2022年6月23日木曜日

日本は埒外だね

 30年ほど前、日本が少子化する検討を始めたことを知ったフランスの人口歴史学者エマニュエル・トッドは「日本人の先見の明に驚いた」と記しています(『自由の限界』中公新書ラクレ、2021年)。そのとき欧州はドイツとイタリアで人口減少がはじまっていたが、何の検討も行っていなかった。意見を聞かれた彼は「日本は移民を受け容れられるか?」と逆に質問し、即座にそれは無理と返答を得て、後に彼はこう見て取ります。

    《日本はなぜ移民を拒むのでしょう。人種差別主義、あるいは外国人嫌いなのでしょうか。やがて私は問題の核心を理解します。外国人を敵視するのではなく、日本人どうしでいる状態を失うことが怖いのです。日本人どうしの居心地は申し分なく、幸せなのです。日本社会は自己完結の域に達していると言えます。》(2019/2/28)

 思えば、彼が人口問題で意見を聞かれたのは、日本がまだバブル経済の最中にあったとき。日本経済の絶頂期です。移民受け容れを「無理」と応えたのがどのような立場の人なのか記していませんが、ひょっとしたら政府高官か、それに連なる人ではなかったかと思います。その十年ほど後の小渕内閣のときに、「毎年60万人、十年かけて600万人の移民を受け容れなければ減少する人口を埋め合わせられない」と答申が出されたのです。つまり当時の政府高官とか官僚は、その(先見の明といわれる)程度に時代の先を読むセンスを持っていました。ともあれ、その「(移民受け入れは)無理」が未だに尾を引いて30数年後の現在、人口減少は手が付けられないところへ来ていて、未だに(見当違いの方策にしか)手を付けていません。

 移民受け入れを無理という反応は、外国人労働者の受け容れ方の実態を見ようとしない行政の振る舞いを見ているとよく理解できます。あるいは不法滞在者に対する処遇をみても、おおよそ彼らと共存していこうという気持ちを持っていないことがわかります。トッド氏がいうように、「日本社会は自己完結している」という市井の人の気分は、じつは我胸に手を当てて考えても分かります。たぶん井の中の蛙と呼ばれていた日本人の身に刻まれた居心地良さは、相変わらず顔見知りの間で安堵する心性に起因しているようです。経済のグローバル化がこれほど進んでも、海外諸国から来る人たちはみなガイコクジンとして一括して(共生する社会の)埒外に置くスタンスに染みこんでいます。これがじつは逆に、今の時代、わが身を世界から埒外に置くことになっているのだと思わせます。

 何でそんなことを思い出したか。ブレイディみかこ『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社、2019年)を読んだからだ。面白い。著者の今が、歩いてきた形跡共々、イギリスの元底辺中学校とその周辺の様相を交えて移り変わるのが、ピリピリと伝わってくる。それはまた、見事に日本のとか、「わたし」の現在を照らし出し、どう経過してきたか、これから通過するのかと思わせる余韻を残す。

 これまで私は、4度この著者に触れたことがあった。

    ・「暮らしが社会や政治と繋がるところ」(2020-7-4)、『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』(新潮文庫、2020年。2016年太田出版初出)。を読んだ感想。

    ・「底辺をみる慧眼」(2020-11-21)『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年)

    ・「何処から「違い」が出てくるのか」(2020-11-24)上記の本に関して別様の見方を記した。

    ・2021-7-7のそれは、齋藤浩平の『人新世の「資本論」』をブレイディみかこの上記感想と対照させたものだから、名前をちょっと借りただけのようなこと。

 いずれも、しかし、この著者の慧眼と視界に広さへの驚嘆、挫けない心持ちに感嘆しながら読後感を記している。

 本書の表題『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』が著者の息子の通う中学校で出くわした感懐を表した言葉。人種差別と言えるこのような言葉が、どんな場面でどのように誰に向かって誰から発せられているかを、場面と登場人物をきっちりと押さえながら書き記す。と同時に、この著者の前著がその視界と視線を示しているが、その場面や登場人物がどのような社会的な背景の中でどういう言葉を発することに至ったかを見落としなく加えて、その発言の持つ社会的意味と当事者に対して与える衝撃とを押さえている。

 それを読み取ると、移民が2割を超えるイギリス社会の人種差別的な振る舞いに関して辿ってきたであろう社会的苦しみや人々の苦悩が手に取るように感じられる。もちろんブレイディみかこが日本人であり、彼女の息子がアイルランド人との混血であるという風貌が、何処に身を置き、誰と遭遇するかによって、その言葉との出遭い方は異なる。日本人である母親と混血である息子への違ったあしらいも、細かく気に留めている。中学生であるから、それに対する向き合い方も変わってくる。と同時に、自分の隣にいる友人が浴びせられた差別的な言葉に、どう対処するか。力で押し戻す子もいれば、その出来事に心傷める姿も描かれている。それだけではない。それを契機に取り巻く大人たちの言動にも細かい目配りをして書き落としているから、さらに行間に潜む堆積した文化の様々が思い浮かんで、そうだよねえ、社会って種々雑多、猥雑とも言える文化の径庭を経て、それぞれの身に堆積してきてるんだよねと人と社会の大きさにため息をつく。と同時にそれらを包摂するイギリスという社会の包容力も感じる。

