがある。それから30年余、ハンナ・フライ『アルゴリズムの時代 HELLO WORLD』(文藝春秋、2021年)は、実情がもっと驚く段階にあることを記している。

 たとえば、その一つの章「データとアルゴリズム」では、スーパーなどで顧客の買い物データを(店舗カードを通じて個別にも)集積して、ある設定したアルゴリズムを使って処理すると、その顧客が妊娠していることとか、いつ頃出産の予定日であることなどがある程度判明するという。そのデータをもとに顧客にクーポンを送って、出産から子育てに至るまでのリピータとしてキャッチすることもしている。しかもそうしたデータを売り買いして、誰に何をコマーシャルとしてデジタルを通じてモニター画面に表示するように仕掛けることも行われており、社会的なアーキテクチャーとして整えられているシステムを利用するだけで、そのデータはどんどん集積されているという。

 いや、今ごろ何を言ってんだと若い人たちには言われそうなのは、よく分かる。

 こちらはデジタル難民。パソコンにせよスマホにせよ利用機能のほんのごくわずかな部分しか使えていない。にもかかわらず、フェイスブックやアマゾンやグーグル、アップルが独占しているとかデータの利用に問題があると欧米で取り沙汰され、社名を変更までしているという情報は伝わってきていて、ふ~ん、なんだろうと思ってはいたのだ。ま、カーテンの向こうの世界って感じ、対岸の火事であった。

 そりゃあ30年前と違う世界が展開しているってことは、何も知らなくても感じてはいる。デジタルの処理速度が相乗的に上がっていることも伝わっている。顔認証が子細にできて、「容疑者」がどの駅から乗ってどこの駅で電車を降りたってこともチェックできると、ニュースを観ていて知っている。広告会社が政党の委託を受けて選挙の時に投票行動を左右するフェイク情報を流すことも為されているらしいと、事件があってはじめてだが、わかってはいる。逆に、その社会のアルゴリズムに合わせるために人間が変わってきているというのは、私の関心事でもある。

 コンピュータの処理手順をアルゴリズムと考えていたが、それが司法判断や医療、交通、犯罪や犯罪追跡に絶大な力を発揮している事実を(上手くいっていることばかりでなく、誤作動や誤表示することを含めて)子細に述べているのを読むと、AIが人の知恵を越えてヒトを規定するようになるというシンギュラリティがやってくるというのが、いかにも早すぎる想定であると共に、それ以前に、AIに振り回されて、ヒト自らが自分の世界をごちゃごちゃにしてしまうって予感が、増してくる。

 それらの具体的なケースが、要点をついて記されている本書を読むと、はたしてマイナンバーカードをいろんなことに紐付けして行こうと考えている日本の為政者たちは、そこで集約されていくデータが、行政ではなく商業的に、国内だけでなく世界的に利用されていくってことを(ただ単にデータの流出を防ぐってレベルではなく)どう考えているのだろうと不安になる。と同時に、デジタル難民でホッとしているわが身の現在も感じている。

 ほんとうに時代に取り残されているんだと、深く深く思う。

2021年12月19日日曜日

何をしなかったか

 賀状に取りかかった。今年最大の事件は、4月の山での私の遭難。秩父山岳救助隊の記録には「70代、軽傷」とあるそうだ。私は「至福の滑落」と題して、その経緯を書き記した。だが賀状に書くのは気恥ずかしい。心裡では自慢話のように響く。

 カミサンは「コロナ時代には何をしなかったかが記録だからね」と、意味深なことを言う。そうか、山に行かなくなって、リハビリ通いが9ヶ月も続いている。でもコロナのせいじゃないな。

 しないことというより、できないことが年々増えていく。でもそんな他人の話を聞きたくないよね。となると、それまでやっていたことをしなくなったために、見えてきたこと、感じてきたことを考えてみる。

 すると、隠岐の島町の玉若酢命神社の八百杉が思い浮かんだ。樹齢2000年、屋久島の縄文杉よりは若々しい木肌。深い森の中の縄文杉と違って神社入り口にあって日差しが当たっていた。触ることもできた。あやかることができるか。

 ご近所の散歩となると、見沼田んぼ。天気がいい日には西の方に富士山が姿を見せる。元旦には調節池に行ってみようと思っていたら、「元日の富士に逢いけり馬の上」と漱石が詠んだ句に出くわした。そう言えば、調節池も工事が終了して五年ほどになるか。整いすぎて素っ気なかったのが、年を経て寂がついてきた感触が芽生えてきた。こちらの身にも錆がついてきた。これが寂になるかどうかは、生き方の粋がかかわろうから、いまさらどうしようもない。そう考えてみると、何もしてこなかったなあとわが身の来し方を振り返る。ま、そんなところだ。

2021年12月18日土曜日

コペルニクス的転回

 知り合いの息子さんが受験生。先月「推薦入試」を受験し、結果が出てきたという。残念ながら本命には手が届かず、滑り止めとしていた所に決まると知らせがあった。本人は落ち込んでいるらしい。何とか声をかけたいが、どういったものか。

 その子の大学進学かと考えていて、61年前の私自身のことが胸中に浮かんできた。時代が違うから、今とは比べものにならないが、高校までの暮らしと大学のそれとは、私にとってはコペルニクス的転回であった。天動説が地動説に変わるような体験だったのだ。

 岡山県の片田舎の町と東京との文明・文化の違いが、まず絶大であった。5年は遅れていたろうか。トイレが違う、電話機も電話のかけ方も違う、食べているものや食べ方が違う。ナイフとフォークの使い方に戸惑い、大学の同級生と洋食を前にしたときに見よう見真似で教わったこともあった。また、全国あちらこちらから出てきた同級生、あるいは東京育ちの同学年生の言葉遣いも振る舞いも、読んでいる本も違う。なにより自分の意見を主張するときの勢いとか、人に対する畏れ具合も違う。何しろ堂々としている。これは、ショックであった。

 そのうちこの違いは、高校生までの私の生育歴との違いだと、わが身を振り返って思った。まず私は、洗濯の仕方を知らない。掃除をするのも畳の間をざっと掃くくらい。ゴミの始末もわからない。自分で食事を作ることもできない。ああ、こんなに生活能力がないんだ、親にすっかり依存してきていたんだと気づき、がっかりした。こりゃあ、勉強するどころじゃないぞ、と。当時の言葉で言えば、頭でっかちだったってことだね。

 この感覚は、学生生活が終わってからもずうっと続いた。結婚してからは、連れ合いに頭が上がらない。男社会と謂われる時代に育ったせいもあるが、暮らしの基本は連れ合い任せ。連れ合いが黙ってそれを引き受けてくれるのをいいことに、私は家事のことを忘れて生きてきた。

 山に行くようになってやっと、少しばかりテント暮らしのような料理をしたり、下山後に洗濯したり、用具の手入れや片付けをするようになって、独りでも生きていけるような生活習慣が少しは身についてきたかなと感じている有様だ。

 この子が大学生活を始めるに当たって、この子のコペルニクス的転回は何だろうと、思い巡らしてみた。そう考えはじめてみると、私はこの子のことをほとんど何も知らないと気づく。そうして思い起こしたのが、「推薦条件」である。つまり3年間こつこつと頑張ったこの子にとって、暮らしの術はさほど難しくないにちがいない。そうだ、今もピアノを弾いて愉しんでいるという。夏にはどこかの幼稚園で子どもたちの要望に応えて即興でピアノを弾いて会を盛り上げたとも聞いた。そこまで鍛錬することのできる粘りを持っているのなら、暮らしの技術を身につける壁は、簡単にクリアできるだろう。よかった、よかった。

 とすると、もう一つの壁がこの子のコペルニクス的転回になるかも知れない。

 東京へ出てきて受けた最大のショックは、私が高校まで身につけてきた知恵や知識は一体何だったのだろうという戸惑いであった。東京出身の同学年生たちの言葉や振る舞いをみると、自信に満ちている。私が本を読む中で見聞きし覚えた難しい言葉が、まるで身の裡から発した言葉のように口をついて出てくる。

 そのとき感じたことが、その後の私の大きな関心事になった。

 私が高校までに身につけた知識は世間の常識とする知識であり、自分のものになっていない。考えてみると、私が話している言葉も、世の中の人々がふつうに遣っている言葉である。言葉には、感性や感覚、ものの見方や考え方が込められてる。だが知識として学んだ言葉は、まだ私の身の裡を通っていないのかも知れない。簡単に言うと、学校で教わったこと、目にした本や新聞や人から聞いた言説を、そのまま受け容れてきたのが、高校までの学び方ではなかったか。それが、私の戸惑いの原因であり、自信のなさにほかならない、と。

 そうか、「わたし」は、私が生まれ成長してくる間に出逢った親や大人や文化がもっている感性や感覚や価値観などが、全部まるごとわが身に投げ込まれて堆積している。それが「わたし」の感性や感覚や価値観になっている。「わたし」が自分で選んだこととは言えないかも知れない。ほほう、そんな風に感じているんだ、そういう風に善し悪しを見極めているんだと、まるで他の人のそれらをみているように、ひとつひとつ意識してとらえかえしてやっと、自分のものになっていく。そう思った。これは、「わたし」のコペルニクス的転回であった。

 モノゴトにぶつかるごとに、なぜそう感じるのか、なぜそう思うのか、どうしてそう判断するのか。そうしたことを一つひとつ吟味して、身に備わった知恵知識を振り返る。そうしてみても、しかし、なぜそう感じ、考えているか分からないことも多い。それは一端棚上げにしておいて、ひょんな時に思い当たって、ああアレは、そうだったんだと一気に氷解することもあった。それはまるで、ものを考えることで自画像を描くような振る舞い。自画像は変わりに変わる。しかもそれは、来年80歳を迎える今でも続いている。

 そうして私は今、思っている。「大器晩成」と小学6年の担任教師が私のことを母親に言ったのは、単なる(母親への)気休めではなく、人生って、結局生涯を通じて自画像を描き続けることですよということじゃなかったのか。出世するとか、お金持ちになるとか、有名人になるという世の中的な成功者になるかどうかなんて「小器」のお噺。自画像を描く。それが人間としての「大器」なんだ、と自画自賛している。

 この歳になって、それができているって、素敵じゃないか。ほらっ、私の言ったとおりだったでしょと、6年の時の担任教師が笑っているように見える。

 この子が大学への進学を機に、コペルニクス的転回をみつけ、これまでの天動説を地動説に転回する道を見つけて行くのは、きっと面白い冒険だろうと思い、ちょっとわくわくする心持ちが湧き起こってきた。

 そうか、こんなことを認めればいいか。そんなことを考えている。

2021年12月17日金曜日

私は神を信じているのか?

