2022年6月22日水曜日

クールな話しはうざったい?

 近頃のこのブログ記事を見ていると、1年前の記事を読んでとか、前日書いたことの延長とか、発端の想起域が狭くなっている。以前にはもっとたくさん、本を読んでいた。新聞にももう少ししっかりと目を通していたし、TVも、ドラマやドキュメンタリー、ニュース構わず観ていた。映画も月に何回かという程度に観に行った。だんだん自分の外部のメディアにかかわることがメンドクサクなり、目をやり耳を傾けることが少なくなった。

 これは「わたし」の身の裡の外部との交信装置が劣化してきている証しなのかも知れない。感度が鈍っているとは思っていない。むしろ、新聞やTV、本に書いてあることがぱ~っと「わかってしまう」ように感じる。既視感があるというか、「わたし」の「せかい」にすっぽりを収まるように思えて、直ぐにつまらなくなる。飽きてしまうのだ。

 では、何が劣化なのか。

 外部の物語は、波瀾万丈が面白い。ドラマでもそれより奇なる出来事でも、あるいは何が起こっているか分からない混沌の世界が語り手によって物語化していく過程も、意外性に満ちている方が、ハラハラドキドキして惹き込まれる。

 もちろんそれには「作法」があって、例えば長編小説などは、何百頁かを読み進めないと全体の構図が浮かび上がってこないから、そこまで我慢しなければならない。というか、長編小説の作家としては、そこまで読み進める気持ちを持ち続けるだけの(この先、何かあるぞ)と思わせる仕掛けを、前段の各所の文中に仕掛けておく必要がある。もちろん事件でなくても良いわけで、ごく日常の暮らしと思われてきた景色を切り裂くようなものの見方が突き出されてくることもあった。

 そうか、劣化というのは、そういう地平に出るまで我慢することができなくなっているのか。それは、体力に我慢の限度があるからなのか、前段の文脈を読み取ることに力が必要で、その集中力とか、読解力が足りなくなっているのか。たぶんわが身の内発的な何かに起因して、そうした力の継続ができなくなっているような気もする。たとえば、何日か掛けて読み進めていると、前の方の記述を忘れてしまうとか、人と人との関係がぼやけてしまうとか、身体的な感受性にかかわって衰えていっているような感触なのだ。

 TVも1時間とか2時間のドラマを観るのがしんどい。飽きちゃうと自分では思っていたが、新聞の見出しのように早く読み取らせろよと、身の我慢が利かなくなったこともあって気が急くのかも知れない。つまり、早く自分の「せかい」に落とし込んで、始末を付けたいという気分が露出してるだけ。年寄りはせっかちになり、我が儘になるというのが

「わたし」にも及んでいるってことか。まいったねえ。頑固になってるんだ。

 ということは、外からの刺激を受けとる力が衰えている。学ぶことも少なくなり、ふ~んと思っているうちに、そのふ~んの刺激も雲散霧消して消えていってしまう。そうすると、観ているドラマもドキュメンタリーも、つまらなくなるから、スウィッチを切ってしまうことになるという次第。何か感じたことがあったなあと後で思い起こそうとしても、ふ~んと思った体感だけが残って、それが何であったかを思い出せない。

 そういう「わたし」の裡側を脇に置いて、しかし、予定調和的な設えのドラマやドキュメンタリーが多くなっているように思う。直ぐにつまらなくなる。これは、ひょっとすると、長編小説の仕込み段階も含めて、手近にまとめてみようとする「わたし」のクセが表出しているのかもしれないが、私は別様に考えている。予定調和的なお話しは、たいていスマートでクールだ。良い話しなのだ。それの味付けとして少しばかりアクシデントがあったり、不運が襲いかかったりしても、最終的には結構上手くいったじゃんと腑に落ちる運びになっている。それは見終わって、なんだこれは、つまんないじゃないかと強く感じる。そう感じている「わたし」は、ヒトの不幸を願っているのだろうか。制作者の(お話しをまとめる)手際の良さを見せつけられたようで、出来勝負じゃんと思っているのだろうか。

 そうじゃない、とわが身の裡の何かが反応している。起承転結をきっちりしなければお話しは終わらない。そういう物語の構成に長年飼いならされて、そういう習性が身についてしまったのじゃないかとわが身を疑っている。

 80年近く生きてきてかんじていること。それは、お話しは結末をもたないってこと。ただそれを制作し、読み取る者が、勝手にそこで切断し、終わらせているだけ。それなのに、あたかもそこで「せかい」が完結するかのように受けとって自足しているんじゃないのか、ふ~んと感心してみている「わたし」は、と自分に対してどこかで感じている。つまり、結末はさらに先へ送り、延々と続くのよ、でもね、「わたし」が受け止めるのは、ここまでと、見切っているのかも知れない。

 でも、この「わたし」が感じている感触は、わが身のことなのか、この社会のことなのか、いや、今の世界のことなのか、分からない。ただクールな話しは嘘くさいというか、うざったい。これはわが身の裡で自ずと予定調和にしてしまっている「わがせかい」がうざったいということなのかもしれない。

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