半世紀以上も前からの友人で、目下もっとも昵懇に文の遣り取りをしているマサオキさんから今月の便りが来た。私が「無冠」と題する月刊誌を書き送っているから、彼もやむなく返書を認める。となるとこちらも、返書のつもりで「無冠」を書き付けるという、白山羊さんと黒山羊さんの関係のようになって久しい。いつもは葉書の裏表に小さな手書き文字ビッシリなのに、今月は便箋五枚に認めて封書であった。
まずは、お目通し下さい。身辺ご家族の近況は中略としたが、前段、句点なしの一気通貫の体調報告は、一つのエクリチュールの遊び芸と言っても良い彼の持ち技。この人の日頃の体調を墜落しない低空飛行とハラハラしてみているパソコン派ライターの私からすると、手直しなしで直に書き付けて乱れぬ筆致に、感嘆。読み終わって、そうかこれが彼の周囲にまき散らしていた文化の香りなんだと、半世紀経ってやっとわが身が感じ入った。そのことは、彼のお便りを読み終わって考えてみる。
***マサオキさんの手紙 2022/6/24
Guten Tag! 你好吗? 今年の関東は梅雨時前に梅雨が如き天気が続き、本番の梅雨の季節はどうやら空梅雨で夏本番の猛暑が早速にも襲ってくる由で暑さと女に弱いゆえ、それに頭も弱くなったことも手伝ってその酷暑を乗り切っていけるか、今から心配しているのですが、御存知のように秋の御彼岸が満七十九歳の誕生日なるも、そこに辿り着く前に哀れ暑さのために斃れ、色即是空也と悟達する遑もなく本当の彼岸に配送されてしまうことだって考えられないことはないし、どうせ暇な毎日だから、そこら辺よしなに御高配の程をと庚申様や閻魔様に些少ながらの賂を添えてお願いしとこうかしらと思案したものの何を今更神仏頼りかよと嗤われそうだし、ここはそれ、成り行きに任せるは若くになしと随分とへっこんでしまった腹を括っていたら、昨日どうした勢みか、その腹がごぼごぼ下り、加え、腹とは別機能の排尿系にも異常を生じ、尿が水と言ふより何か膿みっぽい濃げ茶色になり、のみならず排出してもひどい残尿感がありすぐまたトイレへと言ったパターンがそうさなあ四、五時間も続き、その膿っぽい尿に向かって、熱中症死はともかく心臓や肺臓の原因の死だったら世の中にまあ真っ当な死に方として別に気にもされまいが、尿死というのはどうも頂けないので勘弁してくれよと藁にも縋る思いで懇願したところ、その願いや通じたらしく5時間後には何事もなかったが如く旧に復し事なきを得たのですが、考えてみれば尿という漢字の部首「尸」は「しかばね」だったと改めて気が付き、前日夜に何ぞ良くない物を喰った祟りが大なり小なり便証されたのかとも思い致され、此様にまだ因果律にいいように翻弄されているうちはまだこの世の存在であり続けていられるのではとひとまずホッとしたとはいえ、前述したように危惧すべき本物のホット、ホッター、ホッテストが待ち受けているとなればホッとしてもいられまいし、成り行きに任せるにしても、ここはまたひとつうまく事が成り行くように庚申様や閻魔様に加え、観音様や菩薩様にお祈りしておいた方がよいかもしれません。以上体調報告です。
(中略……ここも長文)
後れてしまいましたが、「無冠」no.70ありがとうございました。前便で「ふらり遍路の旅」始末の途中で「飽きた」事に絡め、bb(変音記号)に因んで遍路は変ロに変調したと駄洒落ておりましたっけがその伝の続きで駄洒落るならば、件の始末記の題も「ふらっと遍路の旅」とした方がいいかもと余計なことをまず考えたりして、いけませんねえ。ところで、「小夏」の話がまた出てきましたね。私の大学時代の旧友の娘に「夏夏」という名前の子がいます。「小夏」は何かかわいらしい感じがしますが、「夏夏」となると翻然暑苦しい雰囲気に襲われますが、御本人は今四十代前半くらいかなあ、逆に涼しげな顔立ちの所謂スレンダー美人で、そう、譬えてみればNHK夜7時のニュース(平日)の天気予報を担当する晴山紋香さんのような雰囲気の人です。季節名に「小」の字を付けるのは秋、冬はなく、「小春」が断然多いですね。