1989年の6月4日の夜、我が家の電話が鳴った。息子からの電話。ヒマラヤの8000m峰遠征の下見から帰ってきた帰国報告かと思った。違った。
「いま北京。天安門に近いホテル。窓のカーテンから覗くな。覗くと危険と(下見隊の誰かから)注意を受けた。外で銃撃しているような音がする」
と声もびびり気味に尖っている。
あれから33年。今日(6/5)の新聞では、恒例となっていた香港の祈念集会も禁じられ、天安門事件を口にすることすら封じられ、マスクに×印を付けた人も連行されて行ってしまったと報じている。中国もそう、ロシアもそう、ミャンマーもそう、アフガンもそう、ベラルーシもそう、エジプトなどもそうした傾向が露出し始めているという。
強権的支配というが、情報メディアがまだ今のように発達していなかった。新聞やラジオやTV放送局という拠点を(経営者や資本を通じて)抑え込めばなんとかなったから、強権で抑え込むという手法を採用しなくても、権力側の意図を貫くことはある程度可能だった。そのせいで、裏技ばかりが潜行し、目立たなかったとも言える。
ところが21世紀。ITが大衆メディアとして広まった。つまり情報も拡散して、個別に発信受信が行われる時代になった。情報統制も手を変えて、何をどう統制するかを明らかに示さなければならなくなった。裏技の恐怖政治は、相変わらず公然の秘密になっている。戦争と呼んだらダメ軍事行動作戦といいなさいと法制化しなくてはならない。拘禁・拘留・罰金などの罰則を持って取り締まる。軍事行動作戦を開始して100日という報道も、人々が「作戦行動の遅れ」を知ることになるから「触れるな」とロシアでは禁令を出したと聞くと、そのうち暮らしの細々したことまで法制化して口出しし始めるんじゃないかと、77年前までの我が国の戦時体制を思い起こしたりする。
嫌な世の中になったものだ。
でも、一体この私の感触は、何と比較しているのだろう?
もちろん私がこれまで過ごしてきた戦後日本の社会的気風だ。押しつけられた憲法のおかげで、自由と平和を満喫して過ごしてきた。かつてソビエト圏にあって、その後西側諸国に加わった東欧諸国の人々も、自由と民主主義の社会に浸ってみれば、そちらの方が良く感じられるから、NATOにも加わり、強権的国家統治から離れていく。それがプーチンにしてみると皆、NATOの拡大戦略にみえる。
統治者目線で言えば、それで平安が保たれるのなら強権的統制で何が悪いというのかも知れない。民主主義を標榜する我が国の為政者だって、ちょうど一年前(2021-06-04)のこのブログ記事《こちらも、「何を説明しろっていうの?」》で書いたが、菅宰相のように常套文句を繰り返すだけで何を説明すれば良いのか分からない人もいる。これなどは、強権的統治感覚剥き出しだと思っていた。たしかに「依らしむべし知らしむべからず」という心持ちの点では似たようなものだが、さすがに中国やロシアのそれに比べたら可愛いものだと、ふり返って思う。因みに、次のように記している。
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先日書いた大坂なおみと逆の立ち位置で、「何を説明しろっていうの?」と思っている人がいる。菅首相だ。もしこの記者会見を見世物・興行だとすると、全仏オープン同様に劇場型である。大坂なおみとの違いは、菅首相は主催者であり、かつプレーヤーだということ。そして多分菅首相も、記者会見で「何を説明しろっていうの?」と思っているに違いない。
とうとう国会の場で、身内であるはずの専門家会議の尾身座長からも「オリンピックを今開催する意義とかを説明する必要がある」とせっつかれた。そして出て来た回答が「平和の祭典」だと。ほとんどジョークのような返答である。
オリンピック実施に関するコロナウィルス対応の彼のワン・パターンの応答は、政府に対する信頼を落とすだけでなく、オリンピックに対する協賛の気分をも損なっていると、メディアは手厳しい。菅首相は、「国民の安全安心を第一として進める」と決まり文句をくり返すばかり。何をどうやって「安全・安心」を担保するのかを説明すればいいのに、それをしないで、ワン・パターンの回答を口にするだけだから、請負仕事をやむなく進める企業幹部のようだと、みている方は口性がない。
だが、そうか。そうではなく、菅首相にとっては、これ以上何を言えばいいのか、わからない。つまり、「安全・安心」にオリンピックを遂行するのを引き受けているわけであるから、それをやりますと言っているのが、何が悪い。子細を聞いて素人である一般大衆に何がわかる。だいたい、これこれをどうやって行くから大丈夫などと細部を説明しても、それがそのまま受け止められるわけでもない。具体的に言えば言うほど、さらに具体的に求められる。泥沼に踏み込むようなものだ。だいたい具体的に言えば言うほど、ものごとはつまらなくみえるものだ。
