2021年12月27日月曜日

経済脳と謙虚さ

 昨日の「移民を受け容れることができるか」を書いた後で目にしたのが、東洋経済Onoine野々口悠紀雄の記事「日本が国際的地位を格段に下げている痛切な事実」。「いつの頃からか日本人は「謙虚さ」を失っている」と副題を振っている。

 2000年と2020年の先進40カ国の一人当たりGDPを比較して、日本の特徴をつかみ出している。2000年に、第1位ルクセンブルクに次いで第2位だった日本。アメリカは第5位であったが、2020年に日本は第24位、アメリカは変わらず5位だが2000年比58.7%増となっている。

「自国通貨建て1人当たりGDPの2000年から2021年の増加率をみると、つぎのとおりだ。日本が4.6%、アメリカが91.0%、韓国が188.0%、イギリスが78.5%、ドイツが64.2%。」と野口悠紀雄はデータを示す。野口は2点指摘する。

(1)アベノミクスが始まる直前の2012年には、順位が低下したとはいうものの、世界第13位。第10位のアメリカの95%だった。第20位のドイツより12%高かった。

(2)日本の地位がこのように低下しているにもかかわらず、日本人はいつの頃からか、謙虚さを失ったとして、次のような事実を挙げる。

《2005年頃、日本の1人当たりGDPのランクが落ちていると指摘すると、「自分の国を貶めるのか」といった類の批判を受けることがあった。客観的な指標がここまで落ち込んでしまっては、さすがにそうした批判はない。それでも心情的な反発はある。……日本の経済パフォーマンスの低さを指摘すると、「自分の国のあら捜しをして楽しいのか」という批判が来る。アメリカの所得が高いと言うと、「所得分布が不公平なのを知らないのか」と言われる。つまり、外国にはこういう悪い点があるのだという反発が返ってくる。……韓国の高い成長率に学ぶ必要であるというと、「韓国は日本の支援で成長したのを知らないのか」という意見にぶつかる。》

 いかにも実業場面をみてきた野口らしく、クールに事実を見つめない日本のエコノミストに憤懣やるかたない思いが伝わってくる。野口の憤懣の根にあるのは、彼に反論する人たちが「1980年代の成功体験」にしがみついていることと読める。これは私が言ってきた「自足」とは違う。野口はそれを「謙虚さを失った」と表現している。どういうことだろうか。

 経済脳だけで考えても、1980年代の日本経済のバブル的隆盛は、日本の工業力の力だけで達成されたわけではありません。アメリカの自足による停滞という「敵失」もあれば、軌道に乗る前のEUのちぐはぐもあったでしょう。何より学ぶべき技術的モデルは欧米にあり、なお、東アジア・東南アジアの唯一の先進国という立ち位置が、途上国との依存関係という優位性も作用していたに違いありません。

 それを「日本人の優秀性」のように固定して受け止める心持ちが「停滞」へとつながるベースを為しています。1992年のブッシュ父大統領がアメリカの大手企業経営者を引き連れて日本訪問し、日米経済摩擦を協議したときの、日本マス・メディアの得意満面の報道ぶりは、印象深いものでした。そのときすでに日本の経済はバブルが弾け、「失われた*十年」へ突入していたにも関わらず、金持ち喧嘩せず然と鷹揚に構えて、何と600兆円もの内需拡大を約束したのですから、まさしく「太平洋戦争の恨みを晴らした」つもりになったのかも知れません。

「謙虚さを失う」と野口悠紀雄は評しましたが、経済競争において優位に立つか劣位に甘んじるかをクールに見て取るセンスが磨かれるには、優位なときほど謙虚に実力を見定める視力が必要なのです。その当時すでにどなたかが指摘していましたが、モデルを追いかけるときの日本は力を発揮するけれども、トップを走るには決定的な戦略的思考が欠けているという「課題」を本気でクリアしていったのかどうか。せいぜい1980年代に「ゆとり教育」を提起して、創造力を培う何かをやったつもりになっただけじゃなかったか。

 潤沢な資金を注ぎ込んで百年の計を立てたつもりだったかも知れません。だが計画を遂行するには、現場の気風を醸成することから諄々と手を尽くさねばなりませんのに、トップダウンが機能しないことが最大の現場問題として、国旗国歌の法制化や職員会議の決議権を取り上げるとかとか、現場の牙を抜くことに夢中となって、壮大な構想を現実過程に移して遂行していく実務を、ほとんど第二次大戦の兵站なしの戦線拡大のように指図したのですから、現場はボロボロになるばかり。教師たちは自分たちが何をしているかを自問自答しながら技を身につけていくものなのに、ただただ「年間計画」を提出し、「実施報告書」を書区ことに追われ、10年次の免許更新をすればいいんでしょとばかりに、新しい教育施策に向き合うようになった。それが21世紀日本の教育の実態であったと、すでに退職している私は、後輩たちから耳にしたのでした。結局その「ゆとり教育」も2010年代に「脱ゆとり」と称して取り下げてしまうほどでした。ときの文部行政の中心にいたヒトが「団塊の世代が現場からいなくなれば、学校は良くなりますよ」と1990年代に口にしたのは、忘れられません。その短期的な視野には呆れてものも言えませんでした。

 さて、そういうわけで私は、せいぜい小渕内閣が提起した「21世紀日本の構想」の答申がイメージとしてはもっとも良かったと受け止めていますが、むろん、言説だけです。日本の産業構造から、外国人労働者の受け容れ、地方分権や大学教育の改革などなど、フォローする視界の広さと長い年月を治めた戦略的視線は、ひょっとしたら面白い日本の変革につながるかと期待させましたが、全くの画餅になってしまいましたね。

 そのあげくが、アベノミクスです。株価とか企業収益の増減とか、通貨の円安を図るとか、何とも短期的なことにしか関心を示さないのが常態になってしまった。かつて大蔵省MOFが誇っていた日本の屋台骨を支えているのは私たちだという誇りも、一人の首相の切った啖呵を保持するために文書改竄を手がけ、しかもそれを指示した官僚を護ろうと奔走し、ついには裁判を回避するために訴えを「応諾」するという為体。野口悠紀雄ならずとも、日本のシンクタンクは、もうすっかり錆び付いてボロボロになってしまっていると、愚痴をこぼしたくなるだけですね。

 こういう状況だから、ますます防衛問題でも外交とかをすっ飛ばして、すぐに敵基地攻撃能力とかイージス艦装備という暴力装置の話になってしまうのですね。危なくてしようがない。そう思います。

 謙虚さを失ったという野口の評は、まだ甘いといわねばならないほど、日本の行政システムは腐りきっているように思えます。こんな日本に誰がした! と嘆くのは、まだ早い。バブルの恩恵に浴してきた人たちは、その前に、1990年代以降の30年間を、お前さんはどう過ごしたのかい? と自問自答して、自らの思念を長期的にめぐらしてみてはどうだろうか。その上で、経済脳から文化脳へ切り替えるにはどうしたらいいかを思案してみようかとおもっているのですが、さてどうしたらいいんでしょう。

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