 国分功一郎という哲学者の『中動態の世界』(医学書院、2017年)を面白いと読んだのが2017年8月。図書館で借りて読み、読み終わってから後に本屋に行って買い求めたほど刺激的であった。「能動-受動」という価値的な見方が成立する以前の「中動態」の世界をギリシャ語の解析から導き出して、現代の私たちの価値的な視線への批判を展開している。まだ若い。私の子ども世代が、このように刺激的な考察をしているのは、うれしい。そう思って彼のことをみていた。

 その彼が博士論文で取り上げたのがスピノザと知ったのはごく最近のこと。図書館に『はじめてのスピノザ――自由へのエチカ』(講談社現代新書、2020年)を見つけ手に取った。門前の小僧にとってはうってつけの書名である。スピノザという哲学者のことは、デカルトの二元論を批判して一元論を説いた17世紀の人という「知識」しか持っていなかった。その一元論、「神即自然」が、国分功一郎の解きほぐしによってわが身の中で起ち上がってきた。

 こういうことだ。スピノザは、私たちが身をおく自然のすべて、大宇宙をも包んでいるのが神だとみた。広大無辺。それが「神即自然」の意だときくと、なんとなく私たちの自然観に近い。デカルトのように身体と精神を分けて考える二元論よりも、心身一如という一元論もなじみがある。つまり私自身も自然の一部であり、八百万の神じゃないが、この世のありとあらゆるものに魂が宿るように擬人化して考えるのも、少しも不思議ではない。汎神論というのも、そういうものだと考えるともなくボンヤリと思っていたのである。

 だが、スピノザの汎神論にいう神は、遍く数多の神が宿っているという意味ではなかった。きっちりと唯一神をイメージしている。となるとむしろ、ホッブズの本の表紙絵にあるリヴァイアサンという怪物のように、宇宙を含む大自然を包み込むように実在する「神」って感じかな。汎神論というのが八百万の神という数多の神ではなく、唯一の神。それが、大自然に生起する事々に宿る。それらは、神の現れ、振る舞いであり御徴であるという。私たちが考える「天命」にちかい感触がある。

 そこだけをみると、すべては宿命論的に決定されていることになる。私の「天命」はそれほどに意志を強烈に示していない。こちらが必要とするときに(気儘に)現れて「啓示」をもたらすってとこか。だが自然に生起することごとすべてに「天意」を読み取れば、私の抱く自然観の表徴とスピノザのそれとは現象的には一致する。ただスピノザは、すべてに宿るといっているのかどうかは、わからない。

 ただ私の感覚では、善きことも悪しきこともことごとく天意と受けとっている。「天」も「神」も、人の都合に合わせて振る舞っているわけではない。善きことも悪しきことも(その真意は分からないままに)突きつけてくるのが大自然であり、「神」ってそういうものだと、なとなく受け容れている。私のなかでは、「天」と「神」とが一つになる。人間の都合に耳を傾けるとは考えられない。そこが、スピノザと違うのかどうか。

 混沌の中に天意を読み取るのは、モノゴトの本質を真理として感じ取ることと同様に、そう受け止める感性が必要となる。デカルトはそれを「コギト/我思う」においた。モノゴトを疑っているワレの存在は疑い得ないを起点として、実在の原点とした。ひとまず神(の意志)と切り離して思索してゆくのには、欠かせない根拠であった。

 だが大自然の一員としてわが身を位置づけるとき、「我あり」は証明を必要としない与件である。そこでスピノザは、モノゴトの本質を見て取るセンスの形成が、もろもろの体験を積み重ねることにあると、生々流転の人の変容に求めた。その変容の中に、諸々の状況からやむを得ず行う振る舞いを不自由な、従属的あるいは隷属的なコトと見立てたというのも、私自身の抱いている自然観と私自身の感性や感覚、思索の形成と照らし合わせると説得的である。生育歴中の環境が、感性や感覚、生活習慣や心の習慣の総集としての身をつくる。何が自由意志で何が環境によってしつけられたものかは、わからない。自由な選択といっても、設定された選択肢自体が限られているとき、はたして自由意志の発露と言えるかどうか。

 自身を原因とする振る舞いを自由意志とみて、国分は解説しているのは明快である。国分のスピノザ論は、そこを起点にして「自由とは何か」へ踏み込む。そのとき自然に生起することが「神」の御徴の現れとみると、どこに自由意志があるのかと、展開する。それはなかなか面白いが、ここではさておいて、スピノザの「神」と私の「天」とは、同じものだろうかと疑問符が湧いた。

 全宇宙を覆うような存在としてのスピノザの神は、ありとあらゆる自然の出来事を神の意志の下に置いている。だが私の「天」に意志があるとは思っていない。自然に対する私の畏敬というのは、分からないもの(混沌)に対する畏れと敬意である。「混沌」を気まぐれな自然とみているとも言える。それを現実事象に対する「天啓」と読み取るのは、「天の意志」というよりも、直面している面倒な事態に対する改変の正統性を表示するほどの意味しかない。つまり自分のご都合主義に他ならないから、自然に対する信仰心とは無縁だといわねばならない。

 生じる事象に対する不可知の力の作用とみても、また、その見て取る眼力は経験によって自らの変容を手に入れることによって果たすほかないというスピノザの方法は、現場主義的な私のセンスにうまく見合うものといえるが、はたしてわが身の形成が人類史的な文化の堆積の現在形とみている私の自己形成と一貫性を持って語れるかどうか。面白い課題に向き合っている。

2021年12月16日木曜日

経済脳になってしまった統治

 18歳以下の子どもへの給付金をめぐる政府の右往左往を(安部=菅政権の一点の瑕疵も認めない突破主義と違って)、岸田政権の「聞く力」の現れと私もいくぶんの好感を持って観ていたが、ふと気づいたことがある。安部=菅=岸田の差異などという蝸牛角上の問題ではなく、政治家も官僚機構も貫くような大きな勘違い、視野狭窄に陥っているのではないか。勘違いというのは、国の統治って事を経済的な市場原理でしか考えられなくなっているってコト。

 というのは、マイナンバーカードを全国民へ拡げるのに、なぜ2兆円もの財政出動をしているのかを考えていたからだ。アメリカのように社会保障番号を登録させ、それと政府の財政支出とを連動さえるという仕組みをつくるのは、いわば統治そのもの。つまり命令して徹底周知する事柄のはずである。それを市場経済的に切り回そうと発想しているのが、今回の2兆円の財政出動だ。しかもそれは、健康保険証とリンクすればとか、預金通帳とリンクすればという選択が設けられているから、全国民にマイナンバーカードを付与し流布せしめるという初発の趣旨は、とうてい実現しない。笊も笊、結局何のためのナンバーカードか疑わしくなる事態を招来するばかりになる。

 なぜ、こんな為体になってきたのか。二つの次元の異なる統治体験が、戦後の統治機構の中に併存してきたからではないか。

 ひとつは、統治過程の国家がになうべき「強制力」という暴力装置的部分を極力避けて通ったにもかかわらず、一時、アメリカを凌ぐような経済的成功体験。この錯誤のワケはすぐわかる。アメリカが仕掛けた「日本の軍事的無力化」に乗っかって、冷戦時代をもっぱら経済的な活動に専念することができたからだ。国内的にも、占領が解け、自律して後にも、暴力的命令要素を念頭に置くことなく、ことごとくを市場原理的に処理するという錯誤に統治体質が馴染んでしまったことだ。

 善し悪しは脇に置いておくが、戦争直後の貧窮生活から「一億総中流」時代への経済的階梯を上るときは、統治者が何をしていようと庶民大衆は黙っててもついてくるものだ(今の中国をみればよくわかる)。その成功体験への上昇渦中に生まれた人達が、いまの政治家・政府官僚たちだ。

 大事なのは、もう一つのこと。

 冷戦時代を凌ぐにも、アメリカの御威光があったからとはいえ、「非武装」という看板を掲げて過ごすことができたのは日本国憲法の前文と第九条が国際的にも周知のことだったこと。まず、「日本の軍事的無力化」は第二次世界大戦における連合国軍の合意戦略でもあった。その証拠は国連憲章の第53条、所謂「敵国条項」が未だに残されたままである。だから日本政府としては、憲法の精神を徹底的に遵守して、戦後の安全保障と外交を続けるしかなかった。

 アメリカの庇護の下に、その政治的・軍事的要請にしたがったのは致し方ないとしても、なるほど日本はそこまで「徹頭徹尾・平和国家」を貫いているという姿を繰り返し、晒し続けて行くしかなかった。それらしいことをしたのは、田中角栄くらい。アメリカの先を越して中国を承認し、国交回復をした(だから角栄はアメリカの謀略によって獄中の人となったとまことしやかにいわれている)。それ以外は、そろそろと口先だけの、国内的にしか通じない言い訳をしながら再武装をすすめ、そのうち「不沈空母」としてアメリカの「同盟国」にまでのし上がった。

 その径庭をみていたものとしては、政府の統治センスは戦前のままだと思うほかなかった。戦前からの(伝統的な)「お上」の統治センスは、いまも残りつづけている。つい最近までの宰相が、「人事」と「策」を弄して中央官僚機構を手懐け、中央から地方への伝声管を(上意下達的に)確保し続け、結局中央政府の説明責任も国民に対する情報公開もネグレクトして、恬として恥じない統治機構の体質を保ち続けてきたことをみると、よくわかる。

 戦中生まれ戦後育ちの世代からみると、日本国憲法の「日本の民主化」さえも、ほとんど顧みられることなく、その形式だけが取り繕われ、統治者と庶民大衆の関係は選挙の時を除いて「統治-被治」の関係を変えることなく続けられた。そこに「民主国家として再出発」した戦後政府が果たすべき課題があったはずなのだが、統治機構内の(せいぜい与野党という次元の)争いに終始して、それも市場原理に任されてしまったと言えよう。

