2021年12月24日金曜日

自足が危うさを生み出す?

 韓国経済の現在を話している中で、元日経記者の鈴置高史が取材から得た面白い話をしていた。

 1960年代から1990年頃までを総覧してみると、日本がアメリカに追いついたというよりも、先を走っていたアメリカが止まっていて、その背中がどんどん近づいてきた感じであったという。1970年代のオイルショックを迎えたとき、日本の産業家たちはいかにエネルギーを節約するかに知恵を絞って生産性の向上を図ったのに対して、アメリカの産業家は潤沢な国内産石油に依存して生産性の向上に頓着しなかったがために、80年代になって自動車生産などで日本に追い越され、1985年のプラザ合意で円高を押しつけるしかなかったことを指している。

 韓国経済の急成長時代には国内のインフラ整備を含めて、日本に追いつき追い越せと懸命に産業構造の改革を推進してきたが、韓国の産業家の方からみると日本はまるで立ち止まってしまったようで、その背中がどんどん近づいてきたって感じだったと話している。日本の成長時代の産業家の主力は敗戦をくぐり抜けた世代であったが、それと同様に韓国のそれは朝鮮戦争をくぐり抜けた世代だった。

 生育歴中のハングリー体験が、金を儲けようとか経済成長をどうするとかいうことではなく、危機的な状況をどうくぐり抜けるかに懸命になる原動力となっている。だが、一度成長の味をしめ、豊かな時代を経験して育った世代にとっては現状維持の気分が湧き起こって、生産性向上という改革がことに見えてしまうといっているようであった。

 体験的にはとてもよく分かる。と同時に、差異から利益を生み出す資本制市場経済の仕組みが地球規模で作動しているから、一息つく暇がない。そういう国際関係を表している。そうは思うが、しかし、戦争と戦後の貧窮時代を知らない世代のインセンティブは、何だろう。金儲けか、それともゲーム感覚か。あるいは、何かに全力を注いで突き進んでいるという競馬馬のような熱中症か。いつだったか、日本の為政者を「経済脳」と誹ったことがあるが、そのとき私は、この元日経記者がいうようにつねに「改革」を叫んでばかりいて、その実、株価の高下しか目に入っていない為政者が経世済民を忘れていることを指摘したつもりであった。その「経世済民」には、自足することを知らない「経済脳」を揶揄う気分もあった。

 だが、鈴置高史は、自足して止まってしまったアメリカ経済と日本経済の産業家のインセンティブを取り出している。自足は国民国家単位の経済の危うさを招来しているという。経世済民は、自足からは生まれないというわけだ。走り続けなければならないのが資本家社会の市場経済だとはわかるが、では、ブータンのような足るを知る社会は、資本主義の元では誕生しないということなのか。それとも、グローバリズムの意味する経済圏から一足距離を置いた(国民国家よりもさらに小規模の)地域経済を(ある程度)自律的な核として築いた上で、国際関係をみていけということなのか。後者は国民国家の単位として、コロナウィルス禍の下で事実上成立してはいるが、グローバリズムが広がったせいで、小さな経済単位として自律的ではない。製造業さえも部品が調達できなくて止まってしまっているという欠陥を露わにしている。

 引退した戦中生まれ戦後育ち世代の年寄りが経済脳を批判するのは、止まってしまった暮らしから世界をみているから。そこに止まるわけにはいなない若い世代の頭がゲーム感覚を離れて、なお、インセンティブを絶やさない産業家のエネルギー源は、どこに見いだせばいいのだろうか。そんな疑問符をわが身に残した。

0 件のコメント:

コメントを投稿