2022年7月31日日曜日

装い――元宰相は二度殺される

 旧統一教会と政治家との関係が次々とあからさまになっている。メディアも、ご本家韓国の統一教会本部の幹部やアメリカの元幹部にインタビューして、どういう活動をしているか情報を拾っている。日本と違いアメリカでは、あからさまなロビー活動が社会的に不通であるから、元幹部もおおっぴらに「宗教活動というより政治活動ですよ」とわだかまりなく喋る。

 日本も、自民党の政治家の発言を聞いていると同じじゃないかと思わないでもない。だがなぜかお役所に求めた文書の肝心なところは黒塗りになっている。肝心なところというのは、旧統一教会が名称変更をして宗教団体として届け出たのを文科省が受け付け承認した理由の欄だ。ときの文科大臣が現在の阿部派の重鎮というから、その人物に聞けばいいようなものだ。が、その方は文科省の担当課長だか部長だかが決済したものを承認しただけと知らぬ顔の半兵衛を決めこんでいるというから、まるで責任感覚がない。

 いやそれ以上に、議員たちも、旧統一教会に応援してもらって何が悪いのか分からないと、蛙の顔に**の態。あるいは現防衛大臣となると、反社会的団体と知ってはいたが、選挙応援をしてくれるのは(断るかどうかも)そのときどきに考えたいと保留すると言明している。元首相が銃撃されたのは全く不運な流れ弾、容疑者の銃撃理由は関係ない、そのワケを知ろうともしていないと読める。

 これはなんだ?

 まるで安倍銃撃の謀略真犯人がケネディ銃撃のとき同様、真犯人を隠そうとしているかのように振る舞っている。私は陰謀論を担ぐ者ではないから、まさかねと思っているが、自民党のこの人たちが「国葬」というのは、安倍銃撃を全部隠蔽しようとする総仕上げのようにもみえなくはない。「元宰相は二度殺される」というドラマのようだね。

 メディアによるのかもしれないが、旧統一教会と安倍元首相との関係も、だんだん明らかになっている。銃撃容疑者が「誤解」するのも致し方ないような宣伝塔になっていたではないか。しかもこの人の祖父の関わりから辿ってみると、アメリカでの活動や(統一教会の教祖が脱税容疑で逮捕されたときの)保釈などにも(レーガン大統領へ手紙を書くなど)随分と肩入れしてきたことが報道されている(TBS・TV)。流れ弾センスを笑うように銃撃容疑者は、さほど的はずれではなかったようにさえみえてくる。

 公明党にも維新の会にも立憲民主党にも旧統一教会と関わりのあった議員がいたと報道が続くと、各党各様の応対をするから、それぞれがその「関わり」をどうとらえているか浮き彫りになる。いくぶんかでも銃撃事件と元宰相と旧統一教会がかかわりがある感じている党は神妙だが、一つの宗教集団が選挙応援をしたり政治資金を提供してくれたりするのを断る理由がないと受け止めている気配が濃い。根っこはすべて、名称変更によって再スタートしたことで精算され、かつての反社会的活動は霧消したと考えているのだろう。

 これまで日本の場合、宗教団体と政治集団の関係が棲み分けるように位置することと思われてきた。戦前の国家神道が軍国主義の神髄になったという見立てから、占領軍によって戦後、政治と宗教が分離された結果であった。だが実際展開に於いて分離なんて出来るはずがないと考えていた政治家たちは、その繋がりを地下に潜らせた。そうして、秘め事にしてしまったのである。それもしかし、徐々に装いだけとなった。創価学会と公明党という不可分の関係でさえ、あたかも別集団であるかのように装いさえすれば、問題にするにたらないとなってきた。装いはシースルーになっているが、微妙な関わりはあたかも秘事のようにみなされて、外からは触れないように扱われる。

 政治家は「ただの宗教団体が党全体を左右できるはずがない」と言い切る。そりゃそうだろう。どんな利益団体もそれが党全体を左右するようになれば、単なる利益団体ではなく母体となる。ホンネとタテマエとアカデミズム用語では分けているが、そこはそれ渾然一体となって水心あれば魚心と双方が阿吽の呼吸でやりとりする。それがほらっ、「和の精神」ってものよ。宗教団体の方も、いろんな思惑を持って政治権力に取り入り、便宜を図ることを策する。ところがアメリカのインタビューに答えていた統一教会元幹部は、「政権を動かそうとしていた」と率直に話している。ホンネもタテマエもない。mind of people ってワケだ。

 日本の場合、装いがシースルーになってちょっと恥ずかしいかなという風情があったのに、多くの政治家にはトランプ後のいまや、それすらない。何が悪いか分からないと仰る政治家もいて、宗教団体が集金活動をするのは当然、自分の暮らしが立ちゆかないほど寄付をするという方がオカシイといわんばかりである。

 この問題がスッキリしないのは、アメリカとの違いを考えてみると分かってくる。日本では(選挙権が18歳からになったにもかかわらず)高校生の政治活動を禁じている。文科省が、小中高生が現実政治に触れるのは早すぎると父権主義的に考えているのは、彼らの考える民主政治というものが、そこに暮らす住民の(何をベターと考えるかという)セッションを通じて形成的に行われることだと考えていないからだ。住民に為政者が与えることを民主主義と考えている限り、人々はいつまで建っても主権者にはならないし、なれない。良いか悪いかは別として、アメリカのティー・パーティから始まる予備選の運びや高校生が現実選挙のボランティアとして参加するという「参加の志」は、それこそ統治形態としてはいろんなモンダイを含んでいるけれども、自分たちが主権者であるという幻想の基点をなすものである。

 その運び自体が民意の形成であり、その施策が右往左往することがあっても、よりベターな「公」の有り様を求めて、試行錯誤を繰り返す。民主主義の完成形態なんてものは、ない。つねにつねにどこまでもどこまでも言葉を交わし、具体施策に結実させ、そしてまた修正を施してゆく。その運び(ムーブメント)が、民主主義だと考えるようになれば、小中高生であろうが、選挙権を持とうが持つまいが、この地に暮らす者としての振る舞い方があろうというものである。

 今の大人の考えている父権主義的国家権力や政治権力を大きく変えていくようなところから、手を付けなければならない。大風呂敷を広げた国の政治も、足下の具体的なモンダイへの取り組みも、一つひとつが丁寧に取り組まれていかなければ、民主主義という政治制度は、ちっとも現実過程の問題にならないのである。

2022年7月30日土曜日

身体を毀傷せざるは

 指の包帯がとれたばかりか、出来るだけ(かつての)日常動作をすることがリハビリだと思って、痛みが走らない程度にそろそろと習慣を取り戻そうとしている。

 昨日は、心臓エコーの検査をする予約日だったから、バスでなく自転車に乗った。ところが、左手でハンドルを摑むことが出来ない。辛うじて(痺れていない)親指と中指でハンドルを摘まむだけ。むろん力は入らない。畳の上で片足立ちをして、指を軽く椅子に置くだけでバランスがとれるが、そのときの指の働き程度しか出来ないことが分かった。

 ところが、自転車というのは、両手のしっかり摑む力があってはじめて乗るところから降りるところまで出来るんだね。乗り降りを片手でやるのはまことに難しい。広い道路を渡ろうとしたとき、ずうっと向こうから車がやってくるのが見えた。やり過ごそうと止まったら、そのまま左へ倒れかかってしまった。片足は付いていたから自転車だけが倒れ、体は傾いただけで済んだ。彼の車は横断歩道の手前で止まって私が通り過ぎるのを待っている。いやはや、年寄りが自転車にも乗るのも危なっかしいねと思っているだろうな。そう思いつつ頭を下げ、押してわたった。病院までは約5キロ。ほとんど静かな住宅街を抜ける道だから、車に出遭う気遣いはそれほどない。部活の中学生がぞろぞろと固まって歩くのが、ちょっと面倒だったな。

 心臓エコーの検査のとき半袖シャツを着脱するのに、ボタンを外す付けるのに、時間がかかる。検査技師にそう告げると、「いいですよ急がなくて」と年寄りのあしらいを心得ている。いつもの診察なら(予約時間に行っても)1時間は待たされる大病院なのに、検査だけのせいか、予約時間前に行ったら直ぐに呼び出され検査が始まり、30分ほどで終わった。検査結果はまた10日ほど後に予約がある。

 暑い日差しの中を帰ってきたが、夕方になって珍しく腰が怪しくなった。いつもなら山に行くときとか車を長時間運転するときだけ着ける腰痛ベルトを山用具から取り出して、付けている。今朝起きてからも怪しさは変わらない。これも自転車に乗ったせいだろうか。

 身体毀傷せざるは幸のはじめなりと思ってきたのに、ひともすなる手術なるものをわれもしてみんとてしたのが、祟っているのか。習慣性の日常から離脱するのが価値ある振る舞いと昨日言ったばかりなのに、もうそんな弱音を吐いて、波風立たない日常習慣を懐かしがっているなんて、なんとだらしないという声も聞こえる一方で、歳を考えろよ歳をと身が呟いている。

