これまで日本社会をつくるのに経済脳ばかりになっていると批判してきました。もう少し子細にみると、経済脳であっても1980年代までの(つまり産業高度化過程の)日本の「資産」は、追いつき追い越せというモデル追随精神に溢れていたにせよ、世界の先端に追いつく気風に溢れていました。世界を牽引するほどの力が無いというのは、極東の島国という地政学的・歴史的な立ち位置から来る精神的核ではありましたが、高度経済成長が生み出す資金にも恵まれて、それなりに理化学研究や科学技術や人文社会科学にも潤沢な資金が回っていたわけです。むろんそれでも、その状況に満足できない優秀な頭脳は海外へ流出していきましたが、それはそれでまた、日本の学問研究に環流する回路をもっていました。またそれらが、(ある種の国民的一体性を保っているという社会的気風と雇用形態の作風とによって)一億総中流という中間階層の大量な創出という事態を生み出し、功罪取り混ぜてはいても、あるナショナル・アイデンティティを高めてはいたのでした。
つまりこうも言えましょうか。
経済的な成長・発展を考えるとき、市場をめぐる金銭というよりも、それを推進する人々のインセンティヴにもなる活力は、その社会を構成する人々の文化的な力に負うところ大なるものがあります。学問研究の水準という意味だけではなく、市井の庶民の立ち居振る舞いが持っている佇まいの文化性が産業過程に大きく影響しているのです。
言語学者の大野晋だったと思うが、1980年代か1990年代にアメリカの自動車産業を訪れたときの印象記を書いていました。組立工程の工員が、吸っていたたばこをぽんと組立中の車に投げ込んでいるのをみて、ああこれでは、アメリカの自動車はダメだなって言っていたのを思い出します。丁寧とか、清潔とか、時間厳守とか、手を抜かない誠実さというのは、単に金銭的に始末できることとは別次元の「ものづくり」に関わる大切な要素だというのです。
ところがバブル崩壊後の日本の為政者も、産業家たちも、グローバリズムの波に押されたとは言え、経済脳が金銭換算脳にだけ成り果てたようでした。しかもコストパフォーマンスとカタカナにして短期的な効果だけに目を留めた。大学改革にしても中等教育改革にしても、長い目でゆったりと育てる土壌をつくることに関心を失い、実利効果だけを評価する方向へ社会の気風を向かわせてしまったのでした。高校で言えば進学実績ばかりに目が向いて、生徒を育てる学校の気風は片隅に追いやられた。生徒たちは受験学力だけを求めるように仕向けられていったと言えましょう。
為政者や産業家たち、日本社会の主導的な人たちの考えるトップダウンは、下司が黙って上司の言うことを聞く有り様をイメージしていたのでしょうか。現場仕事をしてきた私などからすると、現場に身を置く人たちが自ら熱意を持って取り組む仕事こそが、その場にいる人たちの力の差を補い合ってチームワークを生み出していく。そこには、その人々が育ってきた過程で関わった文化の総合力が現出するのです。産業家や為政者のリーダーたちは、そういうダイナミズムにたぶん気づくことなく現場仕事というものをみてきたのではないか。そう強く感じさせました。
口先だけの百年の計ではなく、豊潤な大衆社会を過ごした時代経験を教訓にして、文化的な力が培われるような視線こそが、経済脳にも、バックアップする為政者の政策脳にも保たれていなくては、小心翼々の小吏と、面従腹背の庶民を輩出するだけの世の中になってしまう。いや、今の社会はそうなっています。そういう社会においては、内政的には得意満面のいいことづくめのイメージしか描けないだろうし、ひいては外交的にも、肝の据わった人間世界を見渡す施策を繰り出すことができないと思えるのです。
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