 そういう積み重ねが、統治者としての政府・中央官僚の頭脳を市場経済脳に代えてしまったといえようか。

 資本家社会的市場原理は、その初発段階で壮大な暴力性を発揮していた。資本の原始的蓄積といわれるが、農村を解体し、人々が労働力として雇用されて以外に生きる手立てを失う状況へと追いやった。しかしアダム・スミスが市場原理を説明したときには、その原始的蓄積のことはすでに社会的前提となり、自由な取引をすすめていけば自ずから神の手によって資源の配分も節約も最良の道を取ることができると考えられるようになった。

 それと同様に日本の為政者もまた、経済に邁進するあまりに統治が必然とする支配の暴力性を忘れ、あたかも良き統治は自ずから人々の同意を得て振る舞いを一つにすると信じているかのように施策するようになったと言えようか。言葉においても、「命令」を忌避して「指示」にしたり、自らに決して瑕疵はないことを貫き通そうとしたりして、かえって言葉自体の混沌を招いていることに気を配らないできている。

 こうも言えようか。政権にある為政者は、施策を経済脳で考えているにもかかわらず、統治の暴力性が必要であることに気づいている。ことに安部=菅政権は、それが発動できない元凶は「憲法」だとばかりに、私権の制限だとか、集団的自衛権の合法性を閣議決定や法解釈の手続き的な変更によって実現しようとしてきた。それは、暴力性を発揮しないで、謂わば経済的合法性の流儀の上に強権統治を実現しようという歪んだ国家権力の姿であった。

 岸田首相が「新しい資本主義」ということを説いても、統治の暴力性を消せるわけではない。というか、その暴力性を消せば消すほど、現実に展開する強権性をもみ消すために御正道を曲げてしまっている。それは言葉や文化の面での崩壊を引き寄せ、日本語によって保ってきたナショナル・アイデンティティすら失わせかねないと私は危惧する。いや、実際に政治家やかんりょうやなど、エリートと考えられてきた人たちが貧しい言葉を左右してみっともない姿をさらしているのは、日本人としての誇りを傷つけ、貶めている。それこそ、防衛という安全保障の根幹、「何を護ろうとするのか」を消し去ってしまう振る舞いである。日本国憲法の「平和条項」は、その土台の上に築かれるはずであったと、わが身の裡側をみながら思うのですが……。

2021年12月15日水曜日

「失われた*十年」の意味すること

 TVのニュースで国会論議のやりとりが流れている。野党が「マイナンバーカードで、2兆円も必要って、どこかそんなことをやっている国でもあるのか」と追求している。首相が「デジタル化を進めるためには必須のこと」と、官僚の下書きを読み上げるように応えている。バカだなあ、この人も、スガ宰相と同じようになっちゃってる。岸田首相の良いところは、政策発表をして後に世論の反応を探り、躊躇なく提案政策を翻して修正するってところにあると思ってきた。聞く力っていうよりも、どうしたら良いかわからないことに気づいている感触が、私たち庶民大衆の胸中に見合っていると思うからだ。官僚答弁を繰り返すのなら、ただの辻褄合わせ。


 そう思っていたところへ、本ブログ「2020-12-13、進む技術、遅々たる社会的手順」の記事が送られてきた。読んでみて、30年後の今も、同じことを考えている自分に気づく。この国の統治センスは、どうなっているんだろう。お役所のデジタルセンスが整っていないのに、統治手続きをデジタル化して、「情報処理」ができなくなってあたふたしているのが、今のお役所じゃないか。統治される国民の方の「情報処理」の速度が速くなっているのに、それを集約して始末する方のお役所の処理速度が滞留するようになって、医療を受けることができず、自宅待機といって放置されてきたのが、コロナウィルスの第五波ではなかったか。


 地方行政の滞留は、地方自治が整っていないからと言うのであれば、中央政府はそれを解決するために何をしなければならないか提起するべきじゃないか。国民にマイナンバーカードを持たせることが行政のスピード化を図ることになるのであれば、国民が喜んでカードの作成をする翼賛を待たずに、カードを作成しなければならないような政策を提起すれば良い。税務をカード経由で一括処理するとやって、それを集約できるように行政命令を決議すれば済むことなのに、それができない。なぜ? 与党の政治家たちが、まず反対するからだ。大企業がさらに反対勢力に加わる。産業界の大投資家たちがそれに翼賛する。つまり、自分自身の統治ができていないのに、デジタル化などというから、こんな憂き目に遭う。アメリカのゴアが副大統領時代にやったネットワークの整備と社会保障番号を、行政的収支のネットワークに整えた方法を調べれば、どうやったら良いかは一目瞭然。あるいは、韓国の整備経緯に範をとっても良い。


 30年前は小さな高等学校の片隅で行ったことだが、未だにお役所がその段階にとどまっているなんて、「失われた○十年」というのは、こういうことを言うんだね。

2021年12月13日月曜日

これは全人生の物語だ

 いま鈴木正興『〈戯作〉郁之亮御江戸遊学始末録』(原町書肆、2021年)を読みすすめている。全四十八段のうち十四段を読み終わったところ。いや、実に大作である。A4版の三段組みで300頁になろうという。しかも、びっしりと文字が詰まっている。この作家から頂戴した手書きの「自称「小説」謹呈の御挨拶」は、こう記している。

《……しかのみならずモンダイは小生の文章の書き方、即ち一般の常識に悖るビッシリ書きとでも言うような書き方です。とにかく隙間なく文字を羅ね列べ、しかもやたらにルビ付きの漢字が押しくら饅頭しているとあっては読みづらさは必定、何しろ間も余白が殆どないのですから。今まさに目を通しておられるこの挨拶文もそうですよね。で、この言わばビッシリ書きの弊風はキューポラのある街の長屋で育った自分の生育歴に由来する貧乏性の所為でして、その故をもって余白ができやすい段落の設定や行替え、意味ありげな二、三行空け等々は可及的に忌避し、また会話部分もこれこそは行換えの必要があり、各種の小説を見ても、例えば「あっ!」だけでも一行分取ったりしてますが、読みやすいのは理解しても、ああ何と勿体ないとの感の方が強く、斯くして小生の場合は基本的に読みづらさも構わずの言わば連ね書きとなっています。……》

 この「挨拶」状を一読してわかるように、この方、一癖も二癖もあるメンドクサイ作家なのだ。ちなみに、メンドクサイというのは、読む方の感懐であって、ご当人はすでに積年の蓄積もあって身に染みこんだクセとなっていて煩わしいとも感じていないはず。ただ、歳をとると、わが身も外界と溶け合うのか、だんだん輪郭がぼやけてどうでも良くなるのか、我がクセながら身の動きが追いつかず、我がことをメンドクサイなあと吾輩も思うようになっている。そのメンドクサさは、作者も読者も同じように歳をとることで進行している。なかなか融通無碍にはいかないのだね。

 加えて、これを頂戴したのが11/16。その月の後半、珍しく私に忙しい予定が続いていて、歩いたり電車に乗って遠出したりすることが多く、読む暇がない。

 何しろ、持ち歩けるようなしろものではないのだ。大きく、重い。重いと言えば何kg? と、この作家がクセを発動して聞きそうだから、量ってみた。650gもある。厚さも11mmあった。400字詰め原稿用紙で1600枚あると作家自身は「御挨拶」に書いているが、この方、パソコンを打つでもなく、文字通り原稿用紙に書き付けているから、正味1600枚ということ。常なる編集なら2000枚ほどに相当すると自称している。例えばいま手元にあるピエール・ブルデューの『世界の悲惨Ⅰ』(藤原書店、2019年)はB5版490頁。1頁1000字ほどだから、400字詰めで1200枚ほどの計算になる。だが、デザイナーのセンスを生かす為もあるのか、章割の扉にも2頁をたっぷり余白を取ったり、途中に挟まるインタビューも、余白を気にしない余裕の編集になっているから、正味で言うと大分少なく2割減になるかな。厚さは32mmもある。つまり貧乏性の作家の腹心の原町書肆が、資質も薄手の上質紙を使いながら、大部をものの見事に詰め込んで仕上げているとみた。

 読むのが遅滞しているのには、ほかの事情も加わる。しばらく前に図書館に注文していた本が届く。別にふれているカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』。これは、返却期限がある。こちらは私の貧乏性といえば言えなくもないが、むしろ私は「反贅沢症」という気分が作用していると思っている。本は「共助」に頼ることにしているから、そちらをまず読まねばならない。そうこうしていると、上記ブルデューの圧巻がⅠ、Ⅱ、Ⅲと届いて、全体通して1533頁の通しページが打ってある。これはとても期限内には読み切れないわと悲鳴を上げそう。

                                      *

 そういうわけで、『〈戯作〉郁之亮御江戸遊学始末録』は、気が向いたときに一段落ずつ読むようにして、やっと今、十四段を読み終わったのであった。

 また因みに、この小説、聊斎志異などと同じように段落毎に、その節の概要を表すかのような表題が、さながら川柳風情の17文字で綴られている。ちょっと紹介しておこう。

 四 眉上げて江戸事始めは長屋から

 五 ご覧じろこの塾風や破天荒

 六 小童が渓を成りて睦み来る

 七 捨てなされ狷介一途の裃は

 という調子。六の「成り」は「つくり」とルビが振ってある。これこそ「遊学」と言わんばかりに作家も遊び興じていることが伝わってくるではないか。

 自らは〈戯作〉と銘打っている。「声に出して読む小説」とこの作家のエクリチュールを評した方がいて、《本当に音読すると咽喉をやられますので御注意ください》と先述の「御挨拶」にも記している。作家は「御挨拶」にこう記す。

《いっそのこと、その江戸時代後期町人文化が興隆していた頃、民間で流行した軽易な通俗小説を総称して「戯作」と言っていましたが、まあそのような一種調子こいた類いのものと思ってもらえば適当かも知れません。したがって前述した如く「近代小説」が時空を貫いて人間存在等に関する根源的な意味を問い続けてやまないのに比し、小生のはさような面での桎梏はなく、内容に重たさが必要ありませんので、その点気分はへっちゃら、我が「小説」への思いはただひとつ、話の筋があっちへ行ったりこっちへ行ったり蛇行するにしても淀まず流れる水のような、或いはまた耳朶を掠め過る風のような読物となってほしい、それだけでした。そのため物語の途中読み手に「ここは何を訴えようとしているのか」とか「作者の真意は奈辺にあるのか」なんぞと立ち止まって考えてもらっては本意に反しますので、そこはそれ「そんなこといいから、はい、さっさと行きませう」と調子こいたテンポ感で先を急がせるふうにしています。》

