昨日(12/21)、秩父の山岳救助隊を訪れ、4月に救助してもらった御礼をしてきた。本当は「寄付」をしようと思っていた。だが、「寄付」を受けとる仕組みがないという理由で断られた。仕方なく、和菓子と若干の飲み物とお礼状と山の会に提出した「遭難事故報告書」のコピーとを携えていった。
玄関口の立哨をしていた若い警察官が「山岳救助隊」に取り次いでくれ、出てきた方が私の用件を聞いて、「4月の救助に立ち会った隊員に変わります」といって、別の方を呼んだ。40代か50代の方がやってきて、パーテションで仕切られた廊下の片隅にあるビニールの仕切りがつけられた机に向かい合って座って言葉を交わした。暗かったが、話している途中で電気がついた。どなたかが気づいて点けてくれたようだった。
「どうして下山路でないルートを下ったのか」
「山と溪谷社の『埼玉県の山』記載されていたルートには、中津川へ下るルートのことが記されていた」
「廃道になっていると知らなかったのか」
「通常ルートとして使われていないことは知っていた。だが、本に記載があるので辿ってみようと思った。用心のため、ザイルやエイト環も用意した」
隊員は紙に山頂付近の地図を描き、登山口から山頂稜線部へのルート。その途中から下山路があることを話し、私が救出されたポイントを記す。登山口から稜線部へ上がった辺りから下ったのではないかという。
「いや、中津川への案内標識が一カ所あった。またその少し先にはかつて案内方式がついていたであろう棒杭が立っていたが、そこを下ってもすぐに行き止まりになった」
と、当日の経路を思い出しながら話す。隊員は、
「とすると、この辺りから下っていって、途中から尾根一つ西寄りへ辿ったんだね」
と、図面に書き入れる。そうだ、そんな感じだったと相槌を打つ。一つ氷解したこと。救助隊のパトカーなどが最初にやってきたのは、私たちが下った沢の東側の対岸であった。どこから沢に下ることができなくて、ライトを点けて振り回しながら、スマホでやりとりが続いた。そのうち、北側から救助隊が来る灯りが見え、こちらもライトを振り回して場所の確認をしたのだが、そのときの最初に救助隊が来た辺りが下山路だったのだ、きっと。私は、その話を聞くまで救出された方向が下山路だと思い込んでいた。この見当違いは、ルートがなくなっているとはいえ、大きな間違いになる。
「ルートはね……、いやいや、話すのはやめましょう。行きたくなるから」
と笑いながら、私の気持ちを先回りして続ける。
「私たちもそのルートを訓練で歩くんですよね。でも踏み跡はないし、救助に入った隊員でも迷ってしまうことがあるので、訓練で歩いてはみてるんですよ」
「……」
「いや、よく生きて下山しましたよね。」
「ありがとうございました。救助していただけなかったら力尽きていましたね」
「案内書も古いのがありますし、廃道になっているのも結構多いですから、一番新しい情報をチェックして向かうようにしてください。山の会の方々にも、そのようにお伝えください」
と丁寧なサジェストをもらった。
冬至の前に、4月救助の御礼を済ませることができて、ちょっと肩の荷を降ろした。さあ、来年は改めて、復帰の山歩きを始めてみようか。いやいや「復帰」ではない。肝に銘じて去年4月の昂揚を繰り返すことはしない。だから、山の会の人たちを案内することも、もう終わりとする。でも山を歩きたい。今ひとつ言えるのは、独りぼっちのハイキングって奴だ。時間はたっぷり取る。コロナ前に計画していた九州にも行ってみよう。そうやって平凡なハイカーとして歩いていれば、傘寿相応の山歩きの仕方が思い浮かぶかも知れない。冬至の今日は日の出から日没までの時間が9時間44分。明日からは、着実に明るい日中時間が長くなる。身が軽くなるのも、気分と相関している。
古稀時代とおさらばして傘寿時代へ身を移す。そう考えると、身も心も軽くなる。
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