2021年12月29日水曜日

「哲学する」グレーゾーン

 国分功一郎が「哲学する」ことについて触れた文章が、微妙なところで私の思念とスパークして、なるほどと思わせると共に、わが身に突き刺さる。

 近代政治思想の出発点とも謂われるホッブズの「自然権」に子細に触れ、それが原点から説き起こそうとしたことを評価した後に、スピノザがやはり、ホッブズと同じ「自然権」概念のもっと子細な解釈からホッブズの「リヴァイアサン」とは逆の政治哲学へ転回する過程を追ってきたあとで、当時イギリスで人気を博していたジョン・ロックの『政府二論』を取り上げている。

 その入口のところでレオ・シュトラウスの言を引用して、

《ロックは哲学者として哲学者たちに語ったというより、イギリス人としてイギリス人たちに語ったのだと述べている》

 と前置きして「そのような本として読むべきなのかも知れない」と手厳しい評価を下して、こう続ける。

《哲学は概念を用いて根拠を問う。新しい哲学が生まれるのは、それまでものごとを基礎づけていると見なされてきた根拠が改めて問い直されるときである。……対し、根拠が問われずに述べられたことは、どれだけ理論的に見えようとも、哲学にはならない。それは著者の単なる主張である。……ロックの自然状態論とは、まさしくそのような意味での主張である》

 と結論的に述べている(『近代政治哲学-自然・主権・行政』ちくま新書、2015年)。

 これが私にガツンときた。

 これまで、自らの自問自答を哲学していると考えて来た私にとって、半ばなるほどと思い半ば腑に落ちない思いがする。なぜだろうと立ち止まった。

 ホッブズとスピノザへの展開が「自然権」概念に関して受け渡すように語り出されていることは国分の追跡で明らかだが、スピノザとほぼ同じ時代に(オランダとイギリスという異なった土地で)活躍したロックは、自然状態を論じるときにホッブズの自然状態に関する言説を(根柢に立ち戻って)批判してではなく、自然状態には自然法があると提起して

《……すべての人類に〈一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由、または財産を傷つけるべきではない〉ということを教える》

 と引き取る。ホッブズは

《自然状態を描き出すに当たり「希望の平等」という非常に興味深い論点を提出してきた。この平等を根拠にして、戦争状態にまで至る論理が巧みに展開されていた》

 と、「自然状態」または「自然権」に対する根拠の差異を指摘し、ロックのそれには所有権の確立が前提されていると、その「根拠」の薄弱さを剔抉する。つまり、ロックのそれは、単なる主張に過ぎない=哲学ではないというわけだ。そしてロックは「イギリス人としてイギリス人に向けて語った」(つまり政治的言説)と見極めている。

 なるほど、そこまで根柢的に(自問自答であっても)やりとりをすることが「哲学する」ことなのかと、わが思考の底の浅さに思いを致す。

 と同時に、腑に落ちない思いも感じる。国分は「哲学者たちに語る哲学」を俎上にあげ(ようとし)ている。だが私はいつだって、「イギリス人がイギリス人に語って」いるように、日本人が日本人に語っている。というか、市井の庶民が市井の庶民に語るように、自問自答しているに過ぎない。そのとき、根源へ根源へと踏み込んでしまうと、まるでタマネギの皮を剝くように、どこまでも「わからないこと」が先に見える。といって(私にとって)スピノザやロックにあたるホッブズは何と問えば、敗戦体験まで戻る。敗戦体験以前の、わが身に伝承されている(親の立ち居振る舞い文化から伝えられた)大正教養主義は、私の無意識に沈んで土台となっている。そこへ降りたとうとするとき、いつも敗戦時の大転換が「齟齬」して、西欧的に身と心の、身体と精神との分裂をそのままに抱え込んでいるように感じられる。二つの違った文化流路が流れ込んで、いつも、何事に関しても引き裂かれた(アンビバレンツな)感懐を内心に生み出していると感じている。それが何かを突き止めようという思いが、私の哲学するである、と。

 こうも言えようか。

 国分が剔抉する「根拠」を探し求めて(わが身の内面へ遡るように)考え続けているのが私の「哲学する」一つの流路。もう一つが、現在の「わたし」が抱懐している「せかい」の奈辺に位置しているのかを位置づけようとして「哲学する」こと。

 その後者にあたる領域のひとつが、謂わば「政治哲学」と思ってきた。私がジョン・ロックに親しみを感じている(と今思って振り返ってみる)のは、戦後育ちの過程で意識世界に刻み込んできた第二次世界大戦への人類史的反省の産物、「日本国憲法」が、謂わば「根拠」のように(我が内心に)座っているからだ。それは、教育という形で外から持ち込まれたものでありながら、わが身の意識世界をかたどってきた原基であり、それを(日常の出来事に触発されて)対象化して批判的に再構成して受容していくことが、青年期以来の私の活動だと思っている。つまり哲学の歩んできた道筋を私は、門前の小僧としてしか知らないけれども、その門前の小僧の現代政治意識の一角にロックが位置を占めていることを好ましく感じているのだ。

 もちろん国分の提起する「哲学する」に敬意を感じている。彼のロックへの批判も理解できる。しかし私は、市井の庶民流の哲学する志を持ち続けていきたい。開き直るわけではなく、庶民の市井の道を歩いて行きたいと思うのである。

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