 こういう芸風が、もう半世紀も前になりますが、「韜晦」と非難されたことがあります。私はこれを「遊びをせんとや生まれけむ」という人間本性、つまりヒトのクセの花咲き花散る様子と受けとっていました。大真面目に「韜晦」批判をなさる方々の、大上段ぶりをじつは揶揄していたのですから。

 読み進めるとまさしく講談を聞いているような気分になり、耳朶に響く声を聞き分けると、作家と呼ぶよりも戯作者と言ってよと行間から聞こえてくるようです。

 しかし、では戯作というのは酔狂と気分次第でしゃらしゃらと自在に書き流せるかというと、そうではないと、読んでみればわかる。いや、読んでは流れるような記述であるにしても、その土地土地の地理地形から神社仏閣の由緒由来、登場する人物の風体立ち居振る舞い、出自とその落ちぶれてきた径庭などを落ち着かせるためには、書き表されていない部分への深い考察がずいぶんと必要になる。あたかも海に浮かぶ氷山のように、9割方は見えないが重心を保ち、海上の突出部分を支え、どっしりと深く重く、由緒由来を沈黙に代えて潜在している。さらに洋学塾に学ぶ若侍を主人公に仕立ててあるとなると、江戸期の教養流行の行雲流水。唐来ものは言うに及ばず、和蘭陀やエゲレスなどの洋学の知恵知識があの手この手で流れ込み、それらを談じ論じる多士済々のお噺となるから、天文学、地学、植物学、化学、医学、鳥や獣学、昆虫学、薬学から、数学、哲学、歴史事情などなどに至る深い造詣が底流していなければ、なかなかどうして、お噺は停留して流れは止まり瀞となって淀んでしまう。しかもこの洋学塾、談論風発を旨として、欧風文化の位置づけなども方法論的にやりとりする場面もおいている。その視線は、まさしくこの作家の豊潤な内部から醸し出されてきている。

 つまり、この〈戯作〉は、この作家の畢生の作品と自称するだけあって、謂わばこの作家の全人生が投入され、反映されている。自身は「近代小説」とはみないでくれと懇願の態であるが、読み取る側からすると、戦中生まれ戦後育ちという(今となっては)特異な世代に属するこの〈戯作者〉の辿った人生を鳥瞰しているような趣を感じる。

 時代を江戸期に取ったのは、「近代の夢」から一歩ステップアウトした視点を確保するため。つまり渦中にいて渦を見極めるがムツカシイは必定という天下の作法に則って、「近代」から足場を脇へ移し、そこから「近代」を歩いた己が人生を鳥瞰してみれば、どのような物語りが紡げるか。そういう視線こそが、客観視の第一法則なのだからである。

 もちろん客観視とか主観に満ちているとかは、この作家には関係がないと撥ね付けられるかも知れない。というのは、この〈戯作〉は、登場人物を一人として抽象化しているわけでもないし、何かを表象させようと設定されているわけでもない。まさしく一人一人がすべて、然るべく生きて然るべく姿を変容させ、いずれ消えてゆくかけがえのない特定人物そのものとして登場してくるからである。それが「近代」を抜けている証拠だとでもいうように、まさしく「お噺」として語られている。

 社会を語るでもなく国家を語るでもなく、何かのテーマに限定して人を語るでもなく、生きた意味合いを取り出すでもなく、生きた姿をそのままに「かかわり」としておいて、人ってそういうものだと、まるごと、もちろん整理して秩序立てるなどという余計なことは読み手に任せて、雑然と投げ出すように開陳している。それがこの〈戯作〉を棒のように貫いていると感じ、その手応えの慥かさに震えるような気分の昂揚を覚えている。そうだ、これこそ私がイメージしていた人生ってもんだと、軽い感動に包まれて、我田引水している。

 とは言え、この作家を結局私は何も知らないのだとわかるのが、まず第一の読後感である。先述の海の下の海氷の水没部分のように、この〈戯作〉を読むほどに、知らない鈴木正興像が浮かび上がる。しかもそれで「わかったか」というと、とんでもない。奥深く、底知れない。これフェイク? それともトゥルース? という疑問を各所に残し、その言い回し、表示に戸惑って、何度も辞書を引き、典拠が中華文明の古代の文献古俚にあることを知ったり、ただの洒落だったりすることに思い当たって苦笑いする。これも、読書の娯しみと気持ちを解き放てば、ますます、この作家のメンドクサイところが面白くなる。この作家の蓄積・所業にとうてい及ばない私も、その文化のお裾分けに預かるような気分で、誇らしくもうれしい。どうだい、オレにもこんな作家の友達がいたんだぜって! 或いは、もう少し弾んで、どうだい戦中生まれ戦後育ちって、こんなもんだぜって。

 まだ当分、郁之助の遊学始末を味わい、戯作者・鈴木正興さんの人生やかくあらんと、彼を見知ってからの54年間を振り返って娯しむことができそう。ありがとう、郁之亮。ありがとう、鈴木正興。 

2021年12月12日日曜日

十二日町と我がノスタルジー

 今日12/12は、浦和・調宮(つきのみや)神社の「十二日町」。12/3の秩父夜祭りを起点に、荒川の流れに沿うようにお祭りが流れ下ってくる。12/8熊谷の「お酉さま」、12/10、大宮氷川神社の「十日町」と下りながら、夜店のテキ屋が、1年の無事を言祝ぎ、年を越し、新年を迎える庶民の準備のお手伝いを、諄々としてゆく年中行事である。

 浦和の十二日町は、調宮神社の御祭礼。昔は、子どもたちが地車(だんじり)を曳いて地区を経巡ったものだが、今どうしているかわからない。子どもが小さい頃は付き添って神社へ詣で、旧中山道沿いに並ぶ夜店を冷やかして歩いたこともあった。ときどき、夜学の生徒が夜店の店番をしていて、「よっセンセイ、これ持っていきねえ」と綿菓子を突き出してきたりして、面食らったこともあった。おおよそ信仰心のない私が、神社の由来などに関心を振り向けるようになったのも、そうした「お祭り」のおかげかも知れない。

「お祭り」が遠くなったせいか、調宮神社辺りの賑わいが、静かで仄昏い佇まいであったように感じられて、これって、私のノスタルジーじゃないかと思ったりする。なんだ? なぜ、こんなイメージが湧いてくるんだ? 

 大宮の十日町は一宮氷川大社の御祭礼であるから、賑わいは一入だ。もともと大宮が都市的な賑わいの中心であったのに対して、浦和は静かな奥座敷の風情を残していた。「文教都市・浦和」というキャッチフレーズが、旧制浦和高校から埼玉大学の威光を担いだものかどうかは知らないが、文人墨客が住まいを構え、鰻を食して来訪者を歓迎し、武蔵野の風情を文字にしていたことなどがお店のパンフレットに記されているから、「急行の止まらない県庁所在地」として有名であっても、地元ではまた違った落ち着きを求める誇りにしていたのかも知れない。

 平成の浦和、与野、大宮の三市合併話が持ち上がったとき、浦和と大宮が市庁舎の所在地を争った。私は、町が賑やかになる方向よりも静かな佇まいを保つ方を好ましく思っていたから、浦和におかれている方が「タウンシップ」が好ましいかなと思っていた。だが実情は、「さいたま新都心」を中心に「さいたま市」づくり構想が着々と進み、いずれそちらの方へ移転することも、決まってしまったように仄聞している。「さいたま新都心」は、浦和と大宮の半ばを取った結果というよりも、「さいたま市」の政治家や地方行政担当者のセンスが、首都機能の分散の一つとして設けられた「さいたま新都心」を中央行政大明神の象徴のように奉るところから来ていると、私は読んでいる。そもそも浦和から移転する必要があるほど、現さいたま市庁舎が古びているわけでもないし、規模が小さいわけでもない。ただただ、旧浦和と旧大宮の地方政治家と地方行政の担当者が、古い縄張り意識を底辺において綱引きをしたが共に譲らず、双方共にもつ「さいたま新都心」という中央崇拝の共通感覚に従って、落ち着きどころを得たという方が良かろうか。

 つまんねえ奴らだなあ。映画「翔んで埼玉」の制作モチーフを少しでも噛んで含んで持ってみやがれって、東京の植民地精神に唯々諾々としたがっている性根に毒づいてやりたいくらいだね。

 ともあれ、浦和の東の方へ住まいを変えてからは、十二日町にはすっかりご無沙汰している。ことに歳をとってからは、夜に出歩くことがない。遠出をしてやむを得ず帰宅が夜遅くなるとき以外は、家からさえ出ない。

 夜というと、すぐに昏い道のりを、月明かりを頼りにとぼとぼと歩いた13歳頃の風景が目に浮かぶ。これは間違いなく、我がノスタルジー。踏み外すと脇の田んぼに転がり落ちるかも知れない未舗装国道の夜道を、しかし何かから解き放たれたような気分を身に感じながら歩いた独りぼっちの感覚。そう言えばあれが、私の原点だったのかなと少年の頃の我が胸中を思い起こしている。

2021年12月11日土曜日

時間は存在しない(4)人類史の痕跡としての「わたし」

 カルロ・ロヴェッリの「時間」の見立ては、みている「わたし」を抜きにしては語れない。ということは、「わたしの(記憶に刻まれた)物語」が「時間の痕跡」であり、すなわち「わたし」の数だけ人類史が刻んだ「時間(という過去)の痕跡」があることになる。

 しかも私の実感として、「わたしの記憶」というのが恒常的に(わが身の裡に)あるわけではない。あるときに思い浮かび、あるときには深く無意識層に沈潜して忘れている。あるいは、他の人の痕跡と出逢うと思い起こし、修正され,移ろう。本を読む、映画を見る、話を聞く、人の振る舞いを目にするだけでもかまわない。それらに触発されて思い浮かぶ事々が、即ちすべて「時間の痕跡」である。表象的に受け止めることも、「わたし」という個別性に集約された「関係誌」であり「関係史」であり、即ち人類史である。いや、それらの断片である。「わたし」の自画像が「せかい」であるように、「わたしの痕跡」が人類史の(断片の)すべてを表している。人の数だけ人類史があるとも言える。

 人類史というのがなにがしかの普遍性を持つように学校を通じて教わってきたが、そうではないと修正される。普遍性は、記憶に刻まれたたくさんの相似の痕跡が、近似の、近似の近似として(したがって誰にも,何処にでも当てはまることとして)ボンヤリと受け止められたことを指している。

