2022年6月28日火曜日

梅雨が明けた、いまさら!

 気象庁は昨日(6/27)梅雨明けを宣言した。何を今更と猛暑に汗をかきながら市井の老爺は嗤う。ほんの1㌔ばかりの銀行に行ってくるのに、建物の日陰を伝うように歩く。往復するだけで汗びっしょりになる。

 風呂の湯船が暑苦しい。何日か前から、シャワーにする。掛け布団も跳ね飛ばすように寝ていた。タオルケットに換える。もう3日も前から猛暑といっていたし、2週間先まで晴れの暑い日が続くと予報もした。そのときから「梅雨明けのようなもの」とメディアも話題にしていた。

 だが気象庁は、用心深い。「戻り梅雨」ってこともあると考えたのだろうか。太平洋高気圧がそのまま押し上げてくるのかどうか、気配を窺っていたのだろうか。気象庁が何を護ろうとしていたのか、ちょっと気になる。

「予報」というからには読み違えることがある、って考えないのかもしれない。気象庁が間違えたら、科学が信用を落とすと思っているのか? もし「予報」が違えば、なぜ違えたかを解き明かすことが科学的態度であり、且つ、広範にそういう姿勢を啓蒙する機会でもあるんじゃないか。つまり、気象状況の判断者としての正確さを期するために、却って経験的な判断に嗤われるってワケだ。これも(施策判断の根拠を公開しないで)、大自然との向き合い方を人事が誤らせるような事態と言えようか。

 そういうことでいえば、国境とか国の安全ということも、その当事者が何を護ろうとしているかを率直に俎上にあげて、遣り取りすることがあれば、これほど力尽くに振る舞うこともあるまいと思われる。人事(によって生じた面目)を護ろうとしているのであれば、それに先行するより大自然に近い前提を尊重するように公に考えていくことをすれば、関係する人たちの啓蒙にもなるし、モンダイを解きほぐして少しずつでも解決へ向かうことが期待できる。理知的には、そういうふうに暴力によらずに対立するモンダイを当事者間で俎上にあげる方法を考えることができる。これは気象ではなく気性。台湾モンダイとかウクライナにたいするロシアの懸念をイメージしながら考えている。プーチンや習近平の気性ってワケだね。

 だが市井の老爺からすると、身に備わった文化的なあれやこれやが(どう作用しているのか、分からないが)絡み合って、身の裡に「人事の正統性/正当性」を形づくっている。現実は、その何十年も何百年も2500年ほども堆積してきた「人事」が、もはや大自然的事実のように骨格を形づくり、それを根拠にわが身に感じる正統性を打ち立てている。それを私は、身に刻んだ経験的な知恵と考えている。ヒトの自然て、そういうものなんだ。

 国民国家の支配を続けている為政者たちも、彼らなりの経験的(on-job-training)な堆積を元に判断して、その正統性/正当性を崩されては適わないと論理的には考えているのであろう。実態は、しかし、論理の矛盾をものともせず、わが理が成り立つことなら何でも動員して根拠とする展開をして、煙に巻く。巻けなくなるとフェイクだと誹って、事実そのものをみえなくしてしまう。何処から切り取ってわが理の根拠としているかと考えると、ロシアも中国もアメリカもEUもインドもまた、勝手なことをいってると思う。一つ一つをまっとうに取り上げて論理的に咀嚼するのも煩わしい。まさしく「色即是空 空即是色」だ。それでも、プーチンや習近平、バイデンのそれを解きほぐしていかないと、核戦争になってしまうとすると、捨て置くわけにはいかない。

 身に押し寄せてくるありとある情報が経験だとすると、みな勝手に自己主張して、正統性を起ち上げているが、はたして「正統性/正当性」ってなんだろうと、市井の老爺の情報処理装置が作動し始める。つまり「わたし」を当事者として「せかい」をもういちど総覧してみる心持ちを、持とうと試みる。結局わが身が何を根拠にその「正統性/正当性」を判断しているかにかかっている。その情報に心揺さぶられるのは、なぜか。煩わしいと感じるのはなぜか。コイツ嘘をついているとか、こりゃあ平然と否定しているが非道だと、「わたし」がみているのは、なぜか。そう自問自答して、「わたし」なりの応えを導き出す。

 その応え方の中に、気高さを保持する考え方は、どう盛り込めるのか。そのときの気高さとは何か。「わたし」の経験的な、とりあえずの応えは、《できるだけ大自然の要素に立ち返り、まず人がヒトとして地上に現れた地点から辿り返して、「人事」が支配するようになりそれが圧倒するほど社会を席巻することになった経緯を押さえ、原点に立ち返って解きほぐしていく》という迂遠な道が浮かび上がる。遠近法的消失点ていうんだもの、少々迂遠であっても、騒ぐことではない。どうせ、その迂遠な道も、全部自分が解きほぐしたものではなく、累々たる積年の知恵知識の堆積が教えることだ。せめてそうやって、わが身(の抱く感懐)を滅却するようにして「せかい」に身を重ねていく。それが気高さの獲得には欠かせない。

 でもねえ、そんな厄介なことに誰が付き合うか。経験的な庶民も、お前さんくらいだよと別の私が声を上げている。いいんだ、それで。どうせ、世界のgerm、黴菌が呟いているだけさ。一匹の蝶の羽ばたき、一頭のgermの囁き。世界ってそういうものさ。

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