オミクロンという変異株に用心しようという。コロナウィルス禍も変移している。なぜ感染が減少しているのかわからないと同様、なぜ変移するのかもわからない。変移しても、感染力が強くなるとも限らないが、オミクロンは強い感染可能性があるという。遭遇してみないと専門家もわからない。大自然相手だと、改めて思う。と同時に、この世界は自然が主体なんだねと、これも改めて思う。
欧米の一神教の信仰では、この自然の頂点を神と仰いだ。神の被造物である天地のすべてが、やはり神の被造物であるヒトに託されたと物語を作った。そうして、ヒトを主体とする哲学が誕生したというわけであろうが、この文脈の間にヒトによる手前勝手な物語の作り替えが為されている。「託された」という偽装である。
しかし、この偽装のおかげで、ヒトが自然を守る責任が発生した。自然の上に神をおくことによって、主体=神の意思が偽装主体=ヒトへと乗り移り、ヒトは神の御意志、つまり支配に従うことをルールと呼び、支配されることがヒトが主体を確立することの第一歩とされて、be subject to ~という、受け身形の用法となった。
他方、アジアの多神教は概ね、自然を主体と考えてきたが、そこに頂点があるとは考えなかった。自然とは混沌であるとみた。つまり、「わからない」。その結果、自然を守る責任がヒトにあるとは思いもしなかった。ひたすら自然に翻弄されてもそれをそのまま受け止め、遵い、解釈し、適応することを身につける。つまり、適応するというかたちでヒトは環境への責任を問われず、しかし自然の摂理に遵うという生き方を身に付けていった。
この両者の自然観の違い(神の意志か混沌か)が、欧米とアジアのボタンの掛け違いになってくる。西欧の人間中心主義、すなわちヒューマニズムが自然への畏れを忘れ、手荒な改変につながった。アジアの自然観はなるがままに環境を放置してきた。それが逆に、自然環境をどう保護していくかに関する責任の違いに現れて、進んだ欧米/遅れたアジアという恰好になっている。ことに、近代が先行する西欧が環境破壊に気づいて、それを修正していくのは当然と言えば当然である。後を追うアジアから見ると、やっと近代というのが「混沌」のすべてに秩序をもたらすという驕慢な所業だと気づかされた。
なぜ驕慢というのか。自然を「混沌」とみるのは、「わからない」と自らの立ち位置を自覚している言葉である。それを欧米の「近代」は、「わからない」ことは明らかにしていけばいいと考えている。つまり自然に「秩序を与える」ことができると、前提にしている。日本語で言えば、「謙譲の心持ち」がない傲岸不遜である。
でも、欧米の「秩序を与える」ことが、人がクセとする好奇心を満たす(「わからない」ことに向き合う)ことと同じベクトルを持っているから、否定しようもないとアジアでは受けとっているのか、つねに欧米の後追いをしてきたわけだ。だが、「秩序」を与えれば与えるほど、「わからない」「混沌」が広がり深まることが、アジア的な自然観からすると明らかに見える。エントロピーの増大だ。
ところがここへきて、世界秩序をつくることについてアジアもそれなりの「発言力」をもってきた。神を戴いたかのような中国の振る舞いが欧米主導の世界秩序を脅かしている。統治について欧米と近似的なセンスを持っている中国が、欧米に対抗して秩序形成の双璧として姿を現した。そう考えてみると、アメリカと中国との確執がどう移り変わるか世界の緊張がそこに集約されるのだったが、そこに割って入ったのが、コロナウィルスであった。私は天啓だと思っている。「秩序を与えるなどとアホなことはよしなされ」といわんばかりに、ここ2年、コロナウィルスが世界秩序を席巻してきた。鎖国(という名の管理貿易)だって、なんだこんな簡単にできるんだと思われるほど。それもワクチン開発で一段落つくかに見えたが、そうはどっこいいくものかと、ウィルスが盛り返している。
オミクロン株という変種を繰り出して、延長戦に持ち込まれた。ここへきて、ひとつ思い出したことがある。ボルツマンという物理学者が提唱したのであったか、エントロピーの増大は、どこまで天啓を発信し続けるか。
ヒトが懲りるまで? どうしよう。
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