 こうも言えようか。「人類史の痕跡」というときすでにそこには、(その感覚や観念を)共有しているという普遍性とか一般性への共通感覚が働いている。私が用いる言葉そのものがそうであるように、「わたし」一個の固有のものは、それ自体として存在していない。そういう意味では、「わたし」が抱く観念や感覚や価値意識も、立ち居振る舞いも、すべてが「わたし」の体験でありながら、「わたし」に仮託された人類史的な文化の(欠片がわが身を)通過した痕跡だということができる。普遍性というのは、近似の近似の近似を指して呼ぶ言葉だと思う。

「神は微細に宿る」というのは、まさしく「近似」ではなく、デキゴトの個別性そのものに宿ることを指している。「神」という言葉に込められた普遍性を当てはめて,デキゴトの「近似」をそれと錯覚するのを正そうとする言葉に聞こえる。

 物事に名をつけることもそうだ。名をつけることによってモノゴトが個別性そのものとして起ち上がる。近似に抽象されてゆく過程で捨象されてしまうことの痕跡を、きっちりと残していこうとする行為の第一歩となる。

 そして今、高齢となった私は、「痕跡の記憶」を茫洋とした混沌へ溶け込ませていっているような気配を感じている。身の内の想念のいろんなことが溶け込んでボンヤリと一つの「混沌」と感じられていく。それは「何が何だかわからない混沌」というよりも、「わからないわけがなとなく感じ取れる混沌」として、腑に落ちる感触を得ているように思う。これは、身と思念とが折り合いをつけて齟齬を来さなくなっている感触なのかも知れない。

 カルト・ロヴェッリは「時間は存在しない」認識へ至る起点に、世界の活動をエントロピーの増大と捉える視線をおいた。人類史的な行為は、混沌の海からさまざまなモノゴトを引きずり出して名をつけ、分節化し、それらの断片を体系化し、物語を添えて一貫性を与えようとしてきたが、そのことそのものが、じつは、世界に秩序を与える試みであった。それがじつは、エントロピーの増大であったとみると、秩序づけてモノゴトを捉えようとするヒトのクセそのものが、それを招来していることである。

 案外、「秩序づける-混沌に踏み込む」という相反するモメントが息づいている実感こそが「生きている」ことじゃないかと思っているが、どんなものだろう。

2021年12月10日金曜日

恢復の体感、施療者への応答

 昨日はリハビリの鍼灸の日。5月から5kmほどを通ってリハビリのマッサージを週4回行ってきた。8月から鍼灸を奨められて隔週に一度加えた。足腰の衰えを防ぐ意味でも、歩いて通うように心がけた。だが、初めのうちは途中二度ほど腰掛けて休みながら、ようやく辿り着く有様。7月頃には通して歩けるようにはなったが、目的地につく頃には肩が張り、痛くなった。疲れが出やすくとれにくくなっていると思った。

 鍼灸は、要所数十カ所に鍼を刺す。要所がピクンと来るところと、何も感じないところがあってどちらがいいのかわからなかった。訊くと、要所に刺激を与えて血流を良くしようとしているというから、ピクンはピクンでそれなりに効果があるのだろうと考えてきた。鍼灸師は「今鍼を刺しているところで痛いところはありますか」と聞く。聞かれる頃にはすっかり馴染んでピクンが果たして痛いということかどうかもわからなくなっている。ただ、鍼灸後にマッサージをすることを含めて概ね1時間の施療。マッサージの15分と較べても、治療を施してもらったという実感は大きい。

 リハビリのおかげと思うが、半年を経て10月から週に2回のマッサージに変えた。鍼灸も11月から3週に1回に削減した。体の不都合感が緩やかに減っている。左肩の肩甲骨と腕の付け根部分の痛みは残るが、動きは遙かに良くなった。

 こうして8ヶ月目に入って、日常の体の動きでは,何の不都合も感じなくなった。ただ、体操をするとか腕の動きをチェックするときには、左腕の可動範囲が右腕ほどではないことに気づく。もう少し動かそうとすると、ピリピリと腕の付け根が悲鳴を上げる。リハビリのマッサージも、その点に集中して施療が行われる。医師の診察が「純粋理性批判」とするなら、リハビリの施療は「実践理性批判」だと思いながら、私の好みは実践理性批判の方だなと思ってきた。

 そうして昨日の鍼灸施療。これで最後という判断が,身の裡に湧き起こってきた。ああ、こういう日が来るとは思っていなかった。いつ切り上げるかは鍼灸師が見極めてくれるとばかり思ってきたから、年末年始の休業期間中を考えると、今度は1月6日になるかと算段していたのだが、わが身の方が、鍼灸はここまでで十分と反応しているように感じた。

 これは、うれしい。関わるリハビリ士は何人かいて、その都度違っていたが、いつしか3人に限られ、たいていは鍼師が私を担当してくれるようになった。その方のマッサージは、私の体の要所を指先でみているように探り当て、押さえ、つかみ、緩急を交えて施療してゆく。まるで私の身と対話しているかのような業だと感じ入っている。こういうのを職人技というのかと,毎回認識を新たにするような気分だった。

 その、お任せと思ってきた私の身が、自ら,ここまでで十分と鍼治療を見極めることがあるとは、思いもしなかった。鍼とマッサージの問いかけに、身を以て応じることができたように感じているのかもしれない。反応することがリスポンスビリティの第一歩。なにか施療者に対する患者としての「責任」を果たしていると思った。

2021年12月8日水曜日

第14回seminarご報告(5)世間って何?

《わが身そのものが「世間」でもある》ことに触れておきたい。

 養老孟司だったか、「世間」について言っていたことを思い出した。「世間」というのは中国語で「人」を意味する言葉だという。では、日本の「世間」にあたるものを中国語ではどういうのか問うと、「人間(じんかん)」というらしい。日本語では、これは「にんげん」だ。これはヒトが群れをなして生き延びてきたことを思い合わせると、いずれであっても納得ができる。この、中国と日本の逆転的違いが何を意味するのか、面白いテーマになるが、それはさて措く。

 日本でいう「世間」は、「その人の共通感覚を持って関わる世界」を意味する。江戸期には、身分もあり関係する世界も限られている。しかも共通感覚を持って関わる世界というのは、人それぞれに異なるから、「世間」の外は「旅の恥はかきすて」のように、知ったこっちゃなかった。逆に言うと、「世間」の外は鬼ばかりでもあった。

「世間」が「その人」によって異なることになるのは、明治以降。

 ヨーロッパから入ってきた「社会」は、「世間」とは異なり、近代市民社会であった。市民社会というのは、考え方も共通感覚もそれぞれに異なる「他者」と、市民としての「権利」を認め合って、日常的に共存する空間を意味した。江戸期の世間に暮らしてきた人からすると、身分を越えて、知らない人たちと付き合う時代が来たということであった。いつも用心して暮らさねばならない。家を出ると七人の敵がいるというのが、実感に近かったのかもしれない。

 明治以降日本人の社会は一挙に広がった。社会の何処に位置しているかで人それぞれになるが、知らない「世間」の外と関わる人々がすぐ隣に登場するようになり、「世間」が消え失せて「世界」と関わる人たちや、さらにその向こうに「知らない世界」を感じている人たちが雑居する日本社会に変わっていった。ことに敗戦後、日本国憲法の洗礼を受けて、欧米風の「理念」を「人権」や「民主制」として受け容れてきた戦中生まれ戦後育ちの私たちは、欧米をスタンダードとして「世間」を嗤い、「世界」へ飛翔するように感じていたのであった。

 振り返ってみると、親世代が抱懐していた「世間」の感性やセンスや価値観を言葉として、振る舞いとして身につけて育ってきた「わたしたち」でもあった。つまり、身に刻まれた「世間」と新しく身に備えてきた「世界」とが齟齬したまんま身の裡に収まって、そのことに気づかず成長してきた。自己が意識されるようになってはじめて、齟齬が浮かび上がるようになり、はたして「わたし」の感覚や価値観は何を根拠に身に収まっているのであろうかと思案することが多くなった。

 山本七平が「水と安全はただと思っている」日本人だったことにも気づいたわけである。それを耳にした当座は、身の裡に残る古いセンスと思い、山本同様にそういう日本人を否定する心持ちが湧かないでもなかったが、一つひとつ繙いていくうちに、「水と安全はただと思っている」日本人の何が悪い、と考えるようになった。庶民大衆にとっては,所詮「水と安全はただと思って」暮らせることが至福の人生ではないか。それを、そう思って暮らせるように整えるのが国のコントロールをしている政治家や役人たちのお仕事ではないのか。山本七平は、税金を納めている庶民大衆が国の舵取りをしているように思っているようだが、それは政治過程の一面しか見ていない。統治の中枢を担っている(明治以降の)人たちがミスリードしたことをこそ、敗戦を機にきちんと行わねばならなかったんじゃないか。

「世間」が消え失せたために庶民大衆を包んでいた「共助」の関係も消えてしまい、人々には個人主義的に生きる術しか残されなかった。「公助」は統治者任せ、「共助」は消え、「自助」は家族だけ、もしくはただの独りとして,孤絶している。それが今,わたしたちの立っている現在地である。

 ジェンダー・ギャップを俎上にあげるには、まだまだ遠い道のりがあったように思う。(つづく)

2021年12月7日火曜日

第14回seminarご報告(4)無知の知

 LGBTQ+を性的嗜好のモンダイといったとき、それが差別につながる「概念」には、もう一つ間に介在する思考の傾きがある。固有名が捨象され、一般化されて「特異」な存在と規定されているのだ。

 私はオードリー・タンのことを例に挙げた。そのとき私は、オードリー・タンという固有名を持つ人のことを思い浮かべていた。天才的なITプログラマーであり、社会活動家であり、台湾の中学校で差別的な扱いを受け(たまたま父親の仕事の関係で)ドイツの中等教育を受けながら、引く手あまたの高名な大学の誘いを断って(中卒のまま)台湾へ戻り、今は若手の閣僚として台湾の社会の変革に立ち会っている、というイメージ。つまり私にとってオードリー・タンは、LGBTQ+をカミングアウトした「G」という性的嗜好だけでなく、彼のこれまでの人生を(ある程度)総合して人柄がイメージされている。ここが重要だし、それを言い落としていたと、後で気づいた。