2022年7月29日金曜日

身に刻む習慣性の習い

 昨日(9/28)、手術してから2週間の診察をしてもらった。術後、一度包帯を取り換えるとき、傷を目にしたことはあったが、手の平に大きな傷口が何本かあったという印象であった。包帯でぐるぐる巻きにしているから、左手の動きは良くない。人差し指、薬指と小指が痺れている。いや、これを痺れというのだろうと思っている。なにか透明なセルロースを指に被せているような感触。ヒリヒリしている。そうだ去年、山の事故で両の手を打撲したとき、何ヶ月かの間ヒリヒリが続いた。整形外科医はそれを頸椎変形による頸髄損傷で神経が傷んでいると言っていたが、あれと同じだ水が当たっても痛みが走る。

 今日は左手の平の糸を抜いた。すっかり手の平の包帯を取ってしまったから、傷口がはっきりみえる。手の平の根元、手首に近い当たりから手の平の中程にかけて真っ直ぐに傷は入り、そこから小指の第1関節に向けて稲妻状に6本の切り後が続いている。その各所に傷口を縫ったあとが何本も入っている。医師は私を寝かせて抜糸したから抜くところを目にすることが出来なかったが、何度もピンセットのようなもので摘まんで抜き取る作業が、ゆっくりと繰り返される。その都度痛かったりツーッと軽い感触が走りすぎるように思った。取った糸を傍らのガーゼに擦り付けていたのをみせながら医師は、30針は縫ってますねとにこやかにいう。手の平は、包帯を巻いていたときと同様、傷をかばうように少し内向きになっている。まるで手に平に軽く何かを持っているかのような感触がする。医師は小指をぐっと伸ばす。痛い。「痛い」というと、ふむと頷く。人指し指を摑んで伸ばす。指は内側へ向いたままだから本当に痛い。「うっ、いてて」と我慢したあげくに声を上げる。今度は第1関節、第二関節と曲げて手の平に付けようとする。これは痛い。本当に痛い。

「引き攣る繊維を取りましたからね。でも繊維に合わせて皮膚も関節も曲がったままにしておくと、曲がったままになりますから痛いでしょうが、伸ばしてください」

 と、曲げる&伸ばすを、5秒ずつ,5分ほど、1日3回。出来ますかね? と最後は私に問う。

「できます、いや、やります」

 と部活の高校生のように応える。

 水で洗っても良いといいながら、片隅の洗面台に案内し、石鹸を付けてくれる。これは驚きであった。抜糸した後の引き攣る手の平が縮こまるような気配だったが、泡立つ石鹸が水に流され、擦る右手の柔らかい感触が、解放感を伴ってくる。やっと、包帯を取ったという気分が身に広がる。

 夜寝るときだけ小指に付けるギブスを作り、包帯を巻いて家へ帰った。巻き方などを、カミサンに伝えるためと、ギブスが包帯を解くまでの間に固まってギブスに成形されるという芸当。なるほどと感心している私は、昭和世代であったってコトか。

 こうして帰宅した。だが、リハビリの指の屈伸は、痛みが走ってなかなか上手くいかない。だがこれも、習慣性の身の習い。ゆっくり、少しずつ、繰り返し身に刻むしかないと思って、1日3回の食事の後にTVを見ながらやってはいる。だが、こういうのが私は、一番苦手だったんだとわが身の若い頃からの習癖を知ることになっている。でもそれに遵っていたら、左手は,曲がったまんまになる。身に心地よいことが身に良いことではないのだと、あらためて思っている。

2022年7月28日木曜日

社会の体幹が旧弊旧習

 今日(7/28)の朝日新聞に林香里(東大教授)というメディア論の専門家が《(メディアが読者大衆の)思考枠組みの議題提起役割》を持っていると話を始め、末尾の方で《日本の新聞社は横並びで(阿部銃撃事件に際しても)同じ見出しを付け、「宗教法人」についても匿名扱いも同じだった》という趣旨の記述をしている。

 市井の老人の私は各紙に目を通すわけではないから気が付かなかったが、とっくに新聞というのは、「人それぞれ」「多様性の世の中」「同調圧力は良くない」と同一性に対して批判的なのだとばかり思っていた。違うんだ。そうか、そう言われてみれば、大手メディアの「記者クラブ」の専横とかいうことが、十数年前の民主党政権の発足時に取り沙汰されていたな。変わらないんだ、この人たちは。というか、資本家社会の情報化時代の社会構造が変わっていないから、こういう大きな社会的なメカニズムは変わらないのかもしれない。相変わらずバブル時代の経済センスで為政者は動いているようだし、林香里が評論した「旧統一教会」と自民党とのお付き合いも、旧態依然、昔の名前は捨てましたといえば、それで通ってるんだ、この宗教集団は。

 うん? オウム真理教の装いを変えた教団は未だ公安の監視下にあるんじゃなかったか。

 えっ? そちらはカルト。こちらは集金集団だから資本家社会的にはクラウドで集金しているのと同じ穴の狢、ってか?

 報道機関といえば大手メディアを(読者として)しか知らないで、いきなりミニコミに筆を移して喋喋してきた輩としては、ガタイを比べるということをしないで、直ぐそのメディアに記された中味(記事)を問題にして、対等と考えてきた。このメディアの見立て方は、躰をみていないってことかもしれない。図体が大きいってことは、そこにかかわるメカニズムも多々あるわけで、理解するってのは難しい。同じジャーナリズムってとらえたり、同じコミュニケーションって見て取るのは、アタマしか見ていない。人の行動はアタマが決めるものであって、カラダはアタマが使って動かしているという身体観に拠っている。魂と体を分けてとらえ、魂が体を動かしているという自然観は、ギリシャ由来の西欧的なもの。

 因みに、欧米的なアカデミズムにちょっと身を浸しただけの私も、すっかりその自然観を受け容れて育ってきていた。そこからの離脱に1970年からの20年間ほどの、ある意味で幸運なカンケイを必要としたのであった。ま、それはまた別の機会にでも話すことにしよう。

 いつ頃からだったろうか、朝日新聞の記事も、記者名が表記されるようになって、デスクのお役目が一歩引き下がったようにさえ思ったものだ。オーナーが報道現場に口を差し挟まないというのは、綺麗ごと。コマーシャルにだって気を遣うんだもの、オーナーに気を遣わないわけがない。ましてオーナーのお友達などへの気遣いなしにこの世の具体的関係が築かれていると思うのは、ナイーブもいいところ。世間知らずの高校生のセンスですね。まして資本家社会の,ここ日本。裏まで探れば、おおよそ目も当てられない人の性がそちこちに転がっていよう。その性は、旧弊旧習というよりも、社会が身に刻んできた慣習を良いとか悪いとか区別せず、何でもかでも違和感のないままに繰り出す気遣いや心配りやおもてなしが、実はそのまんま旧弊や旧習になっているってことである。

 それを突破しないと、口先で言うことと身の振る舞いがしていることのギャップさえ気づかない。その壁が,横並びの大手メディアの習癖になっているというのが、冒頭朝日の林香里の記事お読むことが出来る。つまり、それを超えるには、わが身の無意識を炙り出すように身の裡側へ向かう視線を送ること、返す視線で世の常識的な気風を断ち切って、裂け目を作り出すことが世の人々の視線を変える論議を提供することになる。

 さあ、となると私たち年寄りが、身に備わった世の気風に心地よく触っているだけではおおよそ心許ない。槍を突き立て、異議申し立てをして、それをどうまとめるかは有識者に任せて大いに遣り取りを沸騰させようではないかと、気分が盛り上がる。

 社会の体幹を変えるのは、年寄りが身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと許りに、前のめりになること。隗よりはじめよというではないか。

2022年7月27日水曜日

コロナの行方、へへへ

 窮してきたときに書く文書には、末尾に「ふふふ」と入れて、緊張を和らげ、やりとりを互いに「研究する」ようにした方がいいと昔、小平の道路建設反対運動をしていた人たちが言っていたというのを思い出した。こちらは緊張というよりも、窮してほぼ諦めたかのように公助のことを考えているから、せめて投げ出してしまわないように、ハ行の三連句を入れて自分に言い聞かせている。ははは。

 行政機関が本当にアテにならなくなった。コロナウィルスの感染拡大がとどまるところを知らず、勢いを増している。すっかり「BA.5」に変わって、ワクチンも効くとは限らないと報じられると、自助をモットーとしてきたわが身も、打つ手がない。と、ほほほ。

 それでも、重症化しにくいとか、ウィルスの変容も限度があって、そろそろ最終段階ではないかというTVの専門家コメントに、そうか、いよいよ終わりになるかと期待を繋いでいた。それなのに、どうもウィルスは「BA2.75」に変わりつつある、これはさらに強烈と新情報が入って、えっ、まだ延長戦なんじゃんと希望は萎んでしまう。へへへ。

 なにしろこちらは、高齢者。存在自体が基礎雄疾患のようなものだから、ワクチン4回打ってても、軽症で済むワケじゃない。

 行政も対応に窮しているというか、諦めてしまったようで、注意警戒の呼びかけだけになってしまった。そこへもってきて、このコロナウィルスの扱い分類レベルをインフルエンザ並みにしようとか、特別枠を設けて行動制約レベルを経済社会レベルに合わせようと専門家までが言い始めた。自宅療養が何万人にもなっている。保健所の仕事も一杯一杯で、レベルを下げない限りお役目が務まらない。加えて医療体制が整わないという事情があるというが、もうコトが起こってから3年半にもなるというのに、今ごろ何を言ってんだよと、公助ののろさに憤懣をぶちまけたくなる。

