カルロ・ロヴェッリの「時間」の見立ては、みている「わたし」を抜きにしては語れない。ということは、「わたしの(記憶に刻まれた)物語」が「時間の痕跡」であり、すなわち「わたし」の数だけ人類史が刻んだ「時間(という過去)の痕跡」があることになる。
しかも私の実感として、「わたしの記憶」というのが恒常的に(わが身の裡に)あるわけではない。あるときに思い浮かび、あるときには深く無意識層に沈潜して忘れている。あるいは、他の人の痕跡と出逢うと思い起こし、修正され,移ろう。本を読む、映画を見る、話を聞く、人の振る舞いを目にするだけでもかまわない。それらに触発されて思い浮かぶ事々が、即ちすべて「時間の痕跡」である。表象的に受け止めることも、「わたし」という個別性に集約された「関係誌」であり「関係史」であり、即ち人類史である。いや、それらの断片である。「わたし」の自画像が「せかい」であるように、「わたしの痕跡」が人類史の(断片の)すべてを表している。人の数だけ人類史があるとも言える。
人類史というのがなにがしかの普遍性を持つように学校を通じて教わってきたが、そうではないと修正される。普遍性は、記憶に刻まれたたくさんの相似の痕跡が、近似の、近似の近似として(したがって誰にも,何処にでも当てはまることとして)ボンヤリと受け止められたことを指している。
こうも言えようか。「人類史の痕跡」というときすでにそこには、(その感覚や観念を)共有しているという普遍性とか一般性への共通感覚が働いている。私が用いる言葉そのものがそうであるように、「わたし」一個の固有のものは、それ自体として存在していない。そういう意味では、「わたし」が抱く観念や感覚や価値意識も、立ち居振る舞いも、すべてが「わたし」の体験でありながら、「わたし」に仮託された人類史的な文化の(欠片がわが身を)通過した痕跡だということができる。普遍性というのは、近似の近似の近似を指して呼ぶ言葉だと思う。
「神は微細に宿る」というのは、まさしく「近似」ではなく、デキゴトの個別性そのものに宿ることを指している。「神」という言葉に込められた普遍性を当てはめて,デキゴトの「近似」をそれと錯覚するのを正そうとする言葉に聞こえる。
物事に名をつけることもそうだ。名をつけることによってモノゴトが個別性そのものとして起ち上がる。近似に抽象されてゆく過程で捨象されてしまうことの痕跡を、きっちりと残していこうとする行為の第一歩となる。
そして今、高齢となった私は、「痕跡の記憶」を茫洋とした混沌へ溶け込ませていっているような気配を感じている。身の内の想念のいろんなことが溶け込んでボンヤリと一つの「混沌」と感じられていく。それは「何が何だかわからない混沌」というよりも、「わからないわけがなとなく感じ取れる混沌」として、腑に落ちる感触を得ているように思う。これは、身と思念とが折り合いをつけて齟齬を来さなくなっている感触なのかも知れない。
カルト・ロヴェッリは「時間は存在しない」認識へ至る起点に、世界の活動をエントロピーの増大と捉える視線をおいた。人類史的な行為は、混沌の海からさまざまなモノゴトを引きずり出して名をつけ、分節化し、それらの断片を体系化し、物語を添えて一貫性を与えようとしてきたが、そのことそのものが、じつは、世界に秩序を与える試みであった。それがじつは、エントロピーの増大であったとみると、秩序づけてモノゴトを捉えようとするヒトのクセそのものが、それを招来していることである。
案外、「秩序づける-混沌に踏み込む」という相反するモメントが息づいている実感こそが「生きている」ことじゃないかと思っているが、どんなものだろう。
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