2022年6月18日土曜日

国の事業と責任の発端

 昨日の最高裁の福島原発に関する判決は、原発の運用是非の要になるような判断であった。

《対策命じても「防げず」》《津波「想定外」国は免責》《思いもしなかった「国に動かす資格ない》

 と見出しを付けて朝日新聞の論調は、国に責任がないと判断したとして、原発の事故を繰り返さないために闘うという原告側の主張を掲載している。だが、そうか?

 論理的にはむしろ、原発の運用を国が推進することは出来ないという趣旨の判断じゃないのか,と思った。そう私が考える論脈はこうだ。

 もちろん今回の訴訟が11年前のフクシマを問題にしているわけであるから、その発生した事実に関する最高裁の判決である。まず被災者の実情や東電や国の施策。対応を子細に見つめて判断する必要がある。論理的にだけ考えるわけにはいかない。だが私にとっての「原発事故に関する最高裁判決」は、被災者に無情といわれるかも知れないが、今後のというか、今現在の国の原発推進政策に関する「司法の判断」として重要だと思う。

 この両者(3・11のフクシマなのか、現在の原発推進政策なのか)の違いは、過去に設置運用され事故に遭った既定事実としての「原発」なのか、今後も繰り返し推進運用するかを問う違いになる。つまり前者は、設置したことを問うているのではなく、運用している筋道で(国の責任を)考えている。最高裁の判決は、原発自体は他の構築施設と同じ、それ自体が問題を起こしたとはみていない。悪いのは津波、つまり大自然の脅威というわけだ。だが後者は、今後のこととして国は責任がとれるのかと考えた答えと見ている。訴訟の本筋から言えば、前者が今回の最高裁判決である。後者は、それが国の政策に与える「司法の判断」と見ている。その違いをこの新聞は一緒くたにして取り上げている。だが、分けて考えた方が良い。

 つまり後者の立場から考えると、今回の最高裁の判決は、国が原発を推進することはできないと処断したとみる。そんなことを言うと、東電だって責任を免れるのではないか。その通りだ。じゃあ、フクシマはどうしてこれほどの災厄になったのか。同じく津波に襲われた三陸海岸地方と全く違うのは、どうしてなのか。そう考えていくとこれは、別の問題を提出もしている。

 国が「対策を命じていたとしても事故を防ぐことはできなかった」ということは、いわば大自然の脅威に対していつでも備えができるわけではないということである。その言いぶりに私は、そうそうと同感している。大自然の前に私たちは無力だと考えて向き合うのが正しい。予測できないから「大自然の脅威」である。たとえそれが分かっていても、防止できないことがあることは、別に最高裁に言って貰わなくても理解できる。運不運もある。その理路は私の自然観や人間観や社会観と見合っている。

 だが原発は、大自然の脅威ではない。そもそもその出立の時点で、廃棄物の処理が十万年ほど掛けなければできないことがわかっている。ホモ・サピエンスの誕生時点に近い歴史的経過を算入しなければならない。そういう無理筋の人為的な構築物だ。にも拘わらず「安全である」と判断して原発を推進してきたのは、国策であった。

 東日本大震災と大津波が予測できない(あるいは予測できたとしても防止できない)災厄であったというのでは、国政を預けている私たちとしては、えっ? それならそれと最初から言ってよと言わざるを得ない。まして昨今の世界情勢に鑑みると、ロシアが戦争を仕掛けてくるとは思わなかったとか、北朝鮮や中国が原発を攻撃するとは考えもしなかったというのと同じだ。ひと度そういう災厄や攻撃に見舞われたら、その攻撃自体ではなく、それが引き起こす原発損傷自体が取り返しのつかない事態を引き起こす。

 つまり原発は国といえども取り扱える代物ではないよと裁決したのが、今回の最高裁判決だと言える。とすると朝日新聞は、フクシマの被害者に寄り添って「国は原発を扱う資格がない」というのではなく、原発を直ぐに止めろと判断したと(いう趣旨で)報道しても良かったのではないか。などと、訴えた当事者を離れて市井の老爺は思ったのでした。

 でもね。原発は国が取り扱う資格がないと司法が判断しても、ではでは行政も立法もそれに遵いましょうと従うか。司法って、頭が良いだけでその立場にいるんじゃないか、国民の審査も経ないで何を偉そうなことを言ってんだよ、そもそも法律を作ったのは俺たちだよ、それを無視するような判決に従えるわけがない、とふんぞり返る政治家が跋扈する国政である。司法が何と言おうが、関係ないよ。

 そう、長年国政を見てきた庶民は経験則で受け止めている。老爺はそこへも思いを致して、被災した方々を気の毒に思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