 情報を公開しないお役所の権威主義と思ってきたが、どうもそうではなく、お役所自身が情報収集が出来ていないのじゃないか。自助だ共助だ公助だと口先だけで喋っているのは政治家。その駆動力たるお役所は公助エンジンのスターターを動かすのに精一杯で、駆動力にまで伝わっていない。政治家がリップサービスにかまけている間に、行政機関の駆動力はすっかり劣化してしまって、私ら年寄りと一緒に、手入れが行き届かない昔の儘の使いっぱなしだったから、錆び付いたり、腐り果てたり、ボロボロになっているのかな。ひひひ。

 自助で頑張ってと,一代前の宰相が声をかけていたが、そういう行政機関の高齢化を知っていたから、公助に期待を持たないでねと宰相自ら警告してくれていたのか。気が付かなかったなあ。ふふふ。

 2020年から2022年までの(6月末の感染状況をみると)1年間で感染桁数が一桁ずつ増えていった。ところが今年は、6月末から7月末の一月足らずでまた一桁増えている。TVメディアは「重症化しない」とウィルスに成り代わるように申し開きをしているが、高齢者や基礎疾患を持った人は別と「警戒」を呼びかける。

 年寄りはじっとしているに限ると思ってはいるが、来月半ば過ぎに,新橋でseminarを予定している。集まるのは皆、数えで傘寿の年寄りばかり。どう呼びかけたらいいだろうと、思案投げ首。

 ふふふっていうより、ほんとうにとほほ、だね。

2022年7月26日火曜日

トランプは既得権益

 今日(7/26)の朝日新聞に「2つのアメリカ 中間選挙へ足元はいま①」《「草の根保守」共和党も分断》と企画記事があった。ペンシルベニア州ではフリーPAというお茶会運動(ティー・パーティ)が始まり、秋の中間選挙の共和党候補を推薦する動きを見せていると紹介している。アメリカというのは、この予備選挙を含めて、「草の根保守」の市民運動が人々の「声」を集約していくところに民主主義の力の源泉があると思いながら読んだ。

 このフリーPAは、RINO(Republican in Name Only/名前だけの共和党員)という標語を掲げて候補の選択をしているとあったので、反トランプ派和党員の意思結集かと私は思った。違った。ペンシルベニア州の上院選候補にあがっていたのはTVの健康番組などを通じて名のよく知られた心臓外科医。それをRINOだとしてフリーPAは、反対している、と。つまり「草の根保守」の共和党員は「既得権益」に反対なのであって、知名度の高いこの心臓外科医を排除しようとしていたのだそうだ。ところがトランプは「当選することが一番」としてこの候補に「推薦」を与えた。果たして行方はどうなるかと,記事は記している。

 去年1月の議会襲撃の前後に、共和党の下院NO.3と称されていたリズ・チェイニーを引きずり下ろし、選挙でのトランプ敗北を認めていた上院院内総務のマコネルを非難して、遂に共和党を乗っ取ったトランプといわれてきたが、ここに来て「草の根保守」からトランプへの反撃がはじまったかと私は早とちりしたのであった。そうじゃない、と。「草の根保守」は、トランプの政策を「既得権益」を引き剥がすことと受けとって支持してきたと、市井の民の心裡へ一歩踏み込んで記事をモノしている。

 こうもいえようか。トランプが摑んだ共和党支持者の心は、今も生き続けている。そして逆に今、トランプの(既得権益に乗っかった)化けの皮が剥がれつつあるにもかかわらず、それを切り離せないのは、既得権益の象徴的存在である民主党が、あまりにも不甲斐ないからだ。草の根保守の心根が「既得権益」の排除だとすると、民主党左派のサンダースの主張にも重なる。右と左の違いはあれ、広がる格差に不平を鳴らす右と左の「草の根」を一気に引き寄せる好機であるにもかかわらず民主党は,その支持基盤の「既得権益」に気を遣って左派サンダースの支持層を取り込めていない。この朝日の記事は(書いてはいないが)そう読める。

 外交的なバイデンの施策は目下、ウクライナの支援を軸に展開しており、それは共和党の支持も得ているから、中間選挙の争点にはなりにくい。とすると国際協調を基本とするバイデンよりも、友好国であろうと競合国であろうと経済計算的な#USA-firstを口にして遠慮会釈なく外国に迫るトランプの姿は、皮肉にも内政的に格差や困難をも解決してくれる実行力にみえてくる。

 2016年の投票行動で黒人貧困層の票がトランプへ流れたのも、口先だけの公約に対する無意識の反発が(既得権益を排除することへ)働いたのかもしれない。もう(政治家の)言葉に飽き飽きしているのかもしれない。「草の根」の票がサンダースとトランプに別れてくるのは、やはり下層白人の人種的な皮膚感覚や宗教的なアイデンティティの求心性に依存しているところが大きいのかもしれないが、その部分は私にはわからない。カート・アンダーセンの『ファンタジーランド』などによると、高度の消費生活を楽しむアメリカ人の精神性がすでに高度のフィクションに包まれている。それを考えると、政策がどのように展開されてわが身の現在を変えてくれるかにまで思いが及ばず、見掛けとか、感触が「そのようである」とみえれば、票はそちらに流れていくのかもしれない。

 人が変わっているのだ。逆に言うと、人を見る目を変えなければ、人々の心裡をとらえることは出来ない。日本の投票行動をみても(アメリカとは基本モチーフが違うと思うが)、メディアの見立てが的を射ているように思えない。私やメディアの、古い考え方では人々の心裡をとらえることが出来なくなっているような気がする。捉えたからといって、どうにかしようとか、どうにかなると思っているわけじゃないが。

 でも、冒頭のペンシルベニアのフリーPAが出遭っているように、どこかで担いでいる人の化けの皮が剥がれるのを目にすることが出来るかもしれない。それくらい、候補と支持者、象徴とわが心の思いとはすれ違いズレている。ひょっとすると私自身がワタシの無意識をとらえることが出来なくなっているのかもしれない。

2022年7月25日月曜日

腐るよりは滅びるイメージ

 人道的な戦争があるのか、とウクライナの日々伝えられる状況をみて思う。宣戦布告をするというのがかつての騎士たちの決闘の儀礼に由来するように、人道に対する罪というのも、武装集団が対決して雌雄を決するという19世紀的な戦争概念が欧米的な価値意識で装われたものだ。ロシアがクラスター爆弾や生物化学兵器を用いることがあっても、それは欧米が自分の価値判断で非難していることに過ぎない。プーチンからすると、フンと言っていれば済むこと。きれいごとを言うんじゃないよ。

 太平洋戦争でアメリカが人道的な戦争を行ったかというと、とんでもない。ヒロシマやナガサキにしても自国の戦死者を少なくするためという「正統性」をつけて、おおよそ非人道的な爆撃をしたではないか。いや核兵器に限らない。東京大空襲にしても、私が受けた高松の空襲にしても、焼夷弾や艦載機による機銃掃射もおおよそ市民を殺戮する目的で遂行されていた。ただ、こちらは(まさに当事者として)戦争相手国の国民だから仕方なくそれを感受して逃げ回っていたわけで、それを戦争犯罪と切り分けるのは、戦争をゲームのように政治の延長で考えている奴らの言い分だと(今でも)思っている。

 じゃあ口を噤ぐんで、イスラエルが核兵器など持っているともいないとも言わないのと同じように振る舞えば、正しさは担保されるのか。そんなことはあるまい。何かを突きつけられても「それはフェイクだ」と言えば、ちゃらになる。似たり寄ったりである。

 それをTVなどで大真面目に非難して喧伝する欧米為政者やメディア・プロデューサーの人道センスは、民草からすると、お笑いである。たしかに今回は、ロシアが一方的にウクライナに侵攻したから、判官贔屓でウクライナの味方をしているから、ロシアって非道いと思っているだけだ。戦争事態を画面で見ていると、人道もへったくれもない、戦争自体が迷惑。悪だ思う。

 ウクライナの戦争報道をみていると、為政者やメディアの登場者は、まるでリアル版戦争ゲームをしているかのように、ルール違反を指摘したりフェイクだと誹ったり、攻撃反撃の正統性発言している。民草は嗤うしかない。もしウクライナに身を置いていたら、嗤うどころじゃない。ロシア兵だったら、これまた笑っていられない。

 戦争は必要悪だろうと、反論する人があるかもしれない。正しい戦争があると思うから、そう言う。プーチンだって、今回の戦争はネオナチの暴虐からロシア系住民を護るためだと正統性を飾っているではないか。国民国家の論理から言うと、国内向けにせよ国際向けにせよ、いずれの国も正義性を主張する。それはしかし、統治者の政治世界を含めた論理世界の話じゃないか。市井の民の世界とはどんどんかけ離れていっている。

