古来「始末のはじめは付け木と擦り火」といって、手近にあるものを大切にすることが倹約の第一歩と聞かされてきた。それが身に染みついているのか、断捨離が苦手。要らなくなったものを捨てられない。わが身の不始末を、そう思ってきた。ところが、世の中がとっくにそうした感性を受け容れる仕組みをなくしていると痛感したことがあった。
今年の秋に予定されている給排水管の取り替え工事の下見が行われる。写真も撮るという。「現状のままで良いですよ」と業者はいうが、チェック箇所に物が詰まっていたのでは様子が分かるまいと、片付けておくことにした。一度も使わず物置にしていた第二トイレ、半畳ほどの物入れ、押し入れの下の段、洗面所や台所の下などにおいてある物々を、ひとまず八畳間にブルーシートを敷いて出した。
15年ぶりにお目にかかる山用品もあって、これはもう使うまいと思う物をいくつか捨てることにした。ゴミ処理場に直に持っていけば始末してくれる。車に積んで運ぶ。手続きをして燃えるゴミ、燃えないゴミなどに分けて処理施設の指定箇所に投げ込む。ちょっと心が痛むけど、わが身の現状ではもう使うまいと山スキーの板やストックなどともお別れをした。
ところが、ホワイトガソリンは処理できないという。山で使うストーブの燃料。山用品店で買ったのだったかガソリンスタンドで分けて貰ったのか、2リットルのタンクと、持ち運ぶ燃料ボトルに大分残量がある。何処へ行けば良いのか訊ねる。車検をしている所とかガソリンスタンドとかですかねえと処理施設の係員はいう。
車のディーラーへ持っていく。オイルの処理はしているがホワイトガソリンは処理できないという。応対した係員自身、古いバイクの整備などをしたときに残ったガソリンを始末するときGSに頼んだことがあるが、大量じゃないと引き受けてくれないから仲間と持ち寄って集めてから処理を頼んだ、と丁寧な応対。主要国道沿いのGSへ行く。廃油処理設備はもってないと断られる。もうひとつ、同じ国道沿いのGSでも、とても丁寧な応対をしてはくれたが、始末できないしできるところを知らないと申し訳なさそうにいう。参った。
もう一つ、タイヤ交換やオイル交換をいつもして貰っている所へ行って訊ねてみようと、そちらへ車を向ける。国道を逸れて、それができるまでは主たる道路であった脇道へ入る。と、GSがある。寄って聞いてみようと車を入れる。
ちょっと足の不自由なアラカンのおじさんが給油スタンドへ案内しようとするから、窓を開けて白ガソリンの処理をしてくれないかと話しをする。ああ、ホワイトガソリンね。どれくらい? というので、助手席の足下に置いたふたつの容器を持ち上げて手渡す。2リットル缶にはコールマンの商標も印刷され、子細が表示されている。ああ、良いですよと受けとって向こうへ行こうとする。
「無料ってワケにはいかないでしょ。おいくら?」
「あ、ちょっと聞いてきます」
と、向こうのもう一人に話している。戻ってきて、
「300円頂戴します。でも、領収書には灯油って書きますが、それでいいですね」
と思わぬことを言う。領主書は要らないと300円支払い、礼を言って車を出した。
そうか、灯油の暖房機を使っていた人が、電気のエアコンやコタツに切り替えたときに、余った灯油の始末をする廃油処理には、まだ社会的な需要がある。主要国道のGSではもう灯油も売っていない。だが住宅街の只中にある裏街道のGSでは廃油処理はまだまだ無用ってワケじゃないんだ。そう思って、ちょっと安心した。
あとで考えたこと。ディーラーやGSを回って断られたとき、ホワイトガソリンなんて物を使っている人は社会的にはごくごく少数派。それを溜め込んでいて今ごろ始末してくれと言う人はもうすっかり時代遅れ。社会的に受け容れるところは何処にもないよと宣告さたように感じていた。裏街道のGSが、辛うじて、時代の端境を生きている人たちが立ち寄って救いを求める場所になってるんだ。
始末に負えないのはホワイトガソリンだけじゃなく、倹約が身に染みついた(断捨離ができない)古い世代なんだねと自問自答したというわけ。これって、僻みか?
0 件のコメント:
コメントを投稿