 人物に対する印象は、それをイメージする人の感性や感覚や価値観や思考の傾きが反映される。それは、対象とする人物の印象を通して、自らを語っているからだ。差別につながるLGBTQ+の「概念」というとき、たいていは、対象となる人の性的嗜好にだけ焦点が合わされ、その人固有の人物像であるかのように規定されて語り出される。その焦点かを施している語り手こそが、語り出されているのだが、往々にして私たちは、語り出されている人のイメージしか思い浮かべない。オードリー・タンは「天才的」という才能が(人物像として)先行していたが故に、カミングアウトしても,その性的嗜好のみが囃されることはなかった。彼の性的嗜好だけに焦点化するには、あまりにも人物が大きすぎたとも言える。

 ミドリさんは「優劣の序列のない(関係)」が望ましいという趣旨の発言をした。それはその通りだが、世の中の人と人との関係は(どんな人との間であっても)、そうした序列を排除しては成り立たない。相手に向かいあるときのリスペクトも(向き合っている人の文化的な価値に基づく)、身に刻まれた優劣の序列が働いている。背の高さとか年の功というのもそれであり、それらは優位的にも差別的にも作用している。固有名とそれに付随するなにがしかの優位的人物像が先行しているときは、LGBTQ+は差別の対象とならない。美輪明宏もおすぎとピーコの場合も、歌とか辛口の社会批評や映画評やファッション評とかがマス・メディアを通して確立され、LGBTQ+は付随する固有性とみなされている。

 逆に言うと、劣位に立つ人は、優位に立つ人の優位性を無視して、劣位の固有性を取り出して囃し立てようとする。そこに自らの自律の根拠があるかのように。

 そういった優位的と認められる固有性がないか(まだ)認められていない場合に、LGBTQ+のような社会的少数者の特異性は、劣位な少数者の表象とみなされ、多数者の(自己確立の)餌食となる。それを差別することによって多数者に属することを自己確認しているという意味で、その差別は繰り返し、折を見て再生される。ということは、差別する方が,自己を確立する根拠を持たないときに周囲の多数派に帰属することで自らの「正当性」としようとする心理的作用が働いているとも言えよう。

 つまり、その特異性を劣位と見なす(差別する側の)人の傾きが表出するが、そのとき差別する側の人は、差別される側の人の固有名に「社会的少数者である=劣位の表象」をかぶせているのであって、固有名の人の全体像を見ているわけではない。これは、性的マイノリティに関してだけではない。障害を抱えたり、不運な境遇に見舞われて,病や貧窮や抑圧にさいなまれている社会的少数者にたいする「劣位概念」に基づく差別的振る舞いなのだ。

 では、どうして,ただ単に社会的少数者であることが劣位の表象に転化するのか。好悪の感情に社会的関係性をかぶせて価値的に物事を見る視線が、作用している。清浄/汚穢、正統/異端、貧窮/豊潤という判断が、ときには宗教的な教義に扶けられて(例えば「貧しき者は幸いなれ」というふうに)優位/劣位が逆転することも交えながら、私たちの身の裡に刻まれている。刻まれるというのは、精神構造の核となっていつの間にか無意識の判断が下されるほどに身に馴染んでしまっていることを指している。

 社会的少数者という観念自体が、すでに差別的であることに結びついている。多数-少数という判断軸を取り払うことができない。それが現実である。それを講師のミドリさんは「世間って、日本だけにあるのよね」と表現した。私が思い浮かべたのは阿部謹也『世間とは何か』(講談社、1995年)。阿部謹也は、他者性を組み込んだ西欧の市民社会に対して、同調性を前提にした日本のコミュニティ性を「世間」と呼んで、特異なこととして取り上げた。阿部謹也の文脈は「世間」を遅れたコミュニティ性とみなすものであったが、それだけでは、わが身の裡に刻まれた「精神構造の核」は剥ぎ取れない。「世間」がわが身を立てるのに一役買っているからだ。というか、わが身そのものが「世間」でもある。無意識に沈んでいる「精神構造の核」を,一つひとつ丁寧に洗い出して俎上にあげる吟味の過程を通してこそ、自己と他者の関係を「優ー劣」の価値秩序から解放して紡ぐことができる。

 その第一歩は、固有名を以て固有の出来事を考えている視線を外さないことだ。つまり、世に出現する出来事を固有の事象として見つめるしかない。だがそうしようとしたとき、私たちにはマス・メディアで知らされる事々について、その個別事象の子細を明らかにする手立てはない。にもかかわらず、世に出来する事象を受け止め「我がこと」として腑に落とすことが、せめてもの固有名として扱う最良の方法だ。その起点にあるのは、「わからないことが多すぎる」という自己認識。無知の知である。(つづく)

2021年12月6日月曜日

時間は存在しない(3)わたしたちと時間

 時間を探求していった結果「時間は記憶であり、過去の痕跡」とみてとったとき、その主体である人間とは何か、わたしとは何かが俎上に載る。カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)はこうして、ヒトの認識がどう行われているかに踏み込む。この、量子物理学者が「人間」とか「わたし」とか「自己認識」の領野に踏み込むところが、この著者のもっとも面白いところであり、単なる外部世界の法則を描き出そうとする物理学者というのではなく、その学問を探求している自己自身の存在を不可欠の一部として世界を描きとろうとしている点で、私の関心と絡まる。つまり自画像を描くことが即ち世界像を描き出すことにつながり、私の描く自画像や世界像と異なり、遙かに広く深いスケールで屹立していることがわかる。

 どう描き始めているか。(物理学的な考察そして)「時間が存在しない」のに、なぜ私たちは時間を世界共通のこととして暮らしているのか。その認識のメカニズムへ踏み込んだいる。

 カルロ・ロヴェッリは、「わたしたちのアイデンティティの構成要素」を三つ取り出す。(1)《わたしたち一人一人がこの世界の「一つの視点」と同一視される》と指摘する。一人一人がこの世界を反映し、「受けとった情報を厳格に統合された形で合成する複雑な過程だ」と見て取る。

(2)つまり「わたしたち自身が世界を組織して実在にしている」という。土地の名も人とのふれあいもさまざまな出来事も、一様で安定した連続的過程として世界を思い浮かべている。感覚器官への入力を伴う「概念」のような「もの」を、「ニューロンの動的システムの不動点」と見極める。

《自分と似た人々と相互作用することによって「人間」という概念を形づくってきた》。そこから「己という概念も生まれる」。《わたし自身にとっての最初の経験は……自分の周囲の世界を見ることであって、自分自身を見ることではない》とみる。

 これは、私が常々口にしていることの、初発の部分を省略している。カルロ・ロヴェッリが「最初の経験」をする以前に、我知らず、身に刻んできているヒトの文化がある。「己という概念も生まれる」後の周囲の世界を見ることは、じつは自己省察とぴっちりと背中合わせになって、「己」の再生産を行っている。

(3)それがアイデンティティとして自覚できるのは、「記憶」にある。その積み重ねが「わたし」。《わたしは現在進行形の長い小説であり、その物語が「わたしの人生」なのである》と、わが身の実在を確信している。記憶によって過去を参照し、未来を予見する精神作用をヒトは常に繰り返している。それがわたしたちにとっての精神構造の核となり、《わたしたちにとっての「時間」の流れなのだ》。

                                      *

 この部分の記述は,私自身の「わたし」や「人間」や「文化」や「認識」について書き記してきたことと、ほぼ重なる。カルロ・ロヴェッリは「時間は存在しない」ことの論理的記述の中でこれを記しているが、私は文化の継承性を記しながら、同じ感覚と概念に到達したアウグスティヌスやフッサールやマルセル・プルーストの引用や紹介をしながら書き進めるカルロ・ロヴェッリの奥行きの深さと浩瀚さには感嘆するほかない。

《つまり時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティの源なのだ》と述べた後に、仏陀の生老病死の四苦八苦、「苦悩」にも言及する。仏陀を最後においたのが、カルロ・ロヴェッリの到達点を示しているのではないかと私は受け止めた。つまり「時間」は幻想であり、そこから解き放たれる「悟り」に至った、と。引用文中の「ヒト」がカタカナであることも、認識している世界が私と重なっている感じがしてうれしい(と、介在している訳者に伝えたい)。

《時はわたしたちを存在させ、わたしたちに存在という貴い贈り物を与え、永遠というはかない幻想をつくることを許す。だからこそ、わたしたちすべての苦悩が生まれる》。

 時間は、私たちの身の裡に存在する。過去の痕跡は、精神構造の核となるとともに、受け継がれた文化として身に刻まれている。時間を構成することによって私たちは,共同性のベースを手に入れ、人それぞれが抱懐している(記憶・文化の総体である)「時間」を交差させながら、社会をつくりだしているのである。

2021年12月5日日曜日

第二期・第14回seminarご報告(3)差別の根源に立つ

 生物学的な「性/sex」と「性差/gender」が自然発生的に連関しているからこそ、男も女も自ら、性差を受け容れて成長し、あるときその差別性に気づいて,声を上げるようになるのだと思う。ただ、戦中生まれ戦後育ちの、「新憲法教育」を受けた世代は「男女平等」という理念を身に刻んでいる。と同時に、親世代や世間のもっている男女差別の文化にもたっぷり浸って成長してきたから、理念と身とが分裂するようなこともあったかもしれない。その都度気づいて、修正を施しているのが実態である。

 新憲法世代の男女平等の観念には(我が胸に手を当てて考えて見ると)、父権主義的な要素がずいぶんとあったと、大人になって思い当たることが多かった。男兄弟ばかりの間で育ったせいであろうか、それとも親世代の振る舞いがすり込まれたものであったろうか。女は弱いもの、男が保護的に向き合わねばならないと,まず思う自分があった。

 憲法の定めに基づいて制定されていた労働基準法にしても、例えば女性の深夜労働の禁止とか生理休暇というのは、そういう父権主義の発露としての保護的な規定だと考えていた。だから1980年代の後半であったか、国連の女子差別撤廃条約批准地のもなって労働労基準法の改正がなされて女性の深夜労働が取り払われたとき、えっ、それも? と思ったものだった。