 こう考えてみては、どうだろうか。習近平は、中国も「人民民主主義」という統治制度だといった。人民の「真の利益」を代表する共産党の指導を受けた統治や法治政治は、「人民の暮らしを護る最善の道をとっている」と。つまり、統治の結果を考えると、果たして議会制民主主義と呼ぶ(選挙のときだけ主権を発揮する)アメリカ(日本)のやり方とどちらがいいかと、民主主義概念を見直すように求めたと、私は受け止めた。

 ロシアの7割の人々がウクライナ戦争を遂行するプーチンを支持しているという。これもまた、情報統制とか洗脳とか裏から手を回した恐怖政治だとかいろいろと打つ手の違いはあろうけれども、市井の民の囲われた井戸の中で求められた応えとしては、日常的な振る舞いの自由度に於いて、ロシア国民よりも私の方が優位に立っていると思っているだけじゃないか。

 しかし、アベ=スガ政権のときの(今はキシダも加えて)、「寄らしむべし知らしむべからず」風の自民党統治のやり方にひたっていると、戦争は、民草の暮らしや都合に構うことなく行われるものだという思いが湧き起こる。選挙のときだけの主権者のご機嫌を損なうことなくコトを運べば、あとの民草は統治対象となる自然存在。つまりプーチンにとってのロシア国民と変わりはない。

 その政治に浸って暮らしを護っているワタシが、どんなことでロシア国民を嗤うことが出来るか。せめて、ロシアの反プーチンの気概を緩めずに繰り返し抵抗している元TV局員女子のように、身が滅ぶとも、言いたいことを表明し続ける。

 つまり腐るより滅びる道を選ぶ。そうした誇らしさを持ち続けたいという思いがチラリと頭を掠めた。などと……、何を言おうと構えわず放っておいてくれる日本で、呟いている。これも、バカみたい。

2022年7月24日日曜日

日本の核武装は何を護るか

 エマニュエル・トッド『老人支配国家日本の危機』(文春新書、2021年)で日本は核武装することが賢明と奨められている。この方は、フランス生まれ、日本びいきの人口学者。核は攻撃兵器ではなく、相手の攻撃を抑止する兵器だというのである。本書が出版された時にはまだ、ロシアのウクライナ侵攻は起きていません。中国や北朝鮮の核の脅威に対抗するためには、日本は核武装するべきだ、と。アメリカの核の傘はあてに出来ない、ときっぱりと見切っています。

 今年の2月24日から後のウクライナ戦争をみていると、説得力があります。何しろロシアが「核兵器を使うよ」といっただけで、ヨーロッパもアメリカもロシアへの攻撃を控えてしまいました。もしウクライナが長距離攻撃兵器を手に入れて、宇宙からの米英インテリジェンスに手を貸してもらえば、ロシアの攻撃力の源泉に打撃を加えてウクライナ現場の悲惨を軽減することができるでしょう。なのに、その兵器提供をしないとアメリカが公表しているのは、プーチンに対して全面戦争にしないように呼びかけているようなものです。ウクライナをほどほどの戦場現場として活用して(ロシアの国力を貶めながら)、じつは米欧ロの直接衝突を危機を回避していると言えます。ウクライナにとっては,目下最大の武器の支援国アメリカに、同時に、お前さんたちで戦えと突き放されて(アメリカの世界戦略に)利用されているようです。

 これは、日本が中朝露と向き合って危機にさらされたときに、直面する現実でもあります。エマニュエル・トッドは、そうした世界政治の現実を踏まえて、日本に核武装を奨めているのです。では、私たちはその提言をどう受け止めたらいいでしょうか。

 2020年1月の「日本の防衛という問題」をseminarで扱ったとき、出席者のMさんが「核兵器をアメリカから借りて武装したらいい」と発言したことがあります。そうか、日本の産業家たちの間ではそういう論議が起こっているのかと(Mさんの付き合っている関係の人たちを思い浮かべて)私は受け止めていました。本気で核武装なんて考えられないとも感じていました。それと同時に、北朝鮮が必死に核武装に縋るのも、80年ほど前に日本が金融資産の凍結や石油資源の禁輸でアメリカに追い詰められていた姿と重なり、むしろ判官贔屓で(そうするより他に道がないよな、と)同情するような心持ちでみていました。それが、ウクライナへのロシア侵攻をみて一気に現実問題になった。こりゃあ、本気で考えなければならないという次第です。

 エマニュエル・トッドがいうように核は使うために持つのではありません。戦争を抑止するために持つのだという抑止論は、冷戦時代から耳にしてきました。ヒロシマ・ナガサキを知っていれば、最終兵器といって良いほどの破壊力と分かります。だが、ウクライナ戦争をみていると、核兵器だけでなく戦争というのがもはや私たち庶民にとっては,最終的なことだと強く感じられます。

 ロシアが非人道的な攻撃をしていると欧米メディアは非難していますが、そもそも非人道的でない戦争があるのかと,市井の民は思う。劇場を破壊し、幼稚園や小学校に攻撃を加えていると映像が流れる。攻撃目標をきっちりと絞れないロシアの兵器に対する非難かもしれないが、実は人々の生活を破壊して抗戦意識を挫き、敵国内の統治者への反対運動を盛り上げていくというのも、戦術の一つです。つまり戦争は、そもそも統治者同士の争いがそれぞれが統治している人々を人質にして戦っている。

「人は石垣人は城」というのも、そういう意味で総力戦ですよというもの。長期戦にせよ短期決戦にせよ、国の体幹がかっちりしているかどうかが問われます。総力戦というのはWWⅠ後に謂われるようになりましたが、それ以前から、産業や資源や生産性やそれを活用する知恵や正確さや練度、人々の統治者への求心性や民度も含めて、「国力」として問われることを意味していました。つまり総力戦とは、戦争という(対外的な行為へ)統治行為に力を結集することのできる度合いを表しています。となると、民主的統治よりは強権的統治の方が(統治者の意向が通るという意味で)求心性は高い。

 民主的統治は、一つにまとまるのに時間がかかります。いや、論議が広く行われれば、まとまることさえ覚束なくなる。深いところでの(何のために戦争なんかするのよという)身に刻まれた、感情的・理念的一体性が醸成されていなければならない。むろんそれは動的なものだから、今回のウクライナのようにロシアの侵攻によってウクライナを護れという求心性は格段に高まった。ウクライナはロシアではないというアイデンティティの内的確信も高くなった。だからこそ、ロシアは(人道的配慮とか軍事目標施設以外は攻撃しないというお為ごかしは振り捨てて)ウクライナの志気を挫くために何でもするという非道さを発揮しているのだと私は考えています。

 本筋に話を戻しましょう。まず核兵器をアメリカから借用するということについて、高市という自民党の政審会長も広言していますが、何処まで本気でそれが力を発揮すると信じているのか疑問に思います。アメリカから借用するというとき、当然、それ(核)を使用することについてアメリカが承認するかどうかが問われないはずがない。アメリカ自体が攻撃を受けなければいいというのが、トランプばかりでなくバイデンのホンネです。日本が持っているだけでいいから貸してくれっていうのをフリーハンドでOKするとは思えません。むしろトランプさんなら、日本が(アメリカに頼らず)自力で防衛しようというのであれば(軍事経費節減もなり)、日本が核武装することは認めると言うでしょう(いつだったか、そう言っていたような印象を持っています)。借りるというのが、主体性をどれだけ保証するものか、大いに疑問です。

 では、自力で核武装するのはどうだろう。これは,ちょっと面白いチキンレースに思えます。かつて、明らかに負けると分かっていた(無謀な)アメリカとの戦争に踏み切った日本。かれらはプーチン以上に何をするか分からないと、アメリカも中国も北朝鮮もロシアも思うにちがいありません。今回のウクライナのような事態に置かれたとき、日本がもし核兵器を持っていたとすると、金正恩とプーチンと日本の為政者とどちらが(人類破滅へ向かう道筋へ踏み込む)危険性があるか。20世紀を総括してみる国際関係的視線では、どっちもどっちという評価を得るのではないかと私はみています。まず何よりも、国連憲章の51条で、WWⅡの同盟国、日・独が攻撃的な姿勢をみせたときには国連の承認を得ることなく攻撃に踏み切ってもいいと「敵国条項」があるのですから、北朝鮮は別としても、国連安保理の常任理事国である中国やロシアは、それこそ先制攻撃をするお墨付きを手に入れているのです。

 日本の為政者も、どこまで先を見通して戦略を立て、どこまで細部を承知して方針を打ち出し、何処まで現場に目配りして状況を把握しているか、私はまったく信頼を寄せることが出来ません。ましてアメリカの為政者がどこまで信頼するか。これは躊躇なく、NOと言えます。

 それができるのであれば、もう60年も前から日米の議論の俎上に上がっている「日米行政協定」の改訂に踏み切っているはずです。アメリカにとって日本は、いわば「属国」です。ドイツやイタリアのような対等の付き合い方をしていません。そういう国だとみていない。そしてそれを実現しようというほど、日本の為政者は知恵知識を傾けて、日本の自律的な決定権を取り戻そうとしてこなかった。これは、明々白々な事実です。

