2021年12月17日金曜日

私は神を信じているのか?

 国分功一郎という哲学者の『中動態の世界』(医学書院、2017年)を面白いと読んだのが2017年8月。図書館で借りて読み、読み終わってから後に本屋に行って買い求めたほど刺激的であった。「能動-受動」という価値的な見方が成立する以前の「中動態」の世界をギリシャ語の解析から導き出して、現代の私たちの価値的な視線への批判を展開している。まだ若い。私の子ども世代が、このように刺激的な考察をしているのは、うれしい。そう思って彼のことをみていた。

 その彼が博士論文で取り上げたのがスピノザと知ったのはごく最近のこと。図書館に『はじめてのスピノザ――自由へのエチカ』(講談社現代新書、2020年)を見つけ手に取った。門前の小僧にとってはうってつけの書名である。スピノザという哲学者のことは、デカルトの二元論を批判して一元論を説いた17世紀の人という「知識」しか持っていなかった。その一元論、「神即自然」が、国分功一郎の解きほぐしによってわが身の中で起ち上がってきた。

 こういうことだ。スピノザは、私たちが身をおく自然のすべて、大宇宙をも包んでいるのが神だとみた。広大無辺。それが「神即自然」の意だときくと、なんとなく私たちの自然観に近い。デカルトのように身体と精神を分けて考える二元論よりも、心身一如という一元論もなじみがある。つまり私自身も自然の一部であり、八百万の神じゃないが、この世のありとあらゆるものに魂が宿るように擬人化して考えるのも、少しも不思議ではない。汎神論というのも、そういうものだと考えるともなくボンヤリと思っていたのである。

 だが、スピノザの汎神論にいう神は、遍く数多の神が宿っているという意味ではなかった。きっちりと唯一神をイメージしている。となるとむしろ、ホッブズの本の表紙絵にあるリヴァイアサンという怪物のように、宇宙を含む大自然を包み込むように実在する「神」って感じかな。汎神論というのが八百万の神という数多の神ではなく、唯一の神。それが、大自然に生起する事々に宿る。それらは、神の現れ、振る舞いであり御徴であるという。私たちが考える「天命」にちかい感触がある。

 そこだけをみると、すべては宿命論的に決定されていることになる。私の「天命」はそれほどに意志を強烈に示していない。こちらが必要とするときに(気儘に)現れて「啓示」をもたらすってとこか。だが自然に生起することごとすべてに「天意」を読み取れば、私の抱く自然観の表徴とスピノザのそれとは現象的には一致する。ただスピノザは、すべてに宿るといっているのかどうかは、わからない。

 ただ私の感覚では、善きことも悪しきこともことごとく天意と受けとっている。「天」も「神」も、人の都合に合わせて振る舞っているわけではない。善きことも悪しきことも(その真意は分からないままに)突きつけてくるのが大自然であり、「神」ってそういうものだと、なとなく受け容れている。私のなかでは、「天」と「神」とが一つになる。人間の都合に耳を傾けるとは考えられない。そこが、スピノザと違うのかどうか。

 混沌の中に天意を読み取るのは、モノゴトの本質を真理として感じ取ることと同様に、そう受け止める感性が必要となる。デカルトはそれを「コギト/我思う」においた。モノゴトを疑っているワレの存在は疑い得ないを起点として、実在の原点とした。ひとまず神(の意志)と切り離して思索してゆくのには、欠かせない根拠であった。

 だが大自然の一員としてわが身を位置づけるとき、「我あり」は証明を必要としない与件である。そこでスピノザは、モノゴトの本質を見て取るセンスの形成が、もろもろの体験を積み重ねることにあると、生々流転の人の変容に求めた。その変容の中に、諸々の状況からやむを得ず行う振る舞いを不自由な、従属的あるいは隷属的なコトと見立てたというのも、私自身の抱いている自然観と私自身の感性や感覚、思索の形成と照らし合わせると説得的である。生育歴中の環境が、感性や感覚、生活習慣や心の習慣の総集としての身をつくる。何が自由意志で何が環境によってしつけられたものかは、わからない。自由な選択といっても、設定された選択肢自体が限られているとき、はたして自由意志の発露と言えるかどうか。

 自身を原因とする振る舞いを自由意志とみて、国分は解説しているのは明快である。国分のスピノザ論は、そこを起点にして「自由とは何か」へ踏み込む。そのとき自然に生起することが「神」の御徴の現れとみると、どこに自由意志があるのかと、展開する。それはなかなか面白いが、ここではさておいて、スピノザの「神」と私の「天」とは、同じものだろうかと疑問符が湧いた。

 全宇宙を覆うような存在としてのスピノザの神は、ありとあらゆる自然の出来事を神の意志の下に置いている。だが私の「天」に意志があるとは思っていない。自然に対する私の畏敬というのは、分からないもの(混沌)に対する畏れと敬意である。「混沌」を気まぐれな自然とみているとも言える。それを現実事象に対する「天啓」と読み取るのは、「天の意志」というよりも、直面している面倒な事態に対する改変の正統性を表示するほどの意味しかない。つまり自分のご都合主義に他ならないから、自然に対する信仰心とは無縁だといわねばならない。

 生じる事象に対する不可知の力の作用とみても、また、その見て取る眼力は経験によって自らの変容を手に入れることによって果たすほかないというスピノザの方法は、現場主義的な私のセンスにうまく見合うものといえるが、はたしてわが身の形成が人類史的な文化の堆積の現在形とみている私の自己形成と一貫性を持って語れるかどうか。面白い課題に向き合っている。

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