2022年6月12日日曜日

為政者の怠落とは何か

 一年前(2021/6/11)の記事「枯れ木も山の花咲か爺い」を読んで記す。

 この記事には間違いがある。自分のことも「花咲か爺い」に擬しているが、「花咲か爺い」は五輪主催機関のこと。私ら年寄りは爺さんが撒く「灰」だね。ま、どうでも良いことですが。

 ただ昔話と違うのは、撒かれる自覚がなく、自ら撒いてくれと身を投じているニュアンスが強いことだ。これって、資本家社会的自由社会のモメントが作用しているからだろう。つまり(灰である)顧客がその気にならなければ、モノは売れない。商売で花を咲かせようと売る方は、広報メディアを通じて人々の欲求をかき立てる。五輪主催機関も広報戦術を大手広告会社に丸投げしていたようだから、商売同様に「世論誘導」をして、人々の「状況論的移ろい」をつくって引っ張ろうとしてきたわけだ。

 政治の方も、全く同じ次元で発想して「世論誘導」しようとするから、顧客をその気にさせる最終場面ばかりに眼が行って、「世論」の起点になる「理念」が抜け落ちる。ご当人は抜け落ちているとは思っていないのかもしれないが、「五輪は平和の祭典」などと顧客の誰も思っていない。スポーツが政治と切り離されている(べき)ってことも、ほぼ信用していない。単なるタテマエ。本筋では税金を注ぎ込み、選挙の票に結びつくエンタメと考えているから、密に群がる蟻のように政治家が押し寄せて、くちばしを突っ込んでいる。

 商売の売らんかな精神と政治の「世論誘導」とが同じ次元ですすめられているということが、現今日本政治が貧相になる根源かも知れない。理念はすっかり後退し、一つの社会に身を置く人々が安寧に暮らす土台を整えると考えれば、まず暮らしの最低限を保障することのできる政治を見落とすわけにはいくまい。「分配に力を注ぐ」「新しい資本主義」と登場した岸田政権が出立できたのは、自民党政治に呆れかえっていた一年前の人たちの「期待を繋いで」いたからだと私は思っている。そして、岸田政権の、何の説明もしないが何か考え中のようにおどおどして「検討します」「考えていきたい」というリップサービスに、まだ「期待を繋いで」いるから、支持率が菅政権ほどには下がらない。むしろ(最初の低い支持率よりは)上がる結果を招いている。

 一年経とうとしている今、岸田政権の実際的施策が単なるリップサービスにしか過ぎないとみえ始めている。ただ、ウクライナの戦争が目を引き、気を持たせているから、内政がどうなっているかに「世論」はさほど目を向けていない。いや「世論」というよりも、マスメディアかインターネットの話題なのかもしれないが。

 社会と国家は別物という私の心裡の区分けは、為政者の怠落に愛想を尽かしているからだが、なにを「怠落」と感じているかを考えてみると、「理念の欠如」。資本家社会的なセンスばかりが為政者の胸中を覆い、経済の活性化という言葉で企業収益と株価の上昇と投資の奨励に力を入れ、物価と円相場とで一喜一憂して、策を講じる。その間に、社会がどれほど疲弊していっているかに目が届かない。せいぜい選挙向けの弥縫策ばかりが提示される。そこへ踏み込むには、きっちりと目を向けて対応しているという理念が必要なのだが、マイナンバー一つとっても、「奨励金」を振る舞って登録を誘導しようとするばかり。健康保険とか、税金の徴収にマイナンバーを用いるという当初の趣旨がどこかへ行ってしまうのは、マイナンバー制度というインフラ整備を商売のように考えているからだ。

 そういう日々の施策が「理念」に裏付けられて施行されていると感じられるような政治家の言葉は、外交と防衛問題でしか現れない。これじゃあ、私たちの暮らしに結びつく社会の暮らしを整えることにどれだけ眼が行っているのかわからないじゃないか。そう感じる心持ちが、政治に愛想を尽かして、わしら知らんもんねえと思う所以だ。

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