姪っ子がコロンビアで暮らしている。ご亭主の仕事に付き合って,子どもたちも連れて海外生活を長年続けてきた。姪の父親である兄に先日会ったとき話を聞くと、ご亭主は自分で車を運転するのは御法度。街でタクシーを拾うのもダメ。出勤も、会社指定のハイヤーを使う。誘拐とか強盗を心配しているのか。政情不安というが、ただ単に政治世界の落ちつかなさと社会の不安定は比例するわけではないが、日常的に誘拐や強盗に用心するということになると、自分たちの生活圏を現地の人達と切り離すようにしなければならない。姪やその子どもたちは、日頃の買い物や学校をどうしているんだろう。
今月の7日の新聞に「コロンビア治安悪化深刻」と見出しを付けた記事が出た。大統領選を前にゲリラ組織と停戦協定を結んだが、それに反発するゲリラが武装闘争を続けていて、治安が不安定になっているという。
「そちらも一つのウクライナですね」と姪にメールを送った。それに対する返信。
《ご無沙汰しています。コロンビアの記事が出るのは珍しいですね。恐らく一回目の大統領選があったからかと思います。選挙前になると,左派というゲリラというか、どういう政治思想なのかはっきりしませんが、そういう立場の人がよく爆弾を設置したと表明して,存在感を出す行動を取っています。でも、ほとんどが偽情報で、実際に爆弾が見つかることは稀です。警察官も通常の何倍もパトロールに出ているので、生活は全く通常通りです。
明後日、日曜日が決選投票で、恐らく左派が負けるといわれていて、その後治安がどうなるかは全く分かりません。元ゲリラの超左派の候補が決選投票に残るのは,十何年ぶりらしく、結果に納得いかない人も出てくるかも知れないですね。
ここは来週から子供達は長い夏休みなので、のんびり過ごす予定です。日本は間もなく夏ですね。今年の夏も暑くなりそうですし、どうぞお身体に気をつけて》
端から見ているよりも、ノンビリと世相を観ている感触にちょっと安心した。お隣のベネズエラもマフィアが跋扈し、国内がずいぶん荒れ、政府による治安維持そのものができなくなっているとも聞いた。(政治レベルで)停戦協定が結ばれてもそれに納得しない分派が独自に武装闘争をつづけるのを「ウクライナと同じ」と感じたわけだ。だが姪っ子の返信の感触は、ずいぶんそれとは違う。そのズレは何か。
つまり遠く離れたアジアでみている世情と現地に身を置いて感じている世情とでは、格段の違いがあるのか。それとも、政治空間と社会空間のあしらい方が、コロンビアと日本とで違うのか。それとも新聞やTVメディアの(取材者と編集者の)力点の置き方に違いがあって、受け止める方にも胸中のざわつきが異なるのだろうか。あるいはまた、何かのドキュメンタリーか小説で読んだように、コロンビアで暮らしの身を置く階層の違いがあって、日本企業から派遣された人たちの住まう地域が、全く平穏なだけなのだろうか。それら諸々がかかわりあって、私の感触と姪っ子の感触とに違いが生じているのだろうか。
一つ気になっているのは、いつであったか私たち同世代が集まるseminarで「日本にやって来る中国人が(街中で)煩い」と愚痴る話が出たことがあった。私も、90年代であるが、中国を旅行したときに、人を押しのけてバスに乗ろうとする人たちに嫌悪感を抱き、あるいは朝の通勤ラッシュどきの彼らの歩き方の勢いに気圧されて、若い国だと感じたことを想い出した。それと同時に、私たちが若い頃に中国古典文化に抱いていた憧憬に近い敬意は何に由来していたのだろうと対比して(私のなかの中国像を)考えたことがあった。傍らにいた、大手総合商社で世界を股に掛けて仕事をしたseminarメンバーの一人が、「具体的に接したから嫌いになったんだよ」とさっと切って捨てた言葉が、棘のように心に引っかかっている。
現地に住まうことでいっそう親密になったり嫌いになったりすることは、よくある話し。それがしかし政治情勢と結びついてくると、「政情不安」とか「治安悪化深刻」というふうに概括される。知らない遠方の国だと余計に(わが身の裡の)「概括」が大雑把になる。その落差は、「我がこととしてとらえる」受信感度に変化をもたらす。コロンビアのことだって、姪っ子がいるからこそ私の受信機が受け止めた。ベネズエラも、姪っ子の連れ合いの仕事のカーバ範囲だと聞いていたから,辛うじて記憶にとどまっている。この、何とも固有性にこだわる受信機の性能は、いつかアフリカで研究していた日本人文化人類学者が、「言葉によるコミュニケーションは4割、後は身振り手振り」といっていたことを思い出させる。つまり、言葉による伝達以外に、その場に身を置くことによって空間が身に伝えてくる様々な情報が相まって、その土地や人のことは受け止められているのだ、と。
もしジャーナリストなら、現場を踏めというのと同じ。現地・現場に行って感じることをしないで、何が取材よといっているようなことだ。「空間が身に伝えてくる様々な情報」って何か。それをきっちりと言葉で表すことはできない。だが、間違いなくそこに身を置くことによって感じ取れることが、ある。言葉で伝えられたり、映像で観たりする以上の何かが、ひたひたと感じられる。その身が刻んだ空間の痕跡が、起こるモノゴトを価値づけてみるときに(観ている自分の何かを織り交ぜて)皮膚感覚で感じ取っている何かが大事なのではないか。まず何より、そう思って物事を見ることが大切だと思った。
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