1年前の記事、「大自然と言葉を交わすということ」を読んで記す。
大自然と言葉を交わすということは、自然の営みを感じ取り、言葉にしてわが身の地平の置き換え、その後に大自然に位置づけて対象としてみるということである。つまり、感受し、言語化し、かつ超越的視点からわが身を大自然においてみるという三段階を経て、大自然とわが身の関係を読み取ることと言える。
今日は夏至。半年前の冬至のときに「これからは明るくなる」と「希望」を交えて記した。明るいということに「希望」を見て取るというのがなぜなのか根拠は分からないが、たぶん視覚が感官機関の大きな部分を占めているからであろう。だが自然は必ずしも「明るさ/暗さ」に正負の価値付けはしていない。
思えば、蝉が地中で何年、何十年と過ごし、地中から這い出て殻を脱ぎ、蝉となって私たちの目や耳にとまるとき、蝉の一生のはかなさを感じたりするのは、寔にヒトの身勝手、自分の感官を押しつけて世界を観ている。
蝉の一生の大半が地中にあるということは、そこが主たる一生の「蝉生」であって、外に出てきてからの生涯は繁殖という世代交代の最後の一場面に過ぎないということだ。にもかかわらず、ほとんどそれを蝉の一生とみてとって可哀想に感じるとのは、ヒトの思い入れ。完結しない人生って一杯あるじゃないかと、ヒトの身をふり返ってみても気づくことだ。
ということは、大自然を感じ取るときの私たちの作法は、ヒトの一生を重ねて我田引水に読み取り、その都合に合わせて大自然の苛烈さや酷薄さ、あるいは恵みや豊かさを選り分けて、あれこれ評価を下しているに過ぎない。それが如何に身勝手であるかを、じつは自然科学が解き明かし、大自然を鏡にしてわが身を映し出している。
にもかかわらず、自然科学をそうは考えず、ヒトの自然制覇の道具としてのみ有用性を認めていくようなことをするから、自然科学の超越性を見損なってしまう。有用性に限定するときに、映し出され照らされているわが身がみえないってことになる。それが、現在のヒトの大自然との関係の行き着いたところである。
先日、福島原発に関する最高裁判決にふれたとき、「事故を防ごうとして予防措置を講じていても防げなかった」と判断したことを「ヒトが原発を扱うことはできない」と判断したと読み取ったのは、この最後の局面で「原発そのものがヒトが扱える代物ではない」と最終段階までの安全性をヒトは保証できていないことに着目したからだ。だが、産業界や為政者は、これまで原発運用を肯定したとして「国に責任がない」判決を歓迎した。これは、大自然との関係をまだ、最終局面まで見切っていない証しである。昔のヒトなら、ヒトの浅ましさと呼んだかも知れない。
そのヒトたちも含めて、夏至は太陽の移ろいとして地球の日照時間を見て取り、ヒトの暮らしとの関係でときの移ろいを言祝いでいる。その太陽の大きさと地球の小ささ、太陽系と銀河系の中の恒星の大きさとを比べてみると、如何に地球が小さいか、その小さい地球で、何をヒトは齷齪と争い合っているか、よく分かる。恥ずかしくなるような思いがする。季節を分けて読み取ることを鏡にする方法がみつかって、広まっていけば、ヒトもまた、少しは変わるかも知れない。
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