 いまのところでは、こう結論づけられましょうか。

 日本の政治状況は今、核兵器を持つかどうかを論議する次元にはない。まずアメリカと対等に遣り取りすること(別に同盟関係を崩せと言っている訳ではない)が出来るように、(中国やロシアとアメリカの政策とは別の原理原則を立てて)外交を展開する力を取り戻す必要がある。それも出来ないのに、核兵器を持つの抑止力が必要のと云々するのは、戦いたくて仕方がないゲーマーがイチかバチの危ない橋を渡るようなこと。戦後過程のちゃぶ台返しです。

 戦中生まれ戦後育ちの市井の老爺としては、おいおい止めて下さいよ、と声をかけたい気分ですね。

2022年7月23日土曜日

時間の感覚と内面世界

 ご近所のストレッチ仲間と飲んでいたとき、大連へ行ったのは何年前だったっか? と誰かが訊いた。

「えっ、5年くらい前と違う?」

 と答えると、一人が

「ほらっ、私と一緒だ」

 と言う。5人で行った。他の人は、もう10年近いんじゃないかと遣り取りしている。私がトイレに立った間に話しがはじまったらしい。飲んでいる5人のうちの4人が一緒に行った面々。一緒に行ったあとの一人は、いまはもう80代の後半に入り、飲みに出ることができなくなった。代わりといっては何だが、70代になったばかりの若い人が加わっている。5年くらい前と応じはしたものの、私も全くの勘。コロナ以前と以後という区分けはきっちり頭に入っているが、それ以前となると、五里霧中だ。ただ、先日のイタリアの氷河崩壊でマルモラーダの名が出て、ドロミテに行ったのが2013年と分かったとき、身の裡の感触と違って随分近かったのだと感じたから、ちょっとさばを読むような気持ちで5年といったのであった。

 今朝になってブログ記事を見ると、2016年の10月21日から24日までの3泊4日で大連へ向かい、瀋陽まで脚を延ばしていた。5年と9ヶ月前になる。「大連紀行」を四百字詰めで30枚くらい書き記していた。

 5年前も10年前もあまり変わりがなく、記憶の中に同居している。なんだろう、この時間印象のいい加減さは。あんなことがあった、こんなことがあったというのが皆、丼の中に雑多に入っている。

 時系列がいい加減なのは、それらのコトゴトの間を関係づける物語りがないせいではないか。同じく中国のシルクロードの旅を、山友に誘われてご一緒したことがあった、それと大連とどちらが先だったかともし問われたら、大連が先、シルクロードが後と応答できたに互いない。というのも、(今調べたら2018年5月の)シルクロードの旅は、瀋陽への旅の印象を書き換えるほど新幹線に関しても、人々の暮らしについても中国の変わりようが鮮烈な印象だったからである。これも帰ってから紀行文を記したから、訪問の「前後関係」が(わが身の裡に)発生した。

 ということは逆に、時間の記憶に正確であることというのは、時系列で整理されたコトゴトだからではないか。時系列で整理するのは、その旅なりデキゴトが、前後関係とか、私の年齢としっかり絡み合って認識されているコトだ。孫の小学校卒業とか、大学入学とか成人といった恰好で、爺婆から離れていった記憶は、それなりにきちんとこちらの年齢と相関して物語化されている。

 山歩きのことと、seminarのことと、鳥を観たり観光旅行に付いていったりしたことと、ご近所のこととは、整理ボックスが違うから相互関係がつかめていない。たぶん私の頭の中ではゴチャゴチャに放り込まれていて、問われるという想起域への刺激があれば、アレよりは前、ソレよりは後という風に関係づけたモノゴトとともに記憶の混沌の海から引きずり出しておおよその見当を付けるのだろう。

 歳をとって、思いが昔と今とを往き来することが多くなると、時系列が掻き回される。と同時に、昔のことは、社会的なデキゴトや政治的な画期となるメルクマールの記憶と平仄を合わせるように考えたことが多かったせいか、いろんなことが総体として、時代の空気のように身に刻まれている。10年や20年の違いはどっちでもよく、そのデキゴトを比較して思い浮かべたりしている。つまり時間を往き来することが時系列をかき混ぜてしまう。これも、年寄りの時間印象を茫洋としたものにしてしまうのかもしれない。

 これは、時間とか空間に関する物理的な実在と心理的な実感とのカンケイとして取り出すことが出来るのだろうか。宇宙空間の11次元ということと関係づけて展開している論考などがあると面白いなと思う。

2022年7月22日金曜日

即興ジャズ・エクリチュール

 我が友マサオキさんから、葉書が来た。「まだ旅行からお帰りになっているかどうか分かりませんが、取不敢御礼まで」と住所欄にある。まずそれを紹介する。

《前略。今便は毎度の「無冠」拝受の枕詞ではなく、マンゴー拝受。遙か南なる宮古島から(通)OAS航空エクスプレスハイスピードなるいかにも生き物の超特急便を思わせる航空便で送られてきたマンゴー、たしかに拝受致しました。こんな結構なもの寔に以て有難うございます。と言って、マンゴーなるものを直に味わったことのない食不通の人間なので、娘に訊ねてみると「え、ええーっ、沖縄からマンゴー!?」とびっくらこいてしばし絶句。無言絶句。ややあって「これ、おじさん(私のこと)は知らないだろうけど、すっごく価値があるものなのよ。滅多なもんじゃないんだから。勿体なくて神棚ものなのよ」と来たもんだ。飲食物に全く以て疎く、謂わば味痴の典型たる私は、「うへーっ、マンゴーってそうなんだ」。そして有り難や賢しやとばかり鬼門の方向2里許りなる井沼方に向かって二拍手一礼を三度繰り返したのであります。その後箱を開けてクッションに包まれている二つの実物大の実物に見入り、馥郁と香る甘い匂いを嗅ぎ、試しに表皮を撫でてみるとぷよぷよと柔らかいおっぱいみたい。これでマンゴーに関し、眼耳鼻舌身意のうち眼鼻身を感知したことになる。あと肝心なるは舌、すなわち味(みー)だが、それは少頃(しばらく)神棚に御坐して頂いて後ということにします。それはそれとしてマンゴーなるものに全く不案内で、今実物大の実物つまり本物に接してその六分の三を実捉できたのだが、因みに国語辞典を調べて知識を補填してみた、疎にして漏らして許りでいるアタマが癖にしている仕業でした。その解意をわが戯作に登場せし長尾教授の「日本草木総覧」風に自家訳してみるとこうなります。

 マンゴオ漆科ニ属セシ常緑ノ喬木也天竺原産ニテ琉球ニ帰化セシト曰フ樹高五丈許葉長楕円形ニシテ質厚ク葉柄長ク互生春円錐様花成レ序開二五弁花一後腎臓形ノ核果ヲ結ブ甘美ナル事比類ナク之ヲ是阿レ謂二醍醐美一唉……。

 いやあ、たしかに見た目と言い感触と言い二つセットになっている所と言い腎臓ですね。これでは彌々腎不全にならないためにもしっかりその醍醐味を賞翫せねばなりますまい。六月末の猛暑といい、史上最速の梅雨明けを宣告しながら、今になってシトシト雨と手の平返したような日本新記録の短時間豪雨と言い天網も乱調にありですしコロナも忽ち第七波の大津波。傘寿が惨寿とならぬようご自愛の程を。保重*!(かさねがさねやすらけく)》

 まるでジャズの即興演奏のよう。葉書一枚の裏と表に、手書きの小さな文字で1400字ほどがビッシリと詰まっている。虫眼鏡を手に持って、このジャズエクリチュールを音にして読み取っている。だが末尾の人文字「*」が読めない。( )内はたぶんこんな意味だろうと推察した。表意文字というのは、こういうときにお役に立つと思っている。

 そして、以下のような返事を認めた。白山羊さんへの黒山羊さんの返書。

                                    ***

ふふふマサオキさま

 嬉しいお葉書、頂戴しました。

 思いがけぬ即興演奏「マンゴーづくし」のjazz-écriture、ありがとうございました。面白く音読しています。腹を抱えて笑いながら、「贈った甲斐があったわね」とわがカミサンは悦んでいます。因みに、「マサオキさんはほんとの物書き」とも。

 宮古島はバーダーたちの羨望の土地。この旅をコーディネートしてくれたのは石垣島や宮古島、沖縄本島などを何度も訪れ、知り尽くした探鳥の専門家。

 ひょんな縁から師匠の「くっつきの尾」として、あちらこちらの探鳥に連れて行ってもらっている私は門前の小僧ですが、やはり宮古島もはじめて訪れる土地。どんな人たちがどんな風に暮らしているか興味津々。門前の小僧にとって鳥はおまけです。ははは。

 同行するのは日本野鳥の会**支部の代表とわが師匠であるカミサンと私。もちろんコーディネートしてくれた専門家も一緒の、わずか4人という絶好の規模。門前の小僧からすると、その道の雲上人。しかも今回は、宮古島のことはわが掌(たなごころ)を指すように知り尽くした石垣在住の鳥カメラマン。この方は、これまでにも石垣島や与那国島をガイドしてくれた石垣島の牛飼い。どちらが片手間なのか分かりません。石垣島のカンムリワシやアカショウビンその他の写真集を何冊か発行している、野鳥のお友達。石垣島や与那国島、西表島と今回の宮古島などを私は、この方の「自然観察動植物園」と呼んでいるほどです。今回はガイドを予定していなかったのですが、たまたま他の団体の宮古島探鳥案内の最終日と私たちの最初日が重なったため、宮古空港で(ばったり会って)3泊4日の全日程を付き合ってくれました。