村田英雄の唄う「王将」坂田三吉の女房の名も〽愚痴も言わずに女房の小春~~でしたし。「み」が付くのも「春」が多い。例外は「剣客商売」に出て来る田沼意次の娘「三冬」ぐらいで、小生の戯作に於いても、主人公は将来娘が出来たら「ミハル」と名付けると夢の中で披露しています。尤もこれには嘗ての三春藩三剣士との繋がりからの連想もあるし、また奥方がドイツ系の人なのでミハイル、ミシェル、マイケル、ミッチェル等々に通じると見てそうしたのかもしれませんし、それとも浦和K馬場のかぶりつきで生まで見た美人騎手フランスのミカエル・ミシェルさんの残像があったのかも。ミカエル、ミシェルとダブルで天使ですものね。いや、何の話になってしまったやら。ああ、そうでした御遍路途中飽きちゃった始末記の話しでしたね。行脚を通じて道程いろいろなことがあったとの記述を見ていますと、何かその都度その都度毎に体感的、語感的、心感的に「無受想行識 無眼耳鼻舌心意 無色声香味蝕法」の境へ各駅停車しているような風情で、いやこの遍路記事に限らずここ数年の当誌の通奏低音が般若心経になってリウように見受けられ、別しては最近頓に御年傘寿になられたことも随分と意識し、これまで80年に亘る人生遍路に於ける己と交通した人達、己が存在した諸種相の社会、そしてそうした具体物を突き抜けた自然または宇宙、あるいは純粋世界(あるとすれば)等と己の関係をこの際一遍に手繰り寄せて、言って良ければ言葉として約するもの、言説の落とし所として「発見」したのが色即是空の言であり堺なんでせうね。この間どんな人について述べていても、どんな本について記していても、どんな事柄や現象について言及していても、結語の部分が色即是空になっている、そんなベクトル感が感ぜられてなりません。八十年の遍路歴程に於いて、語り尽くされ釈きつくされている色即是空の心意を改めて剔抉したと言うより、己流の思惟方法で個的に新しく意味づけしたと称した方が当たっているかもしれませぬ。いやはや、お経は音感的にとらえることにしていると放言(ほざ)いている男が言えた話しではありませんね。
今日は24日(金)、冒頭に記したように陽が照って朝からカアーと灼熱状態。水分取られて干からびてしまいそう。外歩きの際はどうぞ日射病にお気をつけ下さい。いっかな身心元気と思っていても、〽今年八十のお爺さん~なんですから何があるか分かりません。努々油断召されるな! ほならまた。Aufwiedersehen!
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いや、余計なことを書き付けてマサオキさんの文が湛えている気配に、いま我が雑感を放り込むのは無粋極まりない。そういう身の裡からの声も聞こえてきた。マサオキさんの書き言葉、エクリチュールのおしゃべりが醸し出す気配は(いつぞやも記したが)まさしく「あそびをせんとやうまれけむ」ヒトの真骨頂。どうあがいても私には辿り着けない彼岸の業と思ってきました。これが、恒に常に対岸に狼煙を上げているのを目にして半世紀以上、やっと今ごろ大真面目に世相文化論を取り上げてきたお前さんへの根柢的な批評だったのではないか。いやここでお前さんと呼ぶ私のことではない。「わたし」らヒトのやっていること、やってきたことの、殊にエクルチュールという(知的と思われてきた営みの)あれやこれや、何から何までを総ざらいして、「あそびをせんとやうまれけむ」ヒトの本性を見誤っているんじゃないのと、声が響いてくるようだ。子細は、また後ほど。
なお、マサオキさんの遊びとしてのエクリチュールに関する記述は、以下の本ブログ「記事」でも触れているので、ご笑覧下さい。
「コロナウィルス禍の思わぬ贈り物」(2020-11-29)
「茫茫たる藝藝(1)」(2019-11-22)
「茫茫たる藝藝(2)風のような読み物、稗史小説という構え」(2019-11-23)
「茫茫の藝藝(3)経験と見聞の埒外に出られるか」(2019-11-27)
「茫茫たる藝藝(4)あそびをせんとやうまれけむ」(2019-11-28)