2022年6月10日金曜日

中央権力の揮いどころ

 1年前(2021/6/9)の記事「デジタルの臨界点」を読んで考えたこと。

 上記記事の最後に、デジタル化に適応しないお役所を皮肉って(笑)で締めくくっているが、マイナンバーカードを今年中に普及させるために全力を挙げるという政府の方針を耳にすると、おいおい、大丈夫かよと心配になる。笑っていられない。

 コロナの市中感染を早期発見する方法として厚生労働省が推奨したCOCOAは、アプリが今でも私のスマホに残っているが、一度も作動したことがない。それどころか、このアプリが使えないというメディア情報は目にしたことがあるが、それがなぜか、その後どうしたのかを政府も、マス・メディアを通しても聞いたことがない。だから勝手に私は推測しているが、政府首脳はデジタル庁をつくったり、掛け声を掛ければ全国がたちまちデジタル化するとでも思っているような「中央集権感覚」がある。たぶん明治維新の頃の中央政府の感覚と大差ないのかも知れない。

 だが、依らしむべし知らしむべからずセンスの中央集権感覚は、私たち庶民の間では第二次大戦でほぼ完全に崩壊した。中央政府を信用しなくなった。じゃあ地方は自律したか。そうはいかなかった。まず財源がない。GHQを経由した援助や経済の立て直しも、すべて中央政府を経由してであったから、中央政府がセンスをあらためない限り、地方の自律は口先だけになった。今でも厚生労働省ばかりか中央政府の省庁は(総務省も含めて)、行政基準はことごとく中央が示してやらなければならないと考えているかのごとく、地方行政のひとり歩きを制約している。まるで中央政府の「利権」を守る如くに、地方を縛り付ける。たとえば、感染拡大の日々の情報をFAXで送信しろという「文書主義」が法や省令によることであったと、これまたコロナを機縁に明らかになったではないか。つまり、中央政府が地方の自律を邪魔していることに気づかない限り、「中央集権感覚」は改善されない。

 デジタル化という文化的な改変はは、アナログ文化を総ざらいするように洗い直してはじめて、システムの改変を達成することへ向かう。それなのに、一つ一つ行政組織の「断片」に対して「命令」を行って換えていこうとするのは、その進行がまだら模様になるばかりか、ちぐはぐして「断片」部分で齟齬を来す。手間暇が余計にかかるようになる。その結果、人々は「何やってんだ、役人たちは」と不信を募らせ、政府の大号令に従わなくなる。

 明治維新後は、しかし、江戸時代の中央と地方、地方政府(藩)と各地集落との関係を、一挙に中央に集中しようという過程であった。つまり江戸時代の法が、地方自治感覚がそれなりにあった。それは地方のことは地方で決めるセンスだから、維新後は力で以て「中央集権感覚」を整えらる必要があった。

 ところが戦後、GHQの指示で「地方自治」が導入された。敗戦を承知で戦争に突入した中央政府への不審が最大値に達していたわけだから、そのときこそ、地方自治へ切り替える好機であったのに、「中央集権感覚」が抜け出そうとしない中央政府は、総務省を設置して地方自治のふりをしただけ。「指令は中央、責任は地方」というのが(市井から見た)「地方自治感覚」であった。

 ひとつ岡目八目でいうと、「教育の自治・自律」だけが辛うじて地方自治的に遂行された。だから戦後の「教育改革」で、後期中等教育(高校)のアメリカ風小学区制を採用した県と相変わらず旧制中学感覚で立て直した県とが西と東で大きく分かれる結果にもなった。

 話しを元に戻す。全国の行政を(中央・地方をまとめて)デジタル化することは、中央集権政府が唯一強権的に実施しようとしたら、容易にできることである。財源さえ保障すれば、地方も同調することは目に見えている。ところが、それができない。権力をふるうって、こういう場合にすることだろうに。省庁の蛸壺型自立が邪魔をしているのかも知れないが、だとしたら、デジタル庁をつくっても、それは腰砕けになる。その実現もできないで、マイナンバーだけを今年中に普及させるって、一体中央政府は何を考えてるんだ。

 自分の姿が見えていないってことが、最大の瑕疵だと思う。安部・菅政権のときもそうであった。岸田政権は「検討したい」と耳を傾けるリップサービスばかり。これでは「中央集権感覚」の体質を保持している省庁の「我が儘状態」はかわらない。マイナンバーっていうより、マイメンバーをしっかりと掌握して、ふるうべきところで政治権力を揮いなさいよと(笑)抜きで、思う。

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