2021年12月12日日曜日

十二日町と我がノスタルジー

 今日12/12は、浦和・調宮(つきのみや)神社の「十二日町」。12/3の秩父夜祭りを起点に、荒川の流れに沿うようにお祭りが流れ下ってくる。12/8熊谷の「お酉さま」、12/10、大宮氷川神社の「十日町」と下りながら、夜店のテキ屋が、1年の無事を言祝ぎ、年を越し、新年を迎える庶民の準備のお手伝いを、諄々としてゆく年中行事である。

 浦和の十二日町は、調宮神社の御祭礼。昔は、子どもたちが地車(だんじり)を曳いて地区を経巡ったものだが、今どうしているかわからない。子どもが小さい頃は付き添って神社へ詣で、旧中山道沿いに並ぶ夜店を冷やかして歩いたこともあった。ときどき、夜学の生徒が夜店の店番をしていて、「よっセンセイ、これ持っていきねえ」と綿菓子を突き出してきたりして、面食らったこともあった。おおよそ信仰心のない私が、神社の由来などに関心を振り向けるようになったのも、そうした「お祭り」のおかげかも知れない。

「お祭り」が遠くなったせいか、調宮神社辺りの賑わいが、静かで仄昏い佇まいであったように感じられて、これって、私のノスタルジーじゃないかと思ったりする。なんだ? なぜ、こんなイメージが湧いてくるんだ? 

 大宮の十日町は一宮氷川大社の御祭礼であるから、賑わいは一入だ。もともと大宮が都市的な賑わいの中心であったのに対して、浦和は静かな奥座敷の風情を残していた。「文教都市・浦和」というキャッチフレーズが、旧制浦和高校から埼玉大学の威光を担いだものかどうかは知らないが、文人墨客が住まいを構え、鰻を食して来訪者を歓迎し、武蔵野の風情を文字にしていたことなどがお店のパンフレットに記されているから、「急行の止まらない県庁所在地」として有名であっても、地元ではまた違った落ち着きを求める誇りにしていたのかも知れない。

 平成の浦和、与野、大宮の三市合併話が持ち上がったとき、浦和と大宮が市庁舎の所在地を争った。私は、町が賑やかになる方向よりも静かな佇まいを保つ方を好ましく思っていたから、浦和におかれている方が「タウンシップ」が好ましいかなと思っていた。だが実情は、「さいたま新都心」を中心に「さいたま市」づくり構想が着々と進み、いずれそちらの方へ移転することも、決まってしまったように仄聞している。「さいたま新都心」は、浦和と大宮の半ばを取った結果というよりも、「さいたま市」の政治家や地方行政担当者のセンスが、首都機能の分散の一つとして設けられた「さいたま新都心」を中央行政大明神の象徴のように奉るところから来ていると、私は読んでいる。そもそも浦和から移転する必要があるほど、現さいたま市庁舎が古びているわけでもないし、規模が小さいわけでもない。ただただ、旧浦和と旧大宮の地方政治家と地方行政の担当者が、古い縄張り意識を底辺において綱引きをしたが共に譲らず、双方共にもつ「さいたま新都心」という中央崇拝の共通感覚に従って、落ち着きどころを得たという方が良かろうか。

 つまんねえ奴らだなあ。映画「翔んで埼玉」の制作モチーフを少しでも噛んで含んで持ってみやがれって、東京の植民地精神に唯々諾々としたがっている性根に毒づいてやりたいくらいだね。

 ともあれ、浦和の東の方へ住まいを変えてからは、十二日町にはすっかりご無沙汰している。ことに歳をとってからは、夜に出歩くことがない。遠出をしてやむを得ず帰宅が夜遅くなるとき以外は、家からさえ出ない。

 夜というと、すぐに昏い道のりを、月明かりを頼りにとぼとぼと歩いた13歳頃の風景が目に浮かぶ。これは間違いなく、我がノスタルジー。踏み外すと脇の田んぼに転がり落ちるかも知れない未舗装国道の夜道を、しかし何かから解き放たれたような気分を身に感じながら歩いた独りぼっちの感覚。そう言えばあれが、私の原点だったのかなと少年の頃の我が胸中を思い起こしている。

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