ご近所の「男のストレッチ」世話役の一人であるMさんから三ヶ月先の会場確保の知らせがメールできた。ついでに「愚痴」もこぼしている。
《こんにちは。ウクライナ紛争は4ヶ月目となり、ここへ来て東部でやや押されています。アメリカは何をやっとるか😤/また、ロシアがマリウポリ港の機雷を片付けて何をしてるかと思ったら、なんとアゾフスターリ製鉄所の鉄鋼製品を盗み出していました。アメリカは何をやっとるか😤/暑くなりますが、ストレッチ頑張りましょう! M》
それに対するメンバーの一人からの返信。
《Mさん、会場の確保ありがとう。/ところで、Mさんのアメリカに対する、憤慨の気持ちは良く分かります。そもそもロシアのウクライナ侵攻の企みをアメリカが一早く事前に察知した時に、バイデンが強く牽制球を投げていればロシアも侵攻を止めていた可能性があったと思われ残念です。アメリカも力が落ちていることを感じます。日米同盟で、日本は大丈夫か心配になりますね。 K》
アメリカに向けたMさんの「愚痴」が、わが胸にちょっとした波紋に感じられるのは、なぜか? それがKさんの返信にこれまたちょっと垣間見えたように思いました。
後付けになりますが「バイデンが強く牽制球を投げていればロシアも侵攻を止めていた可能性があった」と私も思います。だが同時に「第三次世界大戦になった可能性もあった」と、口にはしないがKさんの裏思索は言っていることも感じているのです。どちらの「可能性」になったかは、プーチンの妄想具合によります。
アメリカもあらゆるインテリジェンスを動員して策定してきたであろうと、ティム・ワイナー『CIA秘録(上)(下)』(文藝春秋、2008年)とか、スティーブ・コール『アフガン諜報戦争(上)(下)』(白水社、2011年)を思い浮かべています。いかなる手練手管を使って国際政治の情報を集め、それを用いてアメリカの意図をどう国際関係に具体化していくか。その手管の子細が、まるで映画を見るフィクションのように描き出されているドキュメンタリーです。
ウクライナ侵攻がはじまる直前、アメリカがロシアが戦争を始めようとしているとき、これまでになく収集したインテリジェンスを公表したのは、瀬戸際の「牽制」であったと後に識りました。ロシアの侵攻が報じられた瞬間私は、第三次世界大戦になると思いました。それが現在、ウクライナ一国の悲惨にとどめられているのは、(このせいばかりではありませんが)「バイデンの牽制球」が適当であったからかも知れないと、一知半解、門前の小僧がわが身の感触を想っています。
バイデンがウクライナ戦争が始まるかも知れないと識ったときの初発の「戸惑い」に私は共感できるような感触を持っています。同じ歳だからというワケではありません。でも、同じ時代の国際関係を別々の場所と環境からではあるが、ちょっと似た世代的共通性をもってみてきたという感触があるのです。バイデンと私を繋いでいるのは、「日本国憲法」という第二次世界大戦(WWⅡ)が残した人類史的遺産の理念です。バイデンがどういう戦後教育を受けてきたかはよく知りませんが、でもWWⅡという馬鹿げた戦争をしでかした人類の反省を理念として吸収しながら、彼はアメリカの戦後の空気を吸って育って来たにちがいありません。それは私が「日本国憲法」の理念を理想型として(批判的に)戦後の政治過程を見てきたのと相似形の、何か奥深いところの「世界の見方」を持っているのではないかと感じるからです。
オバマやトランプに照らしてみると、ちょっと控え目にみえる語り口は、一つ一つの「正義」の確かさを身の裡に問いかけて吟味しながら繰り出しているように見えます。その逡巡がわが身の裡の感覚に響いて好ましく思っているのかもしれません。
Kさんのいう「もっと強く牽制球を投げていれば」と思うからこそ、今回QUADの記者会見で台湾侵攻のときには軍事介入すると(バイデンは)言ったのだと、私はナイーブに受け止めています。プーチンが「核兵器を使う用意がある」とアメリカを牽制したときには、あえてその牽制を受けとめた。だがまだ「核兵器を使う」とも口にしてない中国が台湾に軍事的に侵攻するときには「アメリカも軍事的に対応する」と早々と口にすることで、ウクライナの二の舞を演じないという態度を示したのだと、門前の小僧が胸中に抱く感懐をそのままアメリカの大統領が持っているかのように感じているのです。
いやじつはもっと、バイデンもアメリカ政府当局者も、いまだからこそ、WWⅡへの人類史的反省を口にして、ウクライナ戦争の悲惨を語るべきだと思っています。ロシアのウクライナで行っている所業は、どこからみても、戦争事態が犯罪だと教えるものだと思います。ただ単に一般市民を殺害するということだけではなく、暮らしや文化の破壊です。アゾフスターリ製鉄所の鉄鋼製品の略奪は、ロシアによる強奪です。WWⅡが「自由と民主主義と平和」のための戦いであったと、理念的に語っていたのが政治家たちだったにしても、市井の民は、それこそが守り掲げられなければならない「反省」だったと受け止めて育ってきたのです。ヒラリー・クリントンが口舌の輩であったとアメリカの庶民から処断されたとしても、それと一緒にWWⅡの人類史的反省が葬られて良いわけがありません。そこが押さえられていてこそ、ウクライナのモンダイは、香港のモンダイであり、ウィグル族のモンダイであり、チベットのモンダイであり、ミャンマーのモンダイであり、イランやシリアのモンダイであり、台湾のモンダイなのです。
WWⅡの反省は、国家の安全よりも社会の安定保障が優先され、人が人として暮らしていくことが最優先事項となるべきだと、国際的な共通認識にしようとしたことでした。戦勝国の寄り合いとして出立した国際連合も、それを理念として掲げ、安全保障だけでなく、UNESCO、WHO、WFPなどの活動を軸に置いてきました。
21世紀の、ことにトランプ出現以降の選挙においては#me-firstが剥き出しで前面に出て、WWⅡの反省である人類史的理念が(現実の社会生活とかけ離れてしまったために「人権」や「平和」が空虚に響いて)人々の信頼を失ってしまっていますが、ウクライナ戦争の悲惨を語るときに、それをこそ手放してはならないことだと、いまこそ力説するときではないかと強く思います。
ま、そうは言っても政治家。そんな真っ正直に世界は渡れないというでしょうが。
本当にそう言えるかどうかは、第二次大戦後の国際関係を総覧して考えてみなければなりませんが、それはまた、別の機会においおい考えていきます。
0 件のコメント:
コメントを投稿