昨日は月例のご近所さんとの飲み会。近くの公民館で「男のストレッチ」という講座をしている人たちの6人ほどが集まっておしゃべりをする。夕方5時頃から2時間程度だが、珍しく昨日は二次会へ繰り出し、9時頃のご帰還。何を喋ったかはほとんど覚えていない。
いつも飲み過ぎて翌朝は内臓不調に苦しむ。先月がそうだった。昨日は少し自制したせいか、今朝は4時半くらいに目を覚まし、小部屋で新聞を読む。
そうだ、先々月は「お遍路」に出ていたので、私は参加していなかった。先月はその「報告会」だねといわれたが、話すのはメンドクサイので、このブログにアップした「ぶらり遍路の旅ご報告」を印刷してご笑覧下さいと済ませた。話しはいつものようにポンポン跳んで何を話したか、何を聞いたかも忘れてしまったが、こうやって飲むと必ず飲み過ぎる。ま、昔のように二日酔いになるほどは飲めなくなっているから、たいしたことではないが、アルコールを分解する能力も衰えているから、身の裡の不調が午前中一杯続いたりした。
一つ思い出した。誰かが「何をそんなに書くことがあるの?」と私に問い、「ま、クセですね。書くおしゃべりですよ」とは言ったものの、でもなぜ書いてんだろうと自問自答が身の裡で続いていた。そして、口にはしなかったが、ぷかりと一つの応えが浮かんでいたんだった。「当事者研究」だ、と。
ウクライナ戦争のことを考えるのは、「お前はどういう当事者なんだ?」と問われているように感じるからだ。TVでミャンマーのことを忘れないでと誰かが訴えると、そうだね、どうしてウクライナにはこんなにビビッドに反応するのにミャンマーにはなぜそうしないのかと、わが身への疑問が湧く。少子化問題で日本は移民を受け容れないのはなぜかと書いた本を読むと、外国人をガイジンと見ていた自分を浮き彫りにしてわが身の裡へ潜り込んでいく。この歳になってもまだ、わが身の裡がわからない。
目にし耳にするデキゴトをわが身への問いにする。そしてそれに応えようとする。それ自体が、そのモンダイを社会化することであり、同時に「わたし」を当事者にすることになる。どこに立って、なぜそう感じるのか、なぜそう考えるのか。その根拠は何にあるのか。コギトじゃないが、そうやって「思っている」ことがわが身の実存を確かめることになるからか? まさか、とデカルトさんの帽子を被った顔を思い浮かべて、自答している。それが面白いと感じる。
この世の当事者としての「わたし」を、何につけ位置づけたい。どうして? わからない。わからないが、この「せかい」からみるとゴミどころか虫けらにも値しない「わたし」が、当事者として位置付く地平こそ、「わたし」が主体として自律できるところだという感触がある。
自律してどうしようっていうの? わからない。わからないが、そういう衝動は身の裡から湧き起こってきている。こういうのをカントさんは定言命令って言ったんではないか。そうだ、こういう定言命令がわが身に湧き起こってくるってことは、それなりに何か、社会的由来がある(はずだ)。まずそれを事実として承認すること。そうして、その社会的由来を探求してみること、それが「当事者研究」ってワケだ。後期高齢者というよりも末期高齢者になってやっと、世界のどんな事象に巡り逢っても「当事者」といえる立場をみつけることができる。良いも悪いもない。そういう事実から出発しよう。
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