 生物学的に、男に較べて女は体格が小さいとか筋力が劣るということだけでも、男が保護的に振る舞うのは当然と考えた。加えて母親となった女性が家庭で子育てをもっぱら担当しながら、健闘しているのをみると、仕事の面でいくぶんかでも軽減できる配置をすることもあって、それを女性差別とは考えもしなかったのであった。それ故にseminarでもそう発言したが、仕事の面でも女性が控えめに立ち振る舞うのは致し方ないとさえ思っていた。件のオリンピック組織委員会の森会長発言をジョークと受けとったのも、女性蔑視とみれば,なるほどそうかもしれないが、目くじら立てるほどのコトとも思わなかったのであった。でもそれらを総覧してみると、女性の間にもジェンダー・ギャップがあって然るべきですから、関係における位置づけを(男-女間の問題以外で)性差におくことがジェンダー・ギャップといえるのだと思った。

 海外メディアが騒ぎ出し、日本社会の(女性蔑視に関する)反応の鈍さを槍玉に挙げたとき、欧米との落差の大きさに気づきはしたが、それでもまだ「文化の差異」を欧米基準で判断しすぎるという気持ちをもっていた。たとえば欧米基準で語られるポリティカル・コレクトネスも、杓子定規な法的規制であって、言葉ってものが発せられる場とか文脈というものを勘案する領域が含まれていないじゃないかと,今でも思うところがある。法的に物事を処理してしまうセンスの欧米と、関係文脈的に考えて始末しようとする日本との差異は、文化的なものだとっ私が考えてきたことが浮き彫りになっている。

 ジェンダーを考えるときにも、だから、文化人類学的な考察から「男女の別」がどう認知され、社会的に扱われてきたかから説き起こさねばならないのじゃないかと,思う。となると、原始集団において、どうして将来女は別の氏族への贈り物として扱われたのか、浄不浄という観念と子を産むという女性の生理とがなぜ連接されることになったのか。神々と交信して、言葉を交わすことができるという不可思議が女に託されながら、なぜ不浄とされるに至ったのか。などなど、わからないことが多く、それらを一つひとつ解きほぐしていかなければ、性差を差別と一口に言うことはできないのではないかと、ぼんやりと考えている。

 ミドリさんの指摘する性的マイノリティについては、最初に浮かんだのは、生物学的な発生に関する記述だった。「(4)LGBTQ+」への共感性は私にとっては、理知的なベースに乗っているということ。生物学的にヒトは単細胞から受精して誕生するまでの間だれもが、初めは女性として育ち、妊娠の半ばで男性の外性器が発生して分岐する。それに変異が生まれるのが、LGBTQ+だと理解している。

 福岡伸一がどこかで「√nの法則」と呼んでいたが、細胞の動きは一様ではなく、一部は逆向きに動いたり,変移するという。すると、100個の細胞なら10個が、1万個の細胞なら100個が、1億個の細胞なら1万個が全体の動きに逆行する方向へ変異する。だから生物は、大きい方がDNAの継承性においても優位であるから、体が大きくなったのだといっていた。LGBTQ+は、そうした変異の現れであると考えると、不思議ではない。

 ただ、LGBTQ+(ばかりではないが)に対する差別的な言辞や振る舞いがなぜ起こるのか。ミドリさんは「カレシいるの?」と聞くことはLGBTQ+に当たるから、「お相手は?」と聞くべきってコトになると、世間の様子を報告した。その世間の見立ては,正解だろうか。私は納得できない。

 世間の常識では、LGBTQ+はマイノリティである。話している相手がLGBTQ+の一人だと知らない者からすると、世間の多数の一人と(今向き合っている相手を)見ていても、不思議ではない。若い女性に対して「カレシいるの?」と訊いてそれがLGBTQ+の差別だというのは、当人の被害妄想じゃないか。自分のことを知られたくないというのなら、世間の多数と見なされてしまうことは、結構なことではないのか。もしそれを不快に感じるのなら、オードリー・タンのように自分がLGBTQ+の一人であることを公表し振る舞うことだ。

 にもかかわらず、それを差別的に扱う人たちが数多いる。それがジェンダー・ギャップのモンダイなのだ。とすると、じつはそれは、ジェンダー・ギャップばかりでなく、差異を取り上げ、それを少数者として差別的に扱うことがなぜ生じるのかを考えていかねばならない。それこそ「関係のモンダイ」であって、差別的に振る舞う人の社会的立ち位置こそが取り上げられなければならないと思う。LGBTQ+を不快と受けとって差別する人というのは、自らの性的嗜好が満たされていないからだ。ひょっとすると、性的嗜好に関係なく、自らの境遇が望むように満たされず、鬱屈を抱え込んでいるのかもしれない。そういう自らの内心を(なぜかわからぬまま)解放するのに、他者を差別するというのは、ありうる振る舞いなのだ。そうやって人は、他者との関係を参照して、自己を形づくり、保ってきた。この世の差別は、基本的に差別する人の社会的処遇をモンダイとして俎上にあげるべきであるのに、法制的に始末しようとすると、限界を示しそれを超えると処罰すると規定することしかできない。だからこそ差別のモンダイは、社会的に扱われるべき事柄だと言えるのではなかろうか。(つづく)

2021年12月4日土曜日

時間は存在しない(2)出来事の痕跡・記憶が過去

「すべての出来事を生じさせているシヴァ神の踊り」と、「時間は存在しない」は、どう関係するのか。すべての事々は、いま存在しているとも言える。問題は、だれが何処に身を置いて、時間を認識しているかだ。

 そう考えてみると、ビッグバンが138.2億年前に起こったということも、それを明かす徴が観測できるようになってからではあるが、今地球に届いている。時間が存在するというよりは、過去の痕跡が残っていることによって、私たちに知れる所となる。

 過去から現在、そして未来へと時間が流れているというのは、私たちが(過去の痕跡を)認識することができたことを、外に指標を設けて一つの流れとして物語り化したものと考えることができる。時間が存在するというのではなく、時間を外部化することによって、痕跡の認知すなわち記憶を外部化して、共同体化したのだ。時計はその象徴とも言える。

 これは、個人の認識にも当てはまる。亡くなった人を思い起こすというのは、亡くなった人との「痕跡の記憶」を(関わりのあった誰かが)呼び起こしていることだ。エントロピーが枯渇したとき(熱平衡状態になり)人も物も解体過程に入って姿を変える。ただ、その存在の痕跡が、月に衝突した隕石の痕跡があばたになって見えるように、残る。月を見る人にはその痕跡が認知され、想起される。そうでない人には気にもとめられない。

 ヒトは言葉を通じて「記憶」を表象的にとどめることもするようになり、その分だけ、「痕跡の記憶」の共有される範囲は広がった。その一部が「科学」という客観的な認識として特化され、あたかも誰が見ても同じように見えると、特異な立場を与えられるようになったが、じつは、ありとあらゆる出来事が(その認知する立場を得ることとなれば)「痕跡の記憶」を共有することができると言える。ただ、無数にある「そうした出来事」と「それを認知する人の立場」は、そう簡単に共有できるものではない。むしろ、子細を放棄して「ぼんやりとみる」ことが叶えば、無数の「出来事」や「想起する人」の共通性を認めることができて、「痕跡の記憶」の感懐を共有することができる。

 実は,今私の話しは逆立ちしている。ヒトの「記憶(する言葉)」にまつわる生成的な順番からいえば、そのベースになる感性も感覚も、それを認識するときの言葉も、その表現の技術も、生育歴中に関わる人々の文化を携えた関わりによって身に備えてきたものである。つまり、もともと共感性を土台として、ある程度「出来事」の起こる事態を共有する感性や感覚を身に刻んでヒトとして立ち現れている。

 例えば動物の記憶力は真に精妙で厳密だと、生物学的実験は告げている。厳密で精妙であるからこそ、少し場が変わり、様子が異なるとそれ以前の記憶が適用できなくなる。だがヒトは、厳密で精妙でない分だけ、表象的に広く、さまざまなことへコトの示すものを敷衍する「記憶」を持つようになった。それは厳密で精妙な記憶をぼんやりと捉え、ときには飛躍させて別様に解釈することによって、「(記憶の)共同性の範囲」を広め,深めてきた。

 カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)は、こう記している。

《二つの出来事の間にありそうにない関連が見られたなら、何かありそうにないことが起きているはずで、そのようなことを起こせるのは、過去にエントロピーが低かったという状況しかないからだ。ほかに何があり得ようか。言い換えると、過去に共通の原因が存在するのは,過去にエントロピーが低かったことの表れでしかない。熱平衡の状態にある系や純粋に力学的な系では、因果によって識別される時間の方向は存在しないのだ》

《……記憶や因果、流れや「定まった過去と不確かな未来」といったものは、ある統計的な事実、すなわち宇宙の過去の状態としてありそうにないものがあるという事実がもたらす結果にわたしたちが与えた名前でしかない》

 こう述べて、宇宙の生成過程も、人間の歴史も,これらすべてが「特殊」であったとみてとり、「したがって因果や記憶や痕跡やこの世界自体の出来事の歴史もまた、視点がもたらす結果でしかないのかもしれない。……こうして非情にも、時間の研究はわたしたちを自分自身に引き戻す。わたしたちはついに、己と向き合うことになるのだ」と述べる。こうしてカルロ・ロヴェリは人間とは何か、「わたし」とはいったいなにかと哲学的領域に踏み込んでいくのである。(つづく)

2021年12月3日金曜日

時間は存在しない(1)エネルギーに関するコペルニクス的転回

 カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)を、久々に興奮して読んだ。この著者はイタリア生まれの理論物理学者。

 三部に分かれている。

 第一部では、現代物理学が時間について知り得たことを手短に紹介する。それはちょうど天動説が間違いであったと気づくように、時間の概念が崩壊していく過程でもある。

 第二部は、その結果残されたものについて述べる。《……本質だけが残された世界は美しくも不毛で、曇りなくも薄気味悪く輝いている。わたしが取り組んでいる量子重力理論と呼ばれる物理学は、この極端で美しい風景、時間のない世界を理解し、筋の通った意味を与えようとする試みなのだ。》と自分の立ち位置を見据えて述べている。

 第三部を《もっとも難しく、それでいていちばん生き生きしており、わたしたち自身と深く関わっている」と前置きして、「第一部でこの基本的原理を追い求める家に失われた「時間」へと立ち戻る機関の旅》と概説し、《ちょうど探偵小説のように,今度は時間を生み出す張本人を探ってゆく》と予告する。たしかに物理学に関わる部分は「難しい」が、むしろ第一部第二部と異なり、ハラハラしながら一気に読み進めていった。