 私以外の方々は宮古島を何回も訪れていて、なおかつ、オオクイナの出没する森の池やヒメクロアジサシなどの棲息する岩礁の海へ小さな漁船を出して観察するというスリリングな旅も入っていました。でも私は、宮古島の地誌的な風物に気を取られ、その合間にはじめてみる鳥の美しさに見惚れていた次第です。

 たぶん宮古島などは最初で最後になると思い、特産のマンゴーをお送りした次第。私にとっても冥土の土産です。

 今月も世の中はいろいろとありましたね。でも、何よりコロナウィルスの第七波の感染拡大が特筆ものです。埼玉県も今日、1万人を超えました。ウクライナの戦争も、安倍元首相の銃撃事件も、霞んでしまっています。

 しかも、もう打つ手がない。専門家会議のオビ何とか会長も「御注意ください」と言うのが精一杯。手の施しようがないといわんばかりです。千葉県知事が「濃厚接触者のチェックをしない」と発表しました。チェックをすると自宅待機になって仕事に行けない人が多くなりすぎるというのですが、これって、何処か倒錯した施策ですよね。コロナウィルスの法的概念を変えないから地方の首長としては、こうやって悲鳴を上げるしかないのかな。とほほ。

 政府も、お手上げ。死亡率の高いインフルエンザという扱い。でも法的あしらいを変えようという動きがないのは、エリートお役人の性か。ひひひ。

 案外この程度のいい加減さで人類ってのはここまで来たのかもしれません。だからウクライナで何がどうなっていようと、香港や台湾がどうなろうと、わが身に降りかかる火の粉にならない限り平気の平左でやっていく。へへへ。

 自助しか手のない市井の私たちには季節を問わない、ちょっと年寄りには死亡率の高いインフルエンザって感じかな。どうしたものか考えはするものの、なるようになる、なるようにしかならない。成り行き任せ。彼岸への直行便にも恐れず向き合いたいものです。

 とはいえ、死に急ぐ必要もありません。運を天に任せて、のほほんといきましょう。

 マサオキさん、勝手にさっさと行かないでくださいね。ほほほ、ほんとに。

2022年7月21日木曜日

どうなることか

 手掌の手術をしてから一週間の診察を受けに行った。厚く巻いていた包帯を鋏でジョキジョキと切り取って剥がしていく。その手際の柔らかい果断さに見惚れる。手の平をどのように切ったのか、私は全く知らない。

「ブラックボックスですね手術っていうのは」と口にすると、

「気が付いたときは病室のベッドにいたでしょう」と笑っている。

 手の平の傷口は何本かの線と、縫合した後であろうか、それと直交する短い線とが広がっている。こんなにたくさん切ったんだ。もしこれをみていたら気を失ったかもしれないと、わが小心を思い、全身麻酔とブラックボックスを腑に落とした。ところどころを押さえて、傷口の付き具合をみているのだろうか。小指をピキッと反らせる。私はウッと呻る。

「あっ、ごめんごめん」

 他の指を触って、痺れ具合を尋ねる。人差し指は痺れるというと、その中指側の側面を撫でて、ここも痺れると訊く。おや、そこは痺れの感触がない。不思議なことに、指全体と指の側面では違う。医師は、そうでしょうという顔をしている。そうか、神経の通り筋が違うのか。それを熟知しているから、何処がどうなっていると予測を立てられる。

 順調に手術は進み、順調に恢復しているとみていいらしい。医師は口にはしないけど、傷口を軽く消毒して、軟膏を塗り、綿を被せ、ガーゼを何枚か重ねて置き、その上から包帯を巻き留めて、まず小指を独立して手当てし、その後に手の平全体を、指をそれぞれに動かせるように離しながら、左手の平を包帯でぐるぐる巻きにする。看護師が綿を手渡しガーゼを用意し、包帯にかかってはそれを留めるテープを切り取って準備する。言葉を交わすことなく進む運びをみると、手慣れた手順。

 その間に、痛みがどうであったとか便秘気味であったとかこちらが話すのを聞きながしているのかと思ったら、「また来週来て下さい、痛み止めと酸化マグネシウムと痺れを抑える薬を出します」と笑って、釈放となった。

 9時半の診察予約であったのに、医師と向かい合ったのは1時間10分後。治療は10分か15分。会計は140円。11時10分には病院の玄関にいた。17分ほど待てばバスもあったが、4km、歩けば50分ほど。暑い日差しを鍔の付いたモンゴル帽子で避けて、自動車道を離れて帰途につく。

 向こうから小学生が三々五々帰ってくる。そうか、今日は終業式だ。子どもたちの姿が解放感に溢れている。小学校に近い車道では列を成して歩く子どもたちに混じって、声を張り上げて左へ寄りなさいと叫んでいる大人は教師か。これも大変だな。上履きを手に提げた中学生も二人、三人と歩いてくる。独りで俯いてやってくる女子中学生もいる。そうだ、三室中学とか東浦和中学というのが途中にあった。と、向こうから何も持たず駆け足で学校の方へ向かう制服の女子生徒がいる。忘れ物でもしたのだろうか。

 こんにちはと、声をかけてきた、ひとり歩きの男子小学生がいた。5,6年生くらいか。「夏休みかい?」と応じると、ニコッと笑って、首を縦に振った。今も昔も変わらぬ子どもの姿。でも近頃の報道をみていると、小学校も20年ほどの間にすっかり様子を変えてしまったようだ。痛みや痺れが酷くなったのか、今はそうでもないが、後に痛みがやってくるのか。痛み止めや痺れを和らげる薬は処方されているのだろうか。それとも、こうした気遣いは、年寄りの冷や水か。

2022年7月20日水曜日

経験主義とは浮き上がらないこと

 一年前(2021-07-19)の記事《コモンとは何か――身に沁みわたる「人権」》ですでにここまでみていたんだと、今ごろ再認識している。記事は、水道事業の民営化がもたらした悲惨な現実が何を見失った結果かを見据えて、バルセロナの地域問題に端を発して欧州議会の施策に関する方針へ影響を与えるまでになった欧州の運動の紹介をして、日本の地方行政と市井の民の「お任せ民主主義」を照らしだし、じつは日本でも喫緊の問題になっていることを取り上げている。

 バルセロナと謂えば、スペインの財政破綻の問題が浮かび上がったときにEUの言いなりになるのならスペインから独立すると言って(住民投票を行い)抵抗した地域ではないか。ガウディの特異な建築群が街づくりに生かされていたし、そういえばナチスによって爆撃を受けたゲルニカという街もスペイン北部のバスク地方にある。この町の名はピカソの絵で最初に知ったが、ここも独立運動が昔から盛んな地方であった。自分たちのことは自分たちに決めさせてよという気風に満ちているのかもしれない。

 水道事業を公営化から切り離し民営化した。要するに、資本家社会の市場原理と資本の論理に任せたわけだが、そのために水道料金が高くなり支払えない人たちへの供給がストップする。これって、コモン(公共)なのかいと疑問を呈して公営化に戻すのに半世紀近い歳月を要した。そしてその運動は、バルセロナだけでなくEU議会の「コモン/公共」概念をひっくり返して、各国に広がる自由主義路線へ修正を迫っている。

  大事なことは、行政が「民営化」という道に踏み込んだことを半世紀ほどかけて公営化に戻すという修正をしたと言うこと。しかも民営化が始まった時代と異なってEU議会という決定システムの変更があった壁を乗り越えて、「コモン/公共」の概念の変更を成し遂げて行っているというのは、民主主義の有り様として学びべきことがある。

 1年経って思うこと。哲学の世界では、大陸合理主義・イギリス経験主義と切り分けるが、バルセロナの水の戦いが教えているのは経験主義的な方法の良質さだ。徹底的に現場にこだわる。そこで何がモンダイかを人の暮らしから離れずに見つめ、その教えていることをきっちりと解決へ向ける。

 その背景には、いくつかの要点が共有されている。

(1)人の為すことは誤ることがあるという気風が底流していること。それが共有されていると、モンダイが生じたとき責任追及に向かうよりも原因究明へ向ける。

 責任追及は誰がやったのかを問う。だが民営化は資本家社会の論理に従っているだけとなると、企業のコンプライアンス(合法性)を問い詰めるだけでは、問題の解決に一歩も踏み込めない。

(2)原因究明に向ける目は、民営化というシステムの根源へ向かう。つまり哲学的にモンダイを考えると、水の提供を商品化していいのかというところまで考えて行けねばならない。そのとき、社会は何をなぜ護るべきなのかへ辿り着く。水と人の暮らしを個人責任に帰していいことなのかどうかが問われるわけだ。

