2021年12月6日月曜日

時間は存在しない(3)わたしたちと時間

 時間を探求していった結果「時間は記憶であり、過去の痕跡」とみてとったとき、その主体である人間とは何か、わたしとは何かが俎上に載る。カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)はこうして、ヒトの認識がどう行われているかに踏み込む。この、量子物理学者が「人間」とか「わたし」とか「自己認識」の領野に踏み込むところが、この著者のもっとも面白いところであり、単なる外部世界の法則を描き出そうとする物理学者というのではなく、その学問を探求している自己自身の存在を不可欠の一部として世界を描きとろうとしている点で、私の関心と絡まる。つまり自画像を描くことが即ち世界像を描き出すことにつながり、私の描く自画像や世界像と異なり、遙かに広く深いスケールで屹立していることがわかる。

 どう描き始めているか。(物理学的な考察そして)「時間が存在しない」のに、なぜ私たちは時間を世界共通のこととして暮らしているのか。その認識のメカニズムへ踏み込んだいる。

 カルロ・ロヴェッリは、「わたしたちのアイデンティティの構成要素」を三つ取り出す。(1)《わたしたち一人一人がこの世界の「一つの視点」と同一視される》と指摘する。一人一人がこの世界を反映し、「受けとった情報を厳格に統合された形で合成する複雑な過程だ」と見て取る。

(2)つまり「わたしたち自身が世界を組織して実在にしている」という。土地の名も人とのふれあいもさまざまな出来事も、一様で安定した連続的過程として世界を思い浮かべている。感覚器官への入力を伴う「概念」のような「もの」を、「ニューロンの動的システムの不動点」と見極める。

《自分と似た人々と相互作用することによって「人間」という概念を形づくってきた》。そこから「己という概念も生まれる」。《わたし自身にとっての最初の経験は……自分の周囲の世界を見ることであって、自分自身を見ることではない》とみる。

 これは、私が常々口にしていることの、初発の部分を省略している。カルロ・ロヴェッリが「最初の経験」をする以前に、我知らず、身に刻んできているヒトの文化がある。「己という概念も生まれる」後の周囲の世界を見ることは、じつは自己省察とぴっちりと背中合わせになって、「己」の再生産を行っている。

(3)それがアイデンティティとして自覚できるのは、「記憶」にある。その積み重ねが「わたし」。《わたしは現在進行形の長い小説であり、その物語が「わたしの人生」なのである》と、わが身の実在を確信している。記憶によって過去を参照し、未来を予見する精神作用をヒトは常に繰り返している。それがわたしたちにとっての精神構造の核となり、《わたしたちにとっての「時間」の流れなのだ》。

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 この部分の記述は,私自身の「わたし」や「人間」や「文化」や「認識」について書き記してきたことと、ほぼ重なる。カルロ・ロヴェッリは「時間は存在しない」ことの論理的記述の中でこれを記しているが、私は文化の継承性を記しながら、同じ感覚と概念に到達したアウグスティヌスやフッサールやマルセル・プルーストの引用や紹介をしながら書き進めるカルロ・ロヴェッリの奥行きの深さと浩瀚さには感嘆するほかない。

《つまり時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティの源なのだ》と述べた後に、仏陀の生老病死の四苦八苦、「苦悩」にも言及する。仏陀を最後においたのが、カルロ・ロヴェッリの到達点を示しているのではないかと私は受け止めた。つまり「時間」は幻想であり、そこから解き放たれる「悟り」に至った、と。引用文中の「ヒト」がカタカナであることも、認識している世界が私と重なっている感じがしてうれしい(と、介在している訳者に伝えたい)。

《時はわたしたちを存在させ、わたしたちに存在という貴い贈り物を与え、永遠というはかない幻想をつくることを許す。だからこそ、わたしたちすべての苦悩が生まれる》。

 時間は、私たちの身の裡に存在する。過去の痕跡は、精神構造の核となるとともに、受け継がれた文化として身に刻まれている。時間を構成することによって私たちは,共同性のベースを手に入れ、人それぞれが抱懐している(記憶・文化の総体である)「時間」を交差させながら、社会をつくりだしているのである。

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