 この著者は「もしみなさんについてきてくださる気持ちがおありなら、時間に関する現在の地の到達点と思われるところへ……おつれしよう」と、控えめに開会宣言をしている所が、肝。つまりこの方は、私たち庶民大衆が崩壊している「時間」に対する観念を、物理学の方から解きほぐして、私たちの日常感覚に見事に連接している。著者が「難しい」というのは(たぶん)物理学のことではなく、哲学的な分野の頃に踏み込んでいるからではないか。私たちの日常感覚をコペルニクス的に展開させる。まさに「生き生きしている」記述だ。

《世界を動かしているのはエネルギー資源ではなく、低いエントロピーの資源なのだ。低いエントロピーがなければ、エネルギーは薄まって一様な熱となり、この世界は熱平衡状態になって眠りにつく。もはや過去と未来の区別はなく、何も起こらなくなる》

 この転換に作用している物理学的知見とは、「熱力学の第二法則」(本書に唯一登場する数式、ΔS≧0。エネルギーは不変だが、エントロピーは増大する。その方向は逆向きにできない)であるという。とすると太陽が低いエントロピーの源泉となる。そこから放出される(エントロピーの低い)熱い光子が1個地球に届くと地球から(エントロピーの高い)冷たい光子が10個放出される。太陽からの低いエントロピーが熱エネルギーに変わり、動植物を育て動かし、諸種の人工的構築物に変わり、地上の生命体の活動となって現れる。

 では太陽のエントロピーの源泉は何かと問うていくと、ついにはビッグバンへと向かうことになる。つまり、そこから逆算して考えてくると、「低いエントロピー資源が世界を動かしている」認識に至るというわけだ。

 光合成は熱エネルギーをエントロピーに変えて溜め込む作用。動物はそれを食べてエントロピーを得ている。「餌から低いエントロピーを得ているだけのことで、生命は宇宙の他の部分同様、自己組織化された無秩序なのである」。

《宇宙自体が、閉じたり開いたりする部分同士の相互作用を通じて少しずつ自分をかき混ぜる宇宙の広大な領域が、秩序だった配置に閉じ込められたままになっているが、やがてあちこちで新たな回路が開き、そこから無秩序が広がる》

 コロナウィルスとヒトとの「かんけい」も、その一つと考えると、「すべての出来事を生じさせているのは、このどこまでも増大するエントロピーの踊り、宇宙の始まりの低いエントロピーを糧とする踊りであって、これこそがシヴァ神の真の踊りなのである」。

  ちょっと丁寧に追っていきたい。(つづく)

2021年12月2日木曜日

霹靂の晴天

 昨朝(12/1)は、自転車置き場の屋根を叩く激しい雨の後に目を覚まされた。いやそれだけではない。強い風にざわざわと庭木が音を立てる。でも予報では9時頃に晴れマークがついているからと、カミサンは出かける用意をしている。北本自然観察公園で植物観察の集まりがあるのだ。その何日か前に下見に行ったカミサンは、当日雨にならないかとと期待していた。それほど、見るほどのものが無いという。聞いていると、ここぞと焦点を絞れないで困っている様子だった。だが無情にも、9時までの大雨は9時から晴れマークとなり、観察会のコーディネートをしている方から、「よろしくお願いします」と、NHKとTBS両TV局の「予報」をつけてメールを送ってきている。行かざるべからず。

 6時頃のニュースでは、都内でも水が溢れる画像が流れる。埼玉県南部と南東部は大荒れになると注意が呼びかけられている。その中に「宇都宮線と高崎線が止まっている」ともあった。いけなくなって喜んでいるかと思ったら、何だかどうやったらいけるかと思案しているようだ。

「車で送ろうか?」

「何時頃出る?」

 と、すっかり前向きになっている。送らざるべからず。

 だが、水が出ているとなると、大和田の大宮商業高校脇の道路が大きく立体交差で窪んでいる辺りと、北本のコカコーラ社から西へ向かって高崎線をくぐる所がこれまた立体交差になって窪んでいる辺りが、水が溜まって通れなくなるのではないか。回り込むかもしれないから余計に時間を見込んで、家を出た。

 新産業道路は混んでいる。毎朝そうなのか、雨だからそうなのかは、わからない。でも慌てても仕方がない。大和田の立体交差の所は、難なく通過。水が溜まっている気配はない。高い部分から流れ落ちないだけでなく、降った飴排も水が行き届いているのであろう。層だよなあ、建設時にそういう工夫をするくらいのことはするよなと、日本の土木工学の慥かさを思い起こす。時間がかかり、コンビニによってトイレを借りる。何かを買わないと悪いから、何にするかちょっと迷い、油井のボールペンを買う。

 国道17号と合流する上尾水上公園あたりは、恒例のように渋滞している。その先も、上尾市を出るまでは混雑する。どうしてここが混むのかはわからないが、30年ほど前からの渋滞指定地みたいなところだ。助手席のカミサンは、コーディネータと電話で連絡が取れるから、急がなくていいと、私の運転を心配している。

 naviは、目的地に到着時刻を表示し続けている。家を出るときは集合時刻の30分も前だったのが、集合時刻を少し過ぎる時刻に変わっている。だがnaviは、一般道路の走行速度を30km/hと計算している。ふだんの走行では、おおよそ1/3は信号待ちで停止しているから、時速45km/hで走っていればnaviの指定時刻、それより速いいときは早く着くとみている。ラジオが「高崎線も開通した.遅れが出ている」と放送している。そうだそうだ。これを知っていれば、かみさんが来るとは思っていないかもしれない。そう言うとカミサンは、「あの人たちはいつも車で動いているから、電車のことは気にかけていないんじゃないかな」と笑う。

 北本の立体交差も水の心配は杞憂であった。空は雲がかかり、雨はひどくなった。ワイパーの速度も速まっている。到着したのは、集合時刻の4分前。コーディネータの一人が入口で傘を差して待っていた。良かった。

 私はトイレを済ませてすぐに帰途についた。雨はだんだん小やみになり、家に着く頃にはすっかり上がった。日差しが差し込み始め、霹靂の晴天になった。観察会は順調に運び、みなさん100円ショップのスマホに取り付けて倍率を上げてみる道具を手に入れて、わいわいと楽しんだらしい。

2021年12月1日水曜日

自然が主体の世界

 オミクロンという変異株に用心しようという。コロナウィルス禍も変移している。なぜ感染が減少しているのかわからないと同様、なぜ変移するのかもわからない。変移しても、感染力が強くなるとも限らないが、オミクロンは強い感染可能性があるという。遭遇してみないと専門家もわからない。大自然相手だと、改めて思う。と同時に、この世界は自然が主体なんだねと、これも改めて思う。

 欧米の一神教の信仰では、この自然の頂点を神と仰いだ。神の被造物である天地のすべてが、やはり神の被造物であるヒトに託されたと物語を作った。そうして、ヒトを主体とする哲学が誕生したというわけであろうが、この文脈の間にヒトによる手前勝手な物語の作り替えが為されている。「託された」という偽装である。

 しかし、この偽装のおかげで、ヒトが自然を守る責任が発生した。自然の上に神をおくことによって、主体=神の意思が偽装主体=ヒトへと乗り移り、ヒトは神の御意志、つまり支配に従うことをルールと呼び、支配されることがヒトが主体を確立することの第一歩とされて、be subject to ~という、受け身形の用法となった。

 他方、アジアの多神教は概ね、自然を主体と考えてきたが、そこに頂点があるとは考えなかった。自然とは混沌であるとみた。つまり、「わからない」。その結果、自然を守る責任がヒトにあるとは思いもしなかった。ひたすら自然に翻弄されてもそれをそのまま受け止め、遵い、解釈し、適応することを身につける。つまり、適応するというかたちでヒトは環境への責任を問われず、しかし自然の摂理に遵うという生き方を身に付けていった。

 この両者の自然観の違い(神の意志か混沌か)が、欧米とアジアのボタンの掛け違いになってくる。西欧の人間中心主義、すなわちヒューマニズムが自然への畏れを忘れ、手荒な改変につながった。アジアの自然観はなるがままに環境を放置してきた。それが逆に、自然環境をどう保護していくかに関する責任の違いに現れて、進んだ欧米/遅れたアジアという恰好になっている。ことに、近代が先行する西欧が環境破壊に気づいて、それを修正していくのは当然と言えば当然である。後を追うアジアから見ると、やっと近代というのが「混沌」のすべてに秩序をもたらすという驕慢な所業だと気づかされた。

 なぜ驕慢というのか。自然を「混沌」とみるのは、「わからない」と自らの立ち位置を自覚している言葉である。それを欧米の「近代」は、「わからない」ことは明らかにしていけばいいと考えている。つまり自然に「秩序を与える」ことができると、前提にしている。日本語で言えば、「謙譲の心持ち」がない傲岸不遜である。

 でも、欧米の「秩序を与える」ことが、人がクセとする好奇心を満たす(「わからない」ことに向き合う)ことと同じベクトルを持っているから、否定しようもないとアジアでは受けとっているのか、つねに欧米の後追いをしてきたわけだ。だが、「秩序」を与えれば与えるほど、「わからない」「混沌」が広がり深まることが、アジア的な自然観からすると明らかに見える。エントロピーの増大だ。

 ところがここへきて、世界秩序をつくることについてアジアもそれなりの「発言力」をもってきた。神を戴いたかのような中国の振る舞いが欧米主導の世界秩序を脅かしている。統治について欧米と近似的なセンスを持っている中国が、欧米に対抗して秩序形成の双璧として姿を現した。そう考えてみると、アメリカと中国との確執がどう移り変わるか世界の緊張がそこに集約されるのだったが、そこに割って入ったのが、コロナウィルスであった。私は天啓だと思っている。「秩序を与えるなどとアホなことはよしなされ」といわんばかりに、ここ2年、コロナウィルスが世界秩序を席巻してきた。鎖国(という名の管理貿易)だって、なんだこんな簡単にできるんだと思われるほど。それもワクチン開発で一段落つくかに見えたが、そうはどっこいいくものかと、ウィルスが盛り返している。

 オミクロン株という変種を繰り出して、延長戦に持ち込まれた。ここへきて、ひとつ思い出したことがある。ボルツマンという物理学者が提唱したのであったか、エントロピーの増大は、どこまで天啓を発信し続けるか。

 ヒトが懲りるまで? どうしよう。