(3)そのとき、民営化しているんだから水が商品化されるのは当然とする概念化は行政の初発の意思となる。経験則では、所得のなくなった人が支払いが出来ないのは当然な成り行きだが、それをその個人の責任と考える社会であると水の提供が出来ないという事態は、問題にもならない。これは、共に生きている社会という場から(お金を持たないものは)はじき出されることを意味する。そうなったものは生きている資格がないと言えるのかと問うところまで行き着かないと、折り返して、果たして民営化が良かったのかというところまで行き着けない。それは(誰もが失業や傷病や不運に見舞われることがあるという)経験則的な判断があってこそ、そういう人たちが生きていけるようにするのが「社会」であり「公共」の行政だという視点に立てる。

(4)上記の経緯を、その地に住む人たちが共有するとは、どういうことか。上記(1)~(3)のプロセスを人々がわがこととして共有すること。つまりそこに、自律心をベースとしてモンダイを考える民主主義の実践がある。その実践こそが民主主義なのであって、選挙で投票してあとは「お任せ」としているのは、「議会制専横主義」。実情にまで踏み込めば、「議会正統性付与機関」による「行政権威主義」の横行である。つまり、概念的に民主主義をシステムとしてみている限り、その社会が民主的になることはない。それらしいふりをしているだけなのだ。

                                      *

 そう考えてみると、大陸合理論というのは、ただフランスのクセなのであって、ヨーロッパの人々も経験主義的にモノゴトを受け止めて感性や思念を育み受け継いでいる。それを、恒につねに原基に立ち戻ってともに考え、ともに問題の解決へ向けて事態を理解するしようとする取り組みを実践的に辿ること、それが、自律性を培い、自律心を育てる。その全プロセスが、民主主義なのだと改めて思う。

 なるほど日本の現在は、自由で民主的な装いを取っている。だが、上記水のモンダイをもし抱えたら、バルセロナの人々のように欧州議会にまで寄せ詰めることが出来るか。イギリス経験論を好ましく思ってきた私も(歳のせいもあって)、いつも考えるだけ、言ってみただけ、後は任せるわ、知らんわと言ってきた。そんなこっちゃダメじゃないかと、一年前の記事に叱られている。それが目下ワタシの実践です。

2022年7月19日火曜日

呼んでも応えない国家・社会

 今朝(7/19)の朝日新聞に宮台真司が「元首相銃撃事件」に関するコメントを寄せている。「個人的な恨み」を抱えて苦悩する声に応える国家も社会もないと、今の世の中の生きづらさを指摘しています。つまり、コトを起こした容疑者本人は「個人的な恨み」を晴らす動機しかなくても、社会的なデキゴトとしては「世直しのために統治権力に政策変更を迫るテロ」であったと受け止めないと、何度でもこうしたことが繰り返されると言っています。為政者への警鐘とともにメディアばかりか市井の私たちにも我がこととしてデキゴトを見つめる視線を提示しているように感じます。

「為政者への警鐘」というのは今回の事件を容疑者の間違った標的への銃撃だったと受け止める論調です。安倍元首相は流れ弾に当たったようなものとみて、安倍政治の功績をたたえ祀りあげようとする動きはすでに「国葬」という形で提起されていますが、これは容疑者の「個人的な恨み」を他人事としてみているということの他ならない。それは「呼んでも応えない」国家や社会の姿そのもの。デキゴトが起きる度に自分はどういう意味で当事者だろうかと考えることをクセとしてきたワタシには、我が意を得たりという思いがしています。

 これは逆に考えると、世の中のデキゴトをいつも私たちは観客席にいて観ているだけ。舞台に立つ人々の振る舞いをみながら、バカだなあと思ったり、自分はこれほどひどくはないよねと状況を押さえて安堵したり、ときには罵声を浴びせて正義の味方を気取ったりしています。でも、そう振る舞っているヒトは宮台真司が言う「寄る辺ない個人」でもあります。つまりわが姿を観て嗤っているとこの社会学者は言っているのですね。

 こういった、社会との応答関係が安定的に築かれているかどうかを私はコミュニティ性といってきました。国家が応えないのは、重々承知。80年の経験則です。私は二十年ほどの間、定時制高校の教師をしていたことがあります。1970年代のはじめは「金の卵」ともて囃された若い人たち、第一次オイルショック(1973年秋)の後は全日制高校へ行けないあぶれた人たちで溢れていました。そもそも学校の教師なんて信用していない青年たちと向き合って、言葉を交わすことが出来なくては、仕事が勤まりません。といって、友達のような顔をしていては学校の教師の仕事が果たせません。

 世の中から背負わされている学校の役目は、生徒に人類文化を伝え、なおかつ成績を付けて序列化し「社会に送り出す」選別システムでした。だが、学校が伝承する人類の知的文化はとっくに定時制に足を運ぶ彼らに愛想を尽かされて色褪せ、すでに世の中の最底辺に位置している彼らが這い上がる階梯には、定時制高校の発揮する序列化は役に立たない。学習指導要領とか学習成績とかはほぼ役に立たない状況でした。

 では教師として何が出来たか。世の中の(人類史的に伝えてきた)振る舞い方を伝え、まずは自律的に自らを立てる術を身につけ、同時に場を同じうする人たちと互いに関わり合う関係のありようの作法に心を傾けるような実際的な場を提供することでした。学習指導要領では「特別活動」と名付けて、教師仕事の周縁に捨て置かれていることですが、逆に言うと定型がなく、現場主義的に形づくっていかねばならない領域でした。そもそも眼前の生徒たちがどのような状況に置かれ、なにをどう感じ取り、どう思っているから、社会的に考えると不都合な、ぶつかり合いや犯罪に近い、このような混沌が生まれているのか。それに対する見取り図を描くことをしなくては、教師として何をどうするか決めることも出来なかったと言えます。

 ふり返ってみるとそれが一つひとつ、彼らの呼び声に応答しようとしていた社会の声であったわけです。むろん当時は、わが振る舞いを社会の応対と考えていたわけではありません。目前の教室秩序を打ち立て、とりあえず「教師-生徒」関係が成立するように場をつくる。それが精一杯でした。

 もちろん「授業」という儀式を相互了解の上で場が成り立っていますから、その場の中味もないがしろには出来ません。だがそれ以上に、毎夜学校に足を運んできて、4時間の授業を4年間受け続ける活力を醸成しなくてはなりません。坦々と繰り返される授業という営みを受け続ける活力の素は、同級生や学校全体の人たちとのコミュニティの居心地の良さでした。それこそ、世の中の不幸を全身に背負って生きてきたような生徒たちが寄り集うわけですから、居心地の良い関係はそう簡単には出来上がりません。でも、声を上げると応えが返ってくる。そういう応答関係が、あたかも自問自答のように感じられるようになるのが、アイデンティティに転化して誇らしく感じられる場をつくるのだと思うようになりました。教師は学校をつくる、生徒は学校が育てる。そう考えて仕事をしていたことを思い出します。

 すっかり引退した今は、市井の老爺として世の中を眺め、溜息をついてすっかり変わったなあと慨嘆するばかりですが、この宮台真司のような学者がこういう指摘をして(わが身の思いが正鵠を射ていると)扶けてくれているように思い、「希望」を感じています。

2022年7月18日月曜日

追い剥ぎが剥いでいった素裸の忖度文化

  そうだ、まだ1年前は菅政権であった。この記事(2021/7/17)「表通りだけで世の中は成り立っていない」は、ホンネとタテマエという言葉の使い分けで人と人の関係に「忖度」を持ち込み、強制力という形を取らずに「思惑」を押しつけるやり方を(政治手法として)とるのを、裏通りとみて批判したのであった。

 ホンネが剥き出しになるのはみっともないが、そんなことを口にさせるのは無礼だという文化がどういう社会関係の積み重ねで醸成されて、私たちの身に刻まれてきたのか分からない。たぶん礼節を基本的に海外から受け容れてそれを換骨奪胎してわが物にしてきた文化形成の列島的特性が、人の肌感覚になって来たものかと思う。

 一万数千年前にこの列島に居着いていた南方系とか北方系と後に名付けられる人たちの集団がそれぞれにもっていた文化が、交通がはじまるにつれて互いに混ざり合うときの浸透度は、異なっていたに違いない。そこへまた、半島を経由したり大陸からなにがしかの形で流入してきたのが混ざり合って、あるいは力比べをし、あるいは縄張りを張り合って共存交流し、統治を必要とする社会と国とを形作り、言葉を通じて定着を試みてきたのが、今私たちが身に刻んでいる文化である。一貫性があるわけではないし、換骨奪胎してわが物にした程度も部分も土地と人とによっていろいろであるから、その違いが往き来する場面になると齟齬も起こる、衝突も避けられない。

