一昨日、訣れの言葉を発したTさんからメールが来た。その文面が、昨日の話に続いていた。
《Fさん …(前略)…お遍路をされて、「人間とは」、「社会とは」という問いに、足下にあるじゃないかと気づかれたとのこと、成程と了解しました。…(中略)…K氏から「悟りとは」問いが発せられ私が受けてしまったのは失敗でした。貴方が加勢してくれましたが私の考えは理解してもらえなかったです。悟りなんて簡単に得られるものでなく、理論的に答えの出るようなものでないと私は思っています。……道元は正法眼蔵で「仏道を習うとは自己を習うなり。自己を習うとは自己を忘るるなり。自己を忘るるとは万法に証されるなり。万法に証されるとは自己の心身及び他己の身心をして脱落せしむるなり。」と説き、自己を忘れるためには「只管打坐」。坐禅をすすめています(普勧坐禅議)。/ちょっと坐禅をかじった位の私が議論し回答が出せるような問題ではありませんが、お話したことは浅薄な私の理解です。またいつかお目に掛かりましょう。T》
KとTの「悟り」を巡る遣り取りは、普遍と特殊を巡ってマクロ世界をみてきた人とミクロ世界の住人とが遣り取りをするように、見事にすれ違っていた。私は(これまでも書いてきたように)、ミクロの世界の住人として「悟り」を語るTに加勢したというわけ。
Kは経済学を専門として大学教授を務め、すっかり仕上がった人。Tが語るミクロの視点からの「悟り」に、そんなこと誰にでも通じるように言えるのかよと普遍を語った。「神は細部に宿る」というように、語る人の見ている立場で「普遍・真理」の現れ方は違うから、自分が何処に身を置いて喋っているのかを明らかにしないで「ちがう」というのは、遣り取りになっていないと、私は加勢した次第。だが、通じなかった。
Kの語る「普遍」は、1960年代に大学で学んだ欧米流のそれ。サルトルの実存主義などがよく読まれ、ノーマン・メイラーも言の葉に上っていたように、その「普遍」さえもすでに変わり始めていた時代である。
私の属していたサークルがそういう社会の文化潮流に関心を持っていたから、私もいつしらず文化状況を論じたりするようになったが、Kがそういう領域に関心をもっていたようにはみえない。経済学の方からいえば、Kも学んでいた宇野経済学の方法論で当時、武谷三男が「三段階論」を論じていたし、宇野自身も「科学的方法とイデオロギーの関係」としてきっちりと扱っていたから、そちらからアプローチしていけば、哲学的な領野も視界に入ったであろう。だが経済学の本題に入ると哲学的な方法論は傍らに置かれ、「普遍概念」だけが価値的にみえてしまう。Kもそういう道を歩いたのであろう。彼の口から繰り出される神の語る普遍世界の言葉は、自らの立ち位置から紡ぐTの「真理」を組み込むことができない。
だが自らの実際的有り様と社会の移ろいをみてきたTには、ミクロの視線は外せない。Tにしてもメールの後半がそうであるように、仏の目に映る「普遍/万法」へ至ろうとしている。座禅の「只管打坐」は方法論である。つまり普遍そのものではなく、身を置く地点から普遍に至る道筋を具体的に提示している。Tの誠実さは、己の立ち位置を見極めて己に対処する、その姿勢にある。Kは「普遍」を実体的に考えているように感じる。Tは、方法的にとらえようとしているがために、関係的に普遍をとらえる視座を得ているように思った。
ともあれ、昨日の記事で私は、Tの見切りを「永訣」と受けとったが、「またいつかお目にかかりましょう」という言葉が、まだちょっと余地を残していると思えて、嬉しくなっている。
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