2022年6月13日月曜日

聖書の民と混沌の民

 1年前(2021/6/12)の「言葉というヒトの悪い癖」を読んで記す。

 言葉で切り分けてはじめて「せかい」が起ち上がるというのは、「わたし」からするとわが身の意識的実感である。「聖書」はそれを神が語るかのように(予言者の言葉として)著した。つまり超越的視点をもってわが身を対象化して語っている。「太初(はじめ)に言(ことば)ありき」と呪術的に記すことによって、「わたし」の意識的実感を「神」が語るという詐術的舞台へ惹き込むロジックを用いている。

 それに対してヒンドゥの乳海攪拌は、まずあるものとしての大自然を与件としている。つまり「わたし」の意識が生じたときすでに絶対的大自然の中に置かれている。それを語り出すことはできない(混沌である)として、それを分節化して「せかい」が語り出されてくるという展開である。ヒンドゥには呪術的(論理/ロゴスのねじれる)展開はない。

 この両者の違いが、ヒトが「せかい」に立ち現れる主体性の差異の根源にかかわっている。「聖書」の民は、恒に神の目を持って「わたし」を見る。大自然との関わりも「神が与えたもうた正統性」を出発点とする。だが「混沌」の民は、「混沌」からどれだけ「せかい」を曳きだしたかによるという主体性を立てている。つまり「わたし」の実存の正統性はわが身が言葉によってどれだけ(母体である)「混沌」から「せかい」を取り出すことができたかという「自己責任」を起点とする。

 この両者の主体性には、二つの大きな差異がある。

(1)聖書の民は「神」がすべての根拠。つまりあらゆることに「正」がある。その反照として「邪」もある。したがってヘーゲルのように弁証法という論理を打ち立てなければ、それをかき混ぜることができない。ロゴスが不可欠である。

 だが混沌の民は、正邪がどちらか分からない中動態を起点においている。然るべく自ずからなるという成り行きが(敢えて言えば)「正邪」となる。それは「わたし」がどう感じ受け止めるかによるところまで「主体」が「わたし」にあることを意味する。意識のさらに奥底に感性に起点を置く。ロゴスを必要としない。

(2)聖書の民は従って、自身が自然的存在であることに(「わたし」の実感を根拠に据えるにも)「神」の正邪観念を持ち出さなければならない。それもあって、聖書の民は、自然哲学と神のロゴスとの折り合いをつけるのにずいぶん長い年月を掛けることになり、いまでもその調整に苦しんでいる。それはヒトが「せかい」において特権的に振る舞う地位を捨てようとしない姿を象徴している。

 それと逆に混沌の民は、超越的視点を身の裡に取り込むのに、人生の遠近法的消失点を据える必要があった。宇宙的な視線がそれに代わるところもある。遠近法的消失点は「色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」とみて、ことごとく「空」という視線で受け止めることが「せかい」の真理という。これは(言葉によって生じる)世俗の四苦八苦を超えていく「教え」という程度の軽さで受け止められているが、しかし、「せかい」を大自然に置いてみると「空」であり、すなわち「わたし」はほんのちっぽけな存在、「空」とみることで人間の特権的な立ち位置をマクロの遠近法的消失点において大自然と同化させる。自己否定の視線でもある。

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 上記二つの差異が、もう一つもたらす感性や思索における違いがある。身をどう捉えるかということ。混沌の民は、乳海を攪拌して取り出してくるすべてのものが、身に刻まれて受け継がれているとみている。むろんまだ乳海から取り出されていない「混沌のまま」の未知の世界が遠景に広がっていることも感じている。無明である。

 だが聖書の民は、「神の言葉」に擬した「わがロゴス」に縛られて「世界」を限定してしてきた。だからそこからの離脱に、デカルトやカントやニーチェの跳躍的足場を必要とした。そのときにどれほどの(生命体的)痕跡がわが身に受け継がれているかを話題にするには、ダーウィンやフロイトのロゴスを経由する必要があった。

 前者の「(身に)感じている」ことが、いうならば市井の民においては、広く共有される感覚である。それに対して後者のロゴスは、いうならば少数の知識人の駆使する領域のこと。だから、市井の民の次元、つまり(身の)感性の次元で受け止められる「ロゴス」は聖書の民として身に刻まれ培われた意識。かくして、「ロゴス」は「神の言葉」に置き換えられ、「人間の特権的な地位」が前面に現れ、トランプの煽動に応じて昂奮を高める。市井の聖書の民の自然である。

 ヒトの意識の根柢には、まず世界から感性が受けとる茫漠とした刺激がある。その感性を「わたし」が感じている「せかい」の「かんけい」に位置づける「こころ」の作用があり、それを経過してはじめて、茫漠たる刺激が言葉として取り出され鮮明な意識として浮かび上がる。聖書の民の末裔である欧米の知識人の「ロゴス/理性」は、さらにそれを吟味検証して作り上げられて科学や哲学として言説舞台にのぼる。その「ロゴス/理性」と「こころ」の齟齬を、学問的世界の主流において(世の東西を問わず)知識人はロゴスで語ろうと意を尽くしているが、市井の民は「こころ」のままに受け止めて「わがせかい」として理解している。

 そのとき、聖書の民の(トランプ的)振る舞いと混沌の民の(「空」的)振る舞いとは、決定的に異なってくる。その違いがかたちづくる空間の差異こそが、身を置くに心地よいと「わたし」が感じる大きな違いになっている。

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