1年前の記事《「ヒトのじねん」のあしらい》を読んで。
暑い日が続く。昨日は久しぶりに秋が瀬公園を散策した。公園中央のテニスコート脇の駐車場に車を止め、北の方へ歩を進める。日差しは強い。木陰を辿る。僅かな風が心地よい。昨夜降った雨のせいか、ムッと蒸す。木陰の地面も水溜まりがあったり泥濘(ぬかる)んでいたり、覚束ない。
テニスコートにはゲームを楽しむ人たちが一杯。広い芝地はドックランの会場らしく、スタートをカウントするマイクの声がかしましい。周りと取り囲むように参加者が張ったテントがたくさんある。森に入る。草木の勢いの旺盛さが,梅雨の暑さと雨を寿いでいるようだ。水溜まりに降りたっているカラスやスズメ、カワラヒワが飛び立つ。
コロナ自粛が解かれた日曜日、左側の何面もある野球場では何組ものチームが、野球やソフトボールのゲームに興じている。右側のレッズの練習場では、レッズ・レディースやキッヅの声が響いている。今年の梅雨は、人の暮らしに好都合だ。雨が降るのは夕方から朝方までの暗いうち。昼間外出する年寄りには朝夕の涼しさがありがたい。
ピクニックの森に入る。それまでも聞こえていたオオヨシキリの声が強くなる。おっ、見つけた。近くの葦のてっぺんに止まっている。「鳴いてる?」と師匠が聞く。「いや、鳴いてない。違うかな」と応じる。「あれはホオジロ」と双眼鏡を覗いた師匠が同定する。
木々を飛び交う小鳥が覚束ない。双眼鏡で観るとエナガの幼鳥。一カ所にまとまってエナガ団子を作る時期は過ぎたようだ。そちらこちらの木々の間を行ったり来たりしている。6,7羽まで数えた。親か子かも分からない。カラスも、幼鳥が混ざるのか声が幼い感じがする。
池の裏側へは泥濘んでいて入れない。カイツブリが4羽、浮かんでいる。親鳥1羽と幼鳥3羽。親鳥がポクリと水に潜る。幼鳥も相次いでぽくりぽくりと潜り込む。子育ての最中のようだ。
ピクニックの森のバーベキュウ場の設えられた窯場は、たくさんの食材を持ち込むひと、刻むひと、すでに焼き始めている人たちで一杯になっている。空いているベンチに腰掛けて水分を補給する。傍らの若い女性たちグループのおしゃべりが鼓膜を素通りするように通り過ぎていく。若い頃にはこんなに早口で喋っていたろうかと,ふと思う。ノンビリとフォークソングを歌っていた1970年頃と違って、ビートも早くなってきた。8ビートになり驚いていたのが、16ビートになって、もう違う世界になっていったように感じていた。若い彼女たちのおしゃべりも、中味は透明になり、テンポの速さだけが印象に残って世界が違うと感じている。
師匠は「世間話ができない。そんなことを喋って、何になるのと、すぐ思ってしまう」と、その違いを解きほぐす。でもそれって、おしゃべりの中味をとらえている。その通りだが同時に、口にする言葉の「意味」を受け止めてきた世代と、口にする言葉の音声や響きを,口にしている場との折り合いに関心を傾けて喋る若い人たちとの違いは、ひょっとすると、案外深い文化の亀裂が入っているのではないか。そんな感触が、ある。「言葉が消滅する前に」という副題のついた哲学者の対談を読んだことがあるが、その「言葉が消滅する」って、こういうことではないのか、と。そう言えば、この哲学者たちはアラフォーの若い人たちであった。
公園最西端の木陰に沿って草地を踏んで南端のサクラソウ自生地へ向かう。道路を挟んだ東側の広い芝地には、タープやテントが立ち並ぶ。コロナ自粛解禁で、暑さをモノともせず家族連れなどが出張ってきて、マスクを外して愉しんでいる。
子どもの森からちょっと森の中に入り、うっそうとした樹林の中を歩く。道路のすぐ際なのに、「ここははじめて」と師匠は言う。私は何度も歩いている。やっと道路に出ようかというところで、師匠はやっと見当がついたとみえて、もっと奥への道を辿る。藪の中に踏み込み、そうそうこれがあったんだと何やら萱の名を口にする。カメラに私は収めたが名を忘れてしまった。
サクラソウ自生地へ行く途中の野球場も、ラグビー場も、ゲームに興じる人たちが(入れ替わり立ち替わり)いて、木陰ではバドミントンをしたりキャッチボールをしたり、バットの素振りしている。トイレの前には,若い人がたくさん屯している。ドラムを叩く音が響く。管楽器の音色がそれに絡みつく。広いひろい公園だから、何処で音がしているのか分からない。いや、一カ所じゃない。あちらでもこちらでも,でも互いに邪魔にならない感じで楽器が賑やかだ。
正午過ぎ。サクラソウ自生地の木陰のベンチに腰掛けてお弁当を食べる。日差しの当るベンチに横になって寝ている人が何人かいる。左の方の人は上半身裸になってディレクターズチェアに腰掛けて本を読んでいる。「日長パソコンに向かって仕事をしているひとは、こういうのが大切なのかも」と師匠が言葉にする。私もパソコンに向かっているが、この日差しに身をさらすのはごめんだなと口にする。ああ、これって、歳の差なんだね。
と同時に、NTTだったか、在宅仕事を原則として出社するときは「出張扱い」というニュースがあったことを思い出す。on-job-trainingを原則と考えてきた私たち世代は、もはや通用しない世界。勤めを始めるときすでに人は完成品とみなされている時代なのだ、今は。その割には初任給が低いよなと思っていたら、今朝のニュースで、どこかの会社が初任給を9000円アップするとニュースが流れていた。そうか、そういう風にして日本の古くさい年功序列賃金体系は少しずつ崩れていくのかと思う。
師匠は10日ほど後に、サクラソウ自生地の植物案内をする予定がある。暑いから木陰のベンチにいて良いよというが、何、これにへこたれてなるものかと思ってついて歩く。歯茎が痛み始める。自生地の萱が大きく育って通路を隠す。掻き分けて歩く。半袖からはみ出した腕が軽く痛む。師匠の口にする植物の名が軽く耳を素通りする。すっかり草臥れてしまった。
こうして車に戻った。全行程4時間。歩数そのものは15000歩を少し超えたくらいだからたいしたことではないのに、帰宅したときには歯茎の痛みが酷く、横になっても眠れないようになっていた。
こうして、冒頭の一年前の記事を読むと、動物化するということとヒトとして動物になったことを味わうということとを、一緒にしていいのか。動物と言葉を交わすというときに、ヒトは動物になっているのか。それとも、動物と同じ地平に立って世界を感じていると言えるのか。人が作った世界を「じねん」として受け容れることと、動物になることとは違うんじゃないか。
そうか、動物化すると動物になると動物と同じ地平に立つこととをもっときっちりと区別して考える必要があると思った。
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