2021年12月7日火曜日

第14回seminarご報告(4)無知の知

 LGBTQ+を性的嗜好のモンダイといったとき、それが差別につながる「概念」には、もう一つ間に介在する思考の傾きがある。固有名が捨象され、一般化されて「特異」な存在と規定されているのだ。

 私はオードリー・タンのことを例に挙げた。そのとき私は、オードリー・タンという固有名を持つ人のことを思い浮かべていた。天才的なITプログラマーであり、社会活動家であり、台湾の中学校で差別的な扱いを受け(たまたま父親の仕事の関係で)ドイツの中等教育を受けながら、引く手あまたの高名な大学の誘いを断って(中卒のまま)台湾へ戻り、今は若手の閣僚として台湾の社会の変革に立ち会っている、というイメージ。つまり私にとってオードリー・タンは、LGBTQ+をカミングアウトした「G」という性的嗜好だけでなく、彼のこれまでの人生を(ある程度)総合して人柄がイメージされている。ここが重要だし、それを言い落としていたと、後で気づいた。

 人物に対する印象は、それをイメージする人の感性や感覚や価値観や思考の傾きが反映される。それは、対象とする人物の印象を通して、自らを語っているからだ。差別につながるLGBTQ+の「概念」というとき、たいていは、対象となる人の性的嗜好にだけ焦点が合わされ、その人固有の人物像であるかのように規定されて語り出される。その焦点かを施している語り手こそが、語り出されているのだが、往々にして私たちは、語り出されている人のイメージしか思い浮かべない。オードリー・タンは「天才的」という才能が(人物像として)先行していたが故に、カミングアウトしても,その性的嗜好のみが囃されることはなかった。彼の性的嗜好だけに焦点化するには、あまりにも人物が大きすぎたとも言える。

 ミドリさんは「優劣の序列のない(関係)」が望ましいという趣旨の発言をした。それはその通りだが、世の中の人と人との関係は(どんな人との間であっても)、そうした序列を排除しては成り立たない。相手に向かいあるときのリスペクトも(向き合っている人の文化的な価値に基づく)、身に刻まれた優劣の序列が働いている。背の高さとか年の功というのもそれであり、それらは優位的にも差別的にも作用している。固有名とそれに付随するなにがしかの優位的人物像が先行しているときは、LGBTQ+は差別の対象とならない。美輪明宏もおすぎとピーコの場合も、歌とか辛口の社会批評や映画評やファッション評とかがマス・メディアを通して確立され、LGBTQ+は付随する固有性とみなされている。

 逆に言うと、劣位に立つ人は、優位に立つ人の優位性を無視して、劣位の固有性を取り出して囃し立てようとする。そこに自らの自律の根拠があるかのように。

 そういった優位的と認められる固有性がないか(まだ)認められていない場合に、LGBTQ+のような社会的少数者の特異性は、劣位な少数者の表象とみなされ、多数者の(自己確立の)餌食となる。それを差別することによって多数者に属することを自己確認しているという意味で、その差別は繰り返し、折を見て再生される。ということは、差別する方が,自己を確立する根拠を持たないときに周囲の多数派に帰属することで自らの「正当性」としようとする心理的作用が働いているとも言えよう。

 つまり、その特異性を劣位と見なす(差別する側の)人の傾きが表出するが、そのとき差別する側の人は、差別される側の人の固有名に「社会的少数者である=劣位の表象」をかぶせているのであって、固有名の人の全体像を見ているわけではない。これは、性的マイノリティに関してだけではない。障害を抱えたり、不運な境遇に見舞われて,病や貧窮や抑圧にさいなまれている社会的少数者にたいする「劣位概念」に基づく差別的振る舞いなのだ。

 では、どうして,ただ単に社会的少数者であることが劣位の表象に転化するのか。好悪の感情に社会的関係性をかぶせて価値的に物事を見る視線が、作用している。清浄/汚穢、正統/異端、貧窮/豊潤という判断が、ときには宗教的な教義に扶けられて(例えば「貧しき者は幸いなれ」というふうに)優位/劣位が逆転することも交えながら、私たちの身の裡に刻まれている。刻まれるというのは、精神構造の核となっていつの間にか無意識の判断が下されるほどに身に馴染んでしまっていることを指している。

 社会的少数者という観念自体が、すでに差別的であることに結びついている。多数-少数という判断軸を取り払うことができない。それが現実である。それを講師のミドリさんは「世間って、日本だけにあるのよね」と表現した。私が思い浮かべたのは阿部謹也『世間とは何か』(講談社、1995年)。阿部謹也は、他者性を組み込んだ西欧の市民社会に対して、同調性を前提にした日本のコミュニティ性を「世間」と呼んで、特異なこととして取り上げた。阿部謹也の文脈は「世間」を遅れたコミュニティ性とみなすものであったが、それだけでは、わが身の裡に刻まれた「精神構造の核」は剥ぎ取れない。「世間」がわが身を立てるのに一役買っているからだ。というか、わが身そのものが「世間」でもある。無意識に沈んでいる「精神構造の核」を,一つひとつ丁寧に洗い出して俎上にあげる吟味の過程を通してこそ、自己と他者の関係を「優ー劣」の価値秩序から解放して紡ぐことができる。

 その第一歩は、固有名を以て固有の出来事を考えている視線を外さないことだ。つまり、世に出現する出来事を固有の事象として見つめるしかない。だがそうしようとしたとき、私たちにはマス・メディアで知らされる事々について、その個別事象の子細を明らかにする手立てはない。にもかかわらず、世に出来する事象を受け止め「我がこと」として腑に落とすことが、せめてもの固有名として扱う最良の方法だ。その起点にあるのは、「わからないことが多すぎる」という自己認識。無知の知である。(つづく)

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