生物学的な「性/sex」と「性差/gender」が自然発生的に連関しているからこそ、男も女も自ら、性差を受け容れて成長し、あるときその差別性に気づいて,声を上げるようになるのだと思う。ただ、戦中生まれ戦後育ちの、「新憲法教育」を受けた世代は「男女平等」という理念を身に刻んでいる。と同時に、親世代や世間のもっている男女差別の文化にもたっぷり浸って成長してきたから、理念と身とが分裂するようなこともあったかもしれない。その都度気づいて、修正を施しているのが実態である。
新憲法世代の男女平等の観念には(我が胸に手を当てて考えて見ると)、父権主義的な要素がずいぶんとあったと、大人になって思い当たることが多かった。男兄弟ばかりの間で育ったせいであろうか、それとも親世代の振る舞いがすり込まれたものであったろうか。女は弱いもの、男が保護的に向き合わねばならないと,まず思う自分があった。
憲法の定めに基づいて制定されていた労働基準法にしても、例えば女性の深夜労働の禁止とか生理休暇というのは、そういう父権主義の発露としての保護的な規定だと考えていた。だから1980年代の後半であったか、国連の女子差別撤廃条約批准地のもなって労働労基準法の改正がなされて女性の深夜労働が取り払われたとき、えっ、それも? と思ったものだった。
生物学的に、男に較べて女は体格が小さいとか筋力が劣るということだけでも、男が保護的に振る舞うのは当然と考えた。加えて母親となった女性が家庭で子育てをもっぱら担当しながら、健闘しているのをみると、仕事の面でいくぶんかでも軽減できる配置をすることもあって、それを女性差別とは考えもしなかったのであった。それ故にseminarでもそう発言したが、仕事の面でも女性が控えめに立ち振る舞うのは致し方ないとさえ思っていた。件のオリンピック組織委員会の森会長発言をジョークと受けとったのも、女性蔑視とみれば,なるほどそうかもしれないが、目くじら立てるほどのコトとも思わなかったのであった。でもそれらを総覧してみると、女性の間にもジェンダー・ギャップがあって然るべきですから、関係における位置づけを(男-女間の問題以外で)性差におくことがジェンダー・ギャップといえるのだと思った。
海外メディアが騒ぎ出し、日本社会の(女性蔑視に関する)反応の鈍さを槍玉に挙げたとき、欧米との落差の大きさに気づきはしたが、それでもまだ「文化の差異」を欧米基準で判断しすぎるという気持ちをもっていた。たとえば欧米基準で語られるポリティカル・コレクトネスも、杓子定規な法的規制であって、言葉ってものが発せられる場とか文脈というものを勘案する領域が含まれていないじゃないかと,今でも思うところがある。法的に物事を処理してしまうセンスの欧米と、関係文脈的に考えて始末しようとする日本との差異は、文化的なものだとっ私が考えてきたことが浮き彫りになっている。
ジェンダーを考えるときにも、だから、文化人類学的な考察から「男女の別」がどう認知され、社会的に扱われてきたかから説き起こさねばならないのじゃないかと,思う。となると、原始集団において、どうして将来女は別の氏族への贈り物として扱われたのか、浄不浄という観念と子を産むという女性の生理とがなぜ連接されることになったのか。神々と交信して、言葉を交わすことができるという不可思議が女に託されながら、なぜ不浄とされるに至ったのか。などなど、わからないことが多く、それらを一つひとつ解きほぐしていかなければ、性差を差別と一口に言うことはできないのではないかと、ぼんやりと考えている。
ミドリさんの指摘する性的マイノリティについては、最初に浮かんだのは、生物学的な発生に関する記述だった。「(4)LGBTQ+」への共感性は私にとっては、理知的なベースに乗っているということ。生物学的にヒトは単細胞から受精して誕生するまでの間だれもが、初めは女性として育ち、妊娠の半ばで男性の外性器が発生して分岐する。それに変異が生まれるのが、LGBTQ+だと理解している。
福岡伸一がどこかで「√nの法則」と呼んでいたが、細胞の動きは一様ではなく、一部は逆向きに動いたり,変移するという。すると、100個の細胞なら10個が、1万個の細胞なら100個が、1億個の細胞なら1万個が全体の動きに逆行する方向へ変異する。だから生物は、大きい方がDNAの継承性においても優位であるから、体が大きくなったのだといっていた。LGBTQ+は、そうした変異の現れであると考えると、不思議ではない。
ただ、LGBTQ+(ばかりではないが)に対する差別的な言辞や振る舞いがなぜ起こるのか。ミドリさんは「カレシいるの?」と聞くことはLGBTQ+に当たるから、「お相手は?」と聞くべきってコトになると、世間の様子を報告した。その世間の見立ては,正解だろうか。私は納得できない。
世間の常識では、LGBTQ+はマイノリティである。話している相手がLGBTQ+の一人だと知らない者からすると、世間の多数の一人と(今向き合っている相手を)見ていても、不思議ではない。若い女性に対して「カレシいるの?」と訊いてそれがLGBTQ+の差別だというのは、当人の被害妄想じゃないか。自分のことを知られたくないというのなら、世間の多数と見なされてしまうことは、結構なことではないのか。もしそれを不快に感じるのなら、オードリー・タンのように自分がLGBTQ+の一人であることを公表し振る舞うことだ。
にもかかわらず、それを差別的に扱う人たちが数多いる。それがジェンダー・ギャップのモンダイなのだ。とすると、じつはそれは、ジェンダー・ギャップばかりでなく、差異を取り上げ、それを少数者として差別的に扱うことがなぜ生じるのかを考えていかねばならない。それこそ「関係のモンダイ」であって、差別的に振る舞う人の社会的立ち位置こそが取り上げられなければならないと思う。LGBTQ+を不快と受けとって差別する人というのは、自らの性的嗜好が満たされていないからだ。ひょっとすると、性的嗜好に関係なく、自らの境遇が望むように満たされず、鬱屈を抱え込んでいるのかもしれない。そういう自らの内心を(なぜかわからぬまま)解放するのに、他者を差別するというのは、ありうる振る舞いなのだ。そうやって人は、他者との関係を参照して、自己を形づくり、保ってきた。この世の差別は、基本的に差別する人の社会的処遇をモンダイとして俎上にあげるべきであるのに、法制的に始末しようとすると、限界を示しそれを超えると処罰すると規定することしかできない。だからこそ差別のモンダイは、社会的に扱われるべき事柄だと言えるのではなかろうか。(つづく)
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