2021年12月26日日曜日

移民を受け容れることができるか

 12/24の本欄で「自足が危う差を生み出す?」と書いた。経済的な競争において優位に立つことが起業家たちに「自足」をもたらし、差異性を生み出す競争社会において停滞の危うさのベースになっているという取材記者の話であった。では、1990年代以降の日本に先んじて1980年代に同様の状態にあったアメリカはなぜ今もトップを走っているのか。

 日本との社会的気風の違いを考えると、まず、アメリカ的であることがグローバル・スタンダードだという「(世界の)センター意識」が決定的である。日本の場合、つねに追いつく立場にあった。なにしろ欧米化が目標であった。「極東意識」という中心から大きく外れているという意識を忘れたことはない。その気風の違いが、移民の受け入れにも躊躇する気分をもたらす。小渕内閣の時、人口減少下で経済成長を維持するには毎年60万人の移民を30年間続ける必要があると「21世紀日本の構想」が提示されたが、それを実行してやっと総人口に占める移民の割合は14%ほど、ヨーロッパの18%に及ばない。いま日本の外国人の割合は1.8%ほどだから、体感的にも移民社会というのがどんなものであるか、とうてい分からないと言えよう。

 アメリカが移民社会になっている土台に「(世界の)センター意識」があることは疑いない。しかもそうした移民が大統領や副大統領になる気風であるから、仮令「経済脳」であっても停滞に陥らない競争原理を作動させてきたとも言える。

 この移民受け容れの「21世紀日本の構想」が発表された頃、高校生と言葉を交わしていて世代の違いを感じさせたことがあった。当時、電車の案内表示にハングルや簡体字の中国語が登場し始めていた。また電車の中でイラン系の人たちが集まってしゃべっている姿をよく見かけるようになって、私などはちょっとした違和感というか、畏れにも似た感触を感じていたが、高校生はそれに違和感をほとんど覚えていないとわかり、驚きでもあった。また、韓国や北朝鮮の人たちの「(日本や日本人に対する)要求」を耳にすると、ひとまず良く聞いてみなくちゃならないという傾きを私はもっていると話すと、高校生は(えっ、どうして?)とよく理解できない表情をしていたのも、印象的であった。彼らは、朝鮮人に対する罪責感を全く持っていなかったのだ。

 そういうことがあったから、60万人を30年間受け入れという「日本の構想」はほとんど荒唐無稽に思え、でもそうなったとき、高齢者になっていく私たちは馴染めるだろうかと不安を感じたことを覚えている。だから、このままでいいというわけではないが、外国人の技能実習生に対する処遇の酷さや不法滞在者に対する入管の接遇の仕方が酷いのが(わが身の感触が剥き出しになったようで)理解はできるように感じている。彼らを労働力として遇しているのであれば、単なる長期滞在者というよりも共同生活者として受け容れていく気風を培わなければならないんじゃないかと反省的に思う。

 反省はしながらも、しかし、外国人とか移民に対するこういう(私のように違和感を持つ)気風が社会にあるうちは、日本はとても「経済脳」で「(世界の)センター意識」でモノゴトを考えてはいけないんじゃないかと、思う。極東の端っこにいて、でも自立した国家としての誇りを持って、国際社会でそれなりに役割を果たしていくとすると、「経済脳」で競りだしていくのではなく、文化的なメンタリティに矜持をもって世界に位置付く志を抱けるといいのではないか。

 それがせめてもの、「(私版)21世紀日本の構想」である。日本が持つ文化的なメンタリティと私がイメージするのは、控えめで静謐な、しかし気配りと芯の強さを忘れないというような、生活者的な質朴な佇まいなのだが、はたしてそういう気風が、今の若い人たちに受け容れられるのかどうかは、わからない。

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