 個々個別事例に対処するイギリス社会の取り組みをみてみると、それぞれの学校の立ち位置によって取り組み方が違うとは言え、元底辺中学校周辺の差別的振る舞いに対する社会全体の意識的な取り組みが根付いていることがみえる。シティズンシップ・エデュケーションと名付けられた試験もある講座が中学一年生から行われている。幼児から中学生(日本でいえば中高生)の子どもたちに「教える」それぞれの段階の教え方にも、移民を受け容れていく社会的な同意がバックアップしている。しかも、アフリカの文化やハンガリーの文化といった文化系統の違いから(祖父母や父母との暮らしを通じて)伝わって来る伝統的な文化価値の置き方にも影響されて、子どもたちの日常の振る舞いに噴き出してくるから、そこまで視界にとどめておかないと、ただ単に形式的に口にしてはいけない言葉というだけにとどまって子どもたちに受容される。学校教育自体が、その文化の違いとそれが生み出す差別的な事態を想定して、子どもたちに教えている。

 だが著者(とその息子)が身を置く世界は、底辺の暮らしをする白人たちと旧植民地など、あちらこちらから渡ってきた(どちらかというと生活的才能にあふれるほどの活力を持った)移民やその子どもたち。一概に移民だから底辺生活をしているわけではない。むしろ白人の生活困窮者(やその子どもたち)が差別的に振る舞う。掛け値なしに彼らは、身に刻んだ差別的な言葉を気分に任せて、相手にぶつける。あるいはいじめる。つまり否応なく、いろんな世界からやってきた人々の文化的な堆積を感じとり、それを組み込んでその子たちへの向き合い方を考えていく姿が、わが身の経てきた径庭を振り替えさせる。

 そうして痛切に感じることは、日本の社会では、これだけの取り組みは無理だわというわが身の感触であった。と同時に、一つ希望を託すところがあった。

 先述のシティズンシップ・エデュケーションで、国連の子どもの権利条約などを学んだ後の最初の試験に出た問題。「エンパシーの意味」。

    《エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。両者の違いは子どもや英語学習中のガイコクジンが重点的に教わるポイントだが、オックスフォード英英辞典のサイトによれば、シンパシーは「1,誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解誌的にかけていることを示すこと」「2,ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為」「3,同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解」と書かれている。一方、エンパシーは、「他人の感情や経験などを理解する能力」とシンプルに書かれている。つまり、シンパシーのほうは、「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」」なのである。前者はふつうに同情したり、共感したりすることのようだが、後者はどうでもそうではなさそうである。》

 と見て、さらにケンブリッジ英英辞典でエンパシーを引いて、

    《「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている》

 と踏み込む。そうして次のように分ける。

    《シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だがエンパシーは……自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかも知れない》

 これを私は、「希望」ととらえた。そうだ、これまで私は、シンパシーとエンパシーとを区別しないで胸中の一続きの感覚とみていた。だがこうして腑分けしてみると、シンパシーをベースとしているところはあるものの、エンパシーを身につけることによって「日本人どうしが居心地が良い」感性から抜け出すことは出来る。つまり、日本人が外国人をガイコクジンとしてではなく、日本社会という空間を共有している人々として受け容れていく感覚を培っていけば良いのだ。いや日本人がというよりも、「わたし」がまずそれを身に備える。それにはまず、「わたし」が身に持っている文化が、どのように外の文化と異なるのか、それ自体も対象化していかねばならない。

 とは言え、まず「わたし」のシンパシーには、内部と外部が(海という結界によって)自然に形づくられている。日本語というおおよそ似た言語を喋っているという共通性も、「日本人どうしが居心地が良い」感性のベースになっている。これも、どちらかというと、自然に形成され身に刻まれてきた文化であって、「日本社会という空間(場)を共有する」ことの大きな要素だ。それを取り払うばいいとは思えない。多文化主義というか、例えば公用語も日本語だけでなく、英語も中国語もハングルも認めましょうということになるのは、それは違うだろうと、別のわが身が応じている。知的作業としてエンパシーを高めて行くには、その辺を曖昧に放置しておくわけにはいかないとも思う。

 そのうえで「希望」を紡ぐとすれば、どうするか。いや、面白い。こういうふうに、考えていく刺激を受けた。ブレイディみかこに感謝だ。

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