《わが身そのものが「世間」でもある》ことに触れておきたい。
養老孟司だったか、「世間」について言っていたことを思い出した。「世間」というのは中国語で「人」を意味する言葉だという。では、日本の「世間」にあたるものを中国語ではどういうのか問うと、「人間(じんかん)」というらしい。日本語では、これは「にんげん」だ。これはヒトが群れをなして生き延びてきたことを思い合わせると、いずれであっても納得ができる。この、中国と日本の逆転的違いが何を意味するのか、面白いテーマになるが、それはさて措く。
日本でいう「世間」は、「その人の共通感覚を持って関わる世界」を意味する。江戸期には、身分もあり関係する世界も限られている。しかも共通感覚を持って関わる世界というのは、人それぞれに異なるから、「世間」の外は「旅の恥はかきすて」のように、知ったこっちゃなかった。逆に言うと、「世間」の外は鬼ばかりでもあった。
「世間」が「その人」によって異なることになるのは、明治以降。
ヨーロッパから入ってきた「社会」は、「世間」とは異なり、近代市民社会であった。市民社会というのは、考え方も共通感覚もそれぞれに異なる「他者」と、市民としての「権利」を認め合って、日常的に共存する空間を意味した。江戸期の世間に暮らしてきた人からすると、身分を越えて、知らない人たちと付き合う時代が来たということであった。いつも用心して暮らさねばならない。家を出ると七人の敵がいるというのが、実感に近かったのかもしれない。
明治以降日本人の社会は一挙に広がった。社会の何処に位置しているかで人それぞれになるが、知らない「世間」の外と関わる人々がすぐ隣に登場するようになり、「世間」が消え失せて「世界」と関わる人たちや、さらにその向こうに「知らない世界」を感じている人たちが雑居する日本社会に変わっていった。ことに敗戦後、日本国憲法の洗礼を受けて、欧米風の「理念」を「人権」や「民主制」として受け容れてきた戦中生まれ戦後育ちの私たちは、欧米をスタンダードとして「世間」を嗤い、「世界」へ飛翔するように感じていたのであった。
振り返ってみると、親世代が抱懐していた「世間」の感性やセンスや価値観を言葉として、振る舞いとして身につけて育ってきた「わたしたち」でもあった。つまり、身に刻まれた「世間」と新しく身に備えてきた「世界」とが齟齬したまんま身の裡に収まって、そのことに気づかず成長してきた。自己が意識されるようになってはじめて、齟齬が浮かび上がるようになり、はたして「わたし」の感覚や価値観は何を根拠に身に収まっているのであろうかと思案することが多くなった。
山本七平が「水と安全はただと思っている」日本人だったことにも気づいたわけである。それを耳にした当座は、身の裡に残る古いセンスと思い、山本同様にそういう日本人を否定する心持ちが湧かないでもなかったが、一つひとつ繙いていくうちに、「水と安全はただと思っている」日本人の何が悪い、と考えるようになった。庶民大衆にとっては,所詮「水と安全はただと思って」暮らせることが至福の人生ではないか。それを、そう思って暮らせるように整えるのが国のコントロールをしている政治家や役人たちのお仕事ではないのか。山本七平は、税金を納めている庶民大衆が国の舵取りをしているように思っているようだが、それは政治過程の一面しか見ていない。統治の中枢を担っている(明治以降の)人たちがミスリードしたことをこそ、敗戦を機にきちんと行わねばならなかったんじゃないか。
「世間」が消え失せたために庶民大衆を包んでいた「共助」の関係も消えてしまい、人々には個人主義的に生きる術しか残されなかった。「公助」は統治者任せ、「共助」は消え、「自助」は家族だけ、もしくはただの独りとして,孤絶している。それが今,わたしたちの立っている現在地である。
ジェンダー・ギャップを俎上にあげるには、まだまだ遠い道のりがあったように思う。(つづく)
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