昨日はリハビリの鍼灸の日。5月から5kmほどを通ってリハビリのマッサージを週4回行ってきた。8月から鍼灸を奨められて隔週に一度加えた。足腰の衰えを防ぐ意味でも、歩いて通うように心がけた。だが、初めのうちは途中二度ほど腰掛けて休みながら、ようやく辿り着く有様。7月頃には通して歩けるようにはなったが、目的地につく頃には肩が張り、痛くなった。疲れが出やすくとれにくくなっていると思った。
鍼灸は、要所数十カ所に鍼を刺す。要所がピクンと来るところと、何も感じないところがあってどちらがいいのかわからなかった。訊くと、要所に刺激を与えて血流を良くしようとしているというから、ピクンはピクンでそれなりに効果があるのだろうと考えてきた。鍼灸師は「今鍼を刺しているところで痛いところはありますか」と聞く。聞かれる頃にはすっかり馴染んでピクンが果たして痛いということかどうかもわからなくなっている。ただ、鍼灸後にマッサージをすることを含めて概ね1時間の施療。マッサージの15分と較べても、治療を施してもらったという実感は大きい。
リハビリのおかげと思うが、半年を経て10月から週に2回のマッサージに変えた。鍼灸も11月から3週に1回に削減した。体の不都合感が緩やかに減っている。左肩の肩甲骨と腕の付け根部分の痛みは残るが、動きは遙かに良くなった。
こうして8ヶ月目に入って、日常の体の動きでは,何の不都合も感じなくなった。ただ、体操をするとか腕の動きをチェックするときには、左腕の可動範囲が右腕ほどではないことに気づく。もう少し動かそうとすると、ピリピリと腕の付け根が悲鳴を上げる。リハビリのマッサージも、その点に集中して施療が行われる。医師の診察が「純粋理性批判」とするなら、リハビリの施療は「実践理性批判」だと思いながら、私の好みは実践理性批判の方だなと思ってきた。
そうして昨日の鍼灸施療。これで最後という判断が,身の裡に湧き起こってきた。ああ、こういう日が来るとは思っていなかった。いつ切り上げるかは鍼灸師が見極めてくれるとばかり思ってきたから、年末年始の休業期間中を考えると、今度は1月6日になるかと算段していたのだが、わが身の方が、鍼灸はここまでで十分と反応しているように感じた。
これは、うれしい。関わるリハビリ士は何人かいて、その都度違っていたが、いつしか3人に限られ、たいていは鍼師が私を担当してくれるようになった。その方のマッサージは、私の体の要所を指先でみているように探り当て、押さえ、つかみ、緩急を交えて施療してゆく。まるで私の身と対話しているかのような業だと感じ入っている。こういうのを職人技というのかと,毎回認識を新たにするような気分だった。
その、お任せと思ってきた私の身が、自ら,ここまでで十分と鍼治療を見極めることがあるとは、思いもしなかった。鍼とマッサージの問いかけに、身を以て応じることができたように感じているのかもしれない。反応することがリスポンスビリティの第一歩。なにか施療者に対する患者としての「責任」を果たしていると思った。
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