カミサンが見ていたTVから何かを解説する聞き覚えのある声が聞こえてくる。池上彰だ。この声を聞くと私は、イヤな気分になる。どうしてなのか考えたこともあったが、啓蒙的だからイヤだという以上のことへ思いを進めたことはなかった。
昔の自分を思い出すから(イヤなのだ)という風に考えたこともあった。だが、その昔というのは、半世紀以上も前のこと。今に尾を引いているとは思えない。
そうだ、日本会議や日本共産党の人たちも同じような啓蒙主義だからか。それがイヤなのは、自分たちは真実を知っているが他の人たちはそれを知らないというスタンスが、初手から組まれているからだ。日本会議の櫻井よしこがそうだ。共産党の論調がそうだ。いや、それだけではない。日本の為政者たちは大体みな、啓蒙主義的スタンスをベースにしている。もちろん一括して為政者といってしまうと、中央政治と地方政治も違うし、政党によっては啓蒙主義の度合いに違いもあるように感じる。だが、ま、概括為政者と言って良いであろう。
でも、自分の知らないことって結構あるじゃない? それを教えようってんだから、啓蒙も必要なんじゃないか? と別の「わたし」の声も聞こえる。そうだ、その通りだね。じゃあ、「啓蒙主義」って何よと、啓蒙と分けて、もう少し子細に踏み込む。
人々の知らないことを伝えるってのも啓蒙とはいう。伝える方とその受け手との間を伝わっているものを「情報」と呼ぶと、啓蒙というよりは情報をオープンにするといった方が良い。つまり「啓蒙」と呼ぶと、単に情報を伝えるというのではなく、その情報を読み取る文脈も合わせて伝えている。伝える方が優位に立ち受け手を劣位に置くことが前提にされている。価値づけて伝達するのが「啓蒙」である。
池上彰は、しかし、メディアのジャーナリストとして情報伝達しているだけなんじゃないか。番組をよくみると、いろんな立場を紹介しているじゃないか。
では、ときどき池上彰とコラボしている佐藤優もイヤな啓蒙家かというと、そう(私)は感じない。何が違うか。佐藤優を私は、専門家だと思っている。ロシアや外交の専門家であり、かつ彼自身の出自(自己形成)が奈辺にあるかを、わりと子細にオープンにしてきている。専門家というのは、それ自体が身を限定している(と聞く方が見ている)。つまり自己を対象化しながら、主義主張の根拠を解き明かそうとしている。まさしく、佐藤優が自らの言葉で語っていると感じ取れる。
そうか、池上彰は、いろんな立場を紹介するってワザを通じて、じつは自らの痕跡を消しているのだ。ジャーナリストの悪癖ってことか。池上が語るという固有性を消すことによって、じつは「真実」を語っていると偽装しているように響くわけだ。そう言えば、櫻井よしこも似たような語り口だが、池上と違って、自分が重心を掛けている地点を旗幟鮮明にしている。彼女の語りを受けとる私は、なるほどそういう視点で見てるんだと彼女のいわんとするところをわが「せかい」に位置づけることができる。だからイヤと感じるのとは異なる。私とは違う地点に立っていると思う。
だが池上彰は、今風の若者言葉にすると、キモいのだ。じゃあお前さんは何処に足場を置いてんだよといいたくなる。「真実」を語りながら、自分の立ち位置があたかも超越的なところにあるかのように偽装しているんじゃないか。そういう透明人間のような、別様にいえば神のような視線がキモい。
池上彰も櫻井よしこも中央政治にかかわる為政者たちの言葉をも啓蒙主義的だと一括するのは、彼らが「国民の代表」のような普遍的な立場に立っていると偽装していると感じるからだ。だがそもそも(誰でも良いが)、日本国民を代表するってことが、できるのか?
自分が意図していることになにがしかの真実があると思わなければ、為政者ならずとも市井の人々に訴えることはできない。それは確かだ。だが、なにがしかの真実という限定とか、「わたし」の考える真実というニュアンスは、「わたし」を対象化した後に語り出されている。つまり私は真実と思うという根拠をオープンにして、あなた方がどう判断するかを聞かせてよいう遣り取りこそが、今の情報化社会において相応しいと「わたし」は感じている。
だれもが考える「国民の代表」という「真実」は、今の情報化社会には成立しない。いやそもそも「国民の代表」ということは成立しないから、部分的な代表という意味で「パーティ(部分)/政党」が成立したんじゃないか。そのパーティの協議を通じて(つまり議会として)より「国民の代表」に近づくという理念であった。ところが現実の政党政治は「協議」よりも主導権争いとして現出し、政権を取ったところが「国民を代表する」ことになって、現在の状況に至っている。そもそもの理念がタテマエになり、ホンネが潜行するようになった。
そこへ30年ほど前から社会が、ITによる情報化社会へと変わってきた。マス・メディアで集合的に(政党の数ほどに)集約されていた「世論」も、情報化の個別メディアでは情報受容者の数だけ「世論主体(複数)」が立ち上がり、とうてい政党の数に集約できる状況ではなくなった。政党関係者や日本会議の人たちは(国民形成しなくちゃならないと)ますます声高になっているが、それは啓蒙主義的にはもうできない時代といわねばならない。オープン・ガバメントとかオープン・ポリティクスの時代がやってきているのである。
ウクライナもそうであった。今年の2月24日までは、親ロシアか親EUかをみても、軍事的な力を借りなければ一つにまとまることもできない。全体として(国民のアイデンティティは)ばらばらの高度消費社会であった。2014年にロシアがつけ込みクリミア半島をロシア領にしてしまったことにも、ウクライナは手が付けられなかった。
日本も似たような状況と考えられる。どこか他国が戦争でもしかけて来れば一挙に民族的な心情にまとまるかもしれない。それがない状況では、ロシア侵攻前のウクライナと同じだ。とすると、ウクライナが現在戦っている程度に日本が備えるには、何に力を入れておく必要があるか。そう考える必要がある。マス・メディアも為政者も、もっぱら外交と軍事力の備えを解いている。
だがそうか。社会を護るに値すると感じさせる土台を培うことじゃないか。そう感じさせる時代的な体験を、より多くの人たちで共有することではないかと私は思っている。
私たち戦中生まれ戦後育ちの世代は、文字通り善し悪しを別として、時代の共有感覚をもっている。敗戦後の混沌、経済を中心とした貧窮からの脱出、高度経済成長を経て、一億総中流の時代である。今、その同世代でseminarを行っていて感じるのは、「豊かな共有体験」というよりも、豊かでなくとも時代を共有してきたという感覚の共通性である。
幸いなことに、あのバブル経済の1980年代に、人の有り様の多様性が噴出し、あるいは多様性を感じ取り、将来的な「有り様」を模索する必要を多くの市井の人たちが感じていたと私の身は刻んでいる。それが崩れた後の「失われた*十年」の間に、多様性に自己責任が重なって大きな格差社会へ移っていった。人の能力が経済活動に資するかどうかに狭められてしのぎを削ることになっていった。自殺者も増え、社会は緩やかにバラバラになり、やがてボロボロになる気配を宿し、社会の(同時代を生きているという)一体感が失われてしまっている。これでは、護るべき社会の土台が腐ってきているといわざるを得ない。為政者たちの(議会という狭い世界の中での)振る舞いもまた、目を背けたくなるほどの頽落をみせている。外圧を期待して一体性を図る前に、まず土台の立て直しに力を注いで貰いたいと思う。
啓蒙主義から逸脱して土台の再構築へ話しがいってしまうなんて、池上彰も驚くような展開だが、ま、それが市井の年寄りってものよ。
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