「すべての出来事を生じさせているシヴァ神の踊り」と、「時間は存在しない」は、どう関係するのか。すべての事々は、いま存在しているとも言える。問題は、だれが何処に身を置いて、時間を認識しているかだ。
そう考えてみると、ビッグバンが138.2億年前に起こったということも、それを明かす徴が観測できるようになってからではあるが、今地球に届いている。時間が存在するというよりは、過去の痕跡が残っていることによって、私たちに知れる所となる。
過去から現在、そして未来へと時間が流れているというのは、私たちが(過去の痕跡を)認識することができたことを、外に指標を設けて一つの流れとして物語り化したものと考えることができる。時間が存在するというのではなく、時間を外部化することによって、痕跡の認知すなわち記憶を外部化して、共同体化したのだ。時計はその象徴とも言える。
これは、個人の認識にも当てはまる。亡くなった人を思い起こすというのは、亡くなった人との「痕跡の記憶」を(関わりのあった誰かが)呼び起こしていることだ。エントロピーが枯渇したとき(熱平衡状態になり)人も物も解体過程に入って姿を変える。ただ、その存在の痕跡が、月に衝突した隕石の痕跡があばたになって見えるように、残る。月を見る人にはその痕跡が認知され、想起される。そうでない人には気にもとめられない。
ヒトは言葉を通じて「記憶」を表象的にとどめることもするようになり、その分だけ、「痕跡の記憶」の共有される範囲は広がった。その一部が「科学」という客観的な認識として特化され、あたかも誰が見ても同じように見えると、特異な立場を与えられるようになったが、じつは、ありとあらゆる出来事が(その認知する立場を得ることとなれば)「痕跡の記憶」を共有することができると言える。ただ、無数にある「そうした出来事」と「それを認知する人の立場」は、そう簡単に共有できるものではない。むしろ、子細を放棄して「ぼんやりとみる」ことが叶えば、無数の「出来事」や「想起する人」の共通性を認めることができて、「痕跡の記憶」の感懐を共有することができる。
実は,今私の話しは逆立ちしている。ヒトの「記憶(する言葉)」にまつわる生成的な順番からいえば、そのベースになる感性も感覚も、それを認識するときの言葉も、その表現の技術も、生育歴中に関わる人々の文化を携えた関わりによって身に備えてきたものである。つまり、もともと共感性を土台として、ある程度「出来事」の起こる事態を共有する感性や感覚を身に刻んでヒトとして立ち現れている。
例えば動物の記憶力は真に精妙で厳密だと、生物学的実験は告げている。厳密で精妙であるからこそ、少し場が変わり、様子が異なるとそれ以前の記憶が適用できなくなる。だがヒトは、厳密で精妙でない分だけ、表象的に広く、さまざまなことへコトの示すものを敷衍する「記憶」を持つようになった。それは厳密で精妙な記憶をぼんやりと捉え、ときには飛躍させて別様に解釈することによって、「(記憶の)共同性の範囲」を広め,深めてきた。
カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)は、こう記している。
《二つの出来事の間にありそうにない関連が見られたなら、何かありそうにないことが起きているはずで、そのようなことを起こせるのは、過去にエントロピーが低かったという状況しかないからだ。ほかに何があり得ようか。言い換えると、過去に共通の原因が存在するのは,過去にエントロピーが低かったことの表れでしかない。熱平衡の状態にある系や純粋に力学的な系では、因果によって識別される時間の方向は存在しないのだ》
《……記憶や因果、流れや「定まった過去と不確かな未来」といったものは、ある統計的な事実、すなわち宇宙の過去の状態としてありそうにないものがあるという事実がもたらす結果にわたしたちが与えた名前でしかない》
こう述べて、宇宙の生成過程も、人間の歴史も,これらすべてが「特殊」であったとみてとり、「したがって因果や記憶や痕跡やこの世界自体の出来事の歴史もまた、視点がもたらす結果でしかないのかもしれない。……こうして非情にも、時間の研究はわたしたちを自分自身に引き戻す。わたしたちはついに、己と向き合うことになるのだ」と述べる。こうしてカルロ・ロヴェリは人間とは何か、「わたし」とはいったいなにかと哲学的領域に踏み込んでいくのである。(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