メディアは、想定問答をしていればいいのだろう。だが政府は、実務のバックアップ部隊だ。具体的なやり方は、諸処の実行部隊に委ねている。全体の統括というのは、漠たるものにみえるだろうが、それはそういうものなんだよ。何を説明しろというのかと、たぶん、不満たらたらであるに違いない。
つまり、菅首相は、いまのオリンピックにかかわる政府の立ち位置を実務型の実行部隊と考えている。記者会見が劇場型のステージだということもわかっていない。ただ単に実務家として引き受けて望んでいるにすぎないから、メディアが何を求めているか理解できないというか、興味本位で突っ込んでくるメディアの関心に付き合うのも、いい加減にしたいと思っているのだ。もう少し視界を広げていえば、菅首相は、その記者会見が自らの「権力」の基盤形成につながっているとは思いもよらないに違いない。民主主義におけるメディアの位置を、政府から伝える一方通行の伝達装置と考えているのかもしれない。情報化社会がどういうものかもわかっていない。
ただひとつ、政府の「バブル方式」に関するメディアの報道に、オモシロイ外野の発言があった。どこかの居酒屋さんが「オリンピックでできるのなら、街の居酒屋にもバブル方式を採用して、営業再開にすればいいのに」と小さい地域割りを想定していると思われる感想をポロリと漏らしていた。
本当にそう思う。「山梨方式」と言われたやり方がこれに近い(と思う)のだが、こういう発言を拾って、小さい地域割りをどう考えるか、バブル方式のバブルの中と外との「安心・安全な」関わり方をどうやるのかとすすめていけば、民主主義的にすすめるコロナウィルス対策として、一気に菅人気は上がるだろうにと、思った。
つまるところ、政府の宰相であるという立ち位置を菅首相は見誤っていると思う。IOCという主催者が中心にいて、その指示に基づいてオリンピックの開催が決せられると考えると、日本政府は、単なる実行部隊の「共助」的な一機関に過ぎない。そのように考えている日本の首相は、いわば戦艦の艦長という下士官、将校はIOCなのだ。そう受けとめているとすると、オリンピックって、喜んで引き受ける筋のものかどうか。何億円もの運動費を使って「お・も・て・な・し」などと言っていたのが、なんともわびしく見える。
これって、今の世界における日本の姿じゃいのか。そう感じられて、やりきれない。
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話が逸れている。元に戻す。戦後日本社会の気風に日本会議の方々は「ゆでガエル」と腹を立てるだろうが、これはこれで角突き合わせて神経を尖らせている暮らしより、遙かに平和な日々。それを過ごしてきた私たちも身にしみて有難く思っている。
最近はやりのスピリチュアルでは『Think CIVILITY「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である』(東洋経済新報社、2020年)という社会啓発本がお奨めのようだが、中を覗いてみると、産業経営としてはその方が儲かるよと言うお話になっていて、平和とは言え、なんだ労働力商品としての生産効率とか利潤に資するということばかり、あまり歓迎したい平和でもない。だがそれはそれとして、本当に曲がりなりにも、民主主義を標榜する自由社会を77年間続けてきたことは、ラッキーであった。
でも一皮剝いて、トランプ流にガチで遣り取りするようになると、大自然に囲まれて自成的な民族性を培ってきたわが日本国民は、とても太刀打ちできない。市井の老人としては、言うまでもなくボーッと生きてる方が性に合ってる。そう感じるから、あまり手を加えて貰いたくないが、バブル崩壊後の世界情勢を見ているとそう言ってもいられない。
ましてウクライナのなりゆきをみると、なんとしても負けられないと思う。
一体何に負けられないのか。強権的統治に負けられない。つまり、33年前の天安門事件に連なる統治的支配センスに負けられない。あまり説明もしているとは思えないし、うまくもないが、まだ今の宰相の方が聞く耳を持つふりをするだけ、好感度が高いってことか。そんないい加減なことを言ってると、足下を掬われるぞっていわれそうだね。
ま、私もいい加減、ちゃらんぽらんだが、この身に刻んだ戦後民主主義の記憶こそ大事にしたい。それ、何かって?
オープン・ポリティクスというかオードリー・タンに倣ってオープン・ガバメントと呼ぶか。民が主体となって協同して社会をつくっていくっていう、方法としての民主主義。素人が意見の違いを、互いに言葉で交わし、試行錯誤しながら最良の施策にたどり着けるよう、「当事者研究」をする。一挙に国政じゃなくてもいい。小さい社会集団でそのような取り組みをはじめて、それを積み重ね緩やかに協同社会をつくり、手直しし、積み重ねていく。そうやって運動的というか、動態的民主主義をつくっていきたいと願っている。
あ、もう時間がない。今日からまた、ちょっと遠方へ出かけてきます。
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