 こうも言えようか。戦中生まれ戦後育ちの私の世代からいうと、WWⅡの人類史的反省としてはじまった「日本国憲法」の民主主義・平和主義・基本的人権の時代が終わって、国際関係もすっかり「理念的衣装」が剥がれてしまった。辛うじて東西冷戦という舞台が続いていたために、強権的統治よりは自由で民主が良いと謂う気分で持ちこたえてきた。しかも、一億総中流の甘い味がそれを裏付けていた。ところが、資本家社会的な経済の舞台でひょっとしたらアメリカを追い越すかという立場を味わったものだから、アメリカン・スタンダードでグローバル化が流れ込んできたとき、その一つひとつを(社会経済の全体像から考えて)吟味することをせず、出来るだけ受け容れようとして、継ぎ接ぎの断片を受け容れてきた。明治維新のときには、何年か国内政治を停止するようなことをしてまで社会や経済体制を総体として見渡していた。それは、薩長政権という誹りを受けながら、なお、日本という国民国家を一つにしていかねば政権の正統性がないという差し迫った圧力が為政者の心裡にあったからだろう。

 そういう観点からいうと、中国がアメリカン・スタンダードを組み替えるとしてグローバルイメージを持って経済体制を構築しようとしているのは、日本の「失われた**十年」の轍を踏まない賢明な選択と謂わねばならない。日本の為政者にそのような知恵を授ける「識者」がいなかったわけではなかろうが、在野を含めて知恵知識を結集して日本社会をつくっていこうという気概は、小渕政権を最後に途絶えてしまった。官僚機構にそれだけの知恵がなかったのかどうかは分からないが、それを汲み上げる政治家がいなかったことは間違いない。どうしてこうなっちゃったんだろうと思うが、最初の述べた文化移入の一つひとつを子細に受け止めて、薬籠中のものとする技に何か足りないものがあったのだろう。

 こうして、アメリカン・スタンダードを我流に(ときに純粋論理的に)受け容れて、己が産業社会体制の持っている大事なものを水と一緒に流してしまうこともしてしまった。その部分部分の手直しでは追いつかないことが「失われた*十年」で警告されるづけたにもかかわらず、なるがままに任せてきた結果がここ十年ほどの間の、東日本大震災やコロナウィルス禍で露わになった。にも拘わらず、相変わらず80年代の夢をすっかり代わった舞台で踊ろうとしてきて生み出されたのが、現状の日本の社会であった。安倍=菅政治はその象徴のような存在であり、岸田首相が「新しい資本主義」を標榜して登場してきたとき、ひょっとすると化けるかなと期待を抱かせたが、ただの泡(あぶく)であった。

 当の安倍元首相が狙撃され死亡した。追い剥ぎに襲われたようなものだが、さてこれが素裸の忖度文化を見つめ直して、近代的な権力統治の表通りを立て直す一歩に出来るか、問われているように思う。

2022年7月17日日曜日

手掌の老衰

 手術をして、左手が不自由になっている。なにしろ手の平を厚い包帯が巻いている。指は一本ずつ独立して露わになっているが、人差し指と薬指と小指は未だに痺れがとれない。ふだん左手がどれほどの役割を果たしているかに、気づかされる。

 歯を磨くとき、歯磨き粉をチューブからしぼり出すことが出来ない。指先というのは本葉に微細な加減を心得て圧を加えるってことをしているのだ。髭を剃るのも肌を伸ばすように押さえていたのだと、剃り残しの顎を撫でて思う。

 トイレの紙を切り取るのも両手でないと上手くいかない。手を洗うのも、水を流しっぱなしにしてから、液体ソープを左手の甲で押さえて絞り出して洗う。時間をかけると水を無駄にするが、致し方ない。

 シャツのボタンを合わせるのに、時間がかかる。袋から薬を取り出すのも片手では出来ない。水を扱って食器を洗うことも出来ない。手の甲で押さえておいて、右手で鋏を使ったり、小脇に抱えるようにしてペットボトルのふたを開けたりは出来るが、ふだん意識しない動作で辛うじて思いを遂げるって次第である。。

 摑む、摘まむ、触れる、軽く押さえる。その加減も含めて左手は、持つ、持ち上げる、圧す、支えてバランスを取るなど、微妙かつ精妙な動きをして躰全体の多様な活動を担っている。それに気づかずに暮らしてきたのは、まことにラッキーであったと、いまさらながら思う。

 ふと思い出す。中学の頃一時寄留していた家の義理の叔父は(戦争のせいであったろうか)片腕をなくして義手を嵌めていた。ときどき腕が疲れるのか、義手を外して(その先のない)腕の末端を撫で摩っていた姿が目に浮かぶ。青物市場で働いていたから、重い荷を抱え持って運ぶこともあったろうに、黙々と働いていた。あの叔父が、親元を離れて暮らす私のことを気遣って、ときどき優しい声をかけてくれたのも、あの失った左腕の不自由さが源ではなかったかと思い当たる。

 こんなことも言えようか。歳をとるってことは(手術をするかどうかに関係なく)躰の機能が衰えること。全箇所が一斉にってことはあるまいが、どこかが機能不全になると(それを代替する作用も働きはするものの)全体の動きに不都合が生じ、ついには動かなくなる。それを寿命というとすると、故障箇所が明白な場合は、その箇所が死因となる。だが、故障箇所が特定できず、躰の(全般的な)劣化によって機能不全が生じたとき、「老衰」と呼ぶのだと思った。

 今日(7/17)の新聞に名のあるフルート奏者の死亡記事が載った。「15日、老衰で死去、80歳」と。ああ、私と同い歳だ。私の場合、老衰(筋拘縮による左手掌)、80歳ってことか。

2022年7月16日土曜日

世相の読み取りと己が立ち位置

 実に鮮明で論理的な夢を見た。何かの集まり。一人の女の人が、自分の子どもたちのデキが悪いことを申し訳なさそうに話している。何か言わなくちゃあとワタシは手を挙げかけるが、何をどう喋っていいか、まとまらない。と、別のワタシが話し始めた。

「この土地に**と子どもに関する誰それさんの主宰する集いがあってね、二度ほどそこへ参加したことがあるんですが、そこでこんな話しを聞いたことがあります。」

 と前置きするのですが、なぜか彼の謂わんとすることが私ばかりか、その場にいる人たちには、分かってしまっている。二度ほど参加したというのは嘘、彼は話しに聞いただけだってことを。だが、続いて口にした彼の話がその嘘を、どうでもいいことのように思わせていた。こんな話しであった。

 この土地の集いの母親が起ち上がって、うちの子はデキはいいのですが、デキない子の心持ちを受け止めることが出来なくて、とっても非道い応対をしてしまうんですと、訥々と話し始める。それを伝える別のワタシは子細を言葉にしていないのに、なぜかその場の人たちはコトの転結を承知している。

 そうだ、あれは、非道かった、母親としてはどうしていいか困ったろう、と同情というか共感というか理解というか、当事者の心情共々どう考えたらいいものかと、その場にいる人たちは思案している。そのとき最初に発言したデキの悪い子どもたちを持った女の話は(そんなことを思い煩うなんてどっちでもいいじゃないと)相対化されている。デキのいい子どもの非道さが、どうして生まれてきたのかを、この社会の問題として考えようという気風が漂っていた。

 何だこの夢は、といま考えている。

(1)この夢に登場する人はみなワタシである。

(2)デキがいいとか悪いという人の特性の評価にはTPOがある。それが場を区別せずに(それを思う人の)心裡で使われて、アイデンティティになったり社会的な優劣に転化している。

(3)いろんなデキ・不デキの事柄の価値づけには社会的に優劣がある。人柄とか才能とか絵画とか音楽とか運動能力の何に力点を置いて価値評価をするかについては社会的集団的無意識がその優劣に働いており、社会的気風は、それを基準に(順接的に)考えるクセがある。

(4)上記の夢は、何処にどう価値評価するかを定めることなく中途半端。ただ皆さんの前に投げ出している。いつもの私からするとどちらに重心を置くか即断しているはずだが、そんなことはどうでも良く、ただその女はデキの悪い子のことを抱え込んで身を縮めている。その母親は世間的に評価の高いわが子の非道な振る舞いに途方に暮れている。そうして、この場のワタシ全員がそれをどう考えたものか思案している。

 これは、「ワタシ」の裡側「せかい」の目下の構図ではないか。

(ア)モノゴトにすぐに結論を出そうというこれまでのワタシのクセは、それ自体が啓蒙的なスタンス。だが、人の思案を共有するステージを構成するのがお前さんの立ち位置じゃないか。お前さんの考えというよりも、その場のミナサンの思索を噛み合わせ、流動化させ、次元の違うステージへ移っていくことが娯しい。己を空しうして場のすべてをわが身の裡であるかのように仮構する。

(イ)そこには、デキゴトを巡って浮かび上がるいろんな要素が粒子のようにブラウン運動をはじめる。それは、その場を共有する人たちが(みなそれぞれの人生の径庭を経て抱え込んだ様々な思念をもとに)繰り出すデキゴトにまつわる要素のもつ、細かな違いを押さえて、なおかつその違いを噛み合わせて、現在のモンダイが何処にあるかを探っていく。(ウ)上記のようにコトを運ぶ道筋を記すと簡単に思えるが、複数の人の持つデキゴトにまつわる要素というのは、ほとんどわからない。当人にだって、なぜ自分がそのように感じるのか考えるのかはわからないことが多い。ということはまず「わからない」ということを共有する。わずかに、その場に居合わせて表明された他者との差異によって浮かび上がる違いが、デキゴトにまつわる場面の展開にどのような作用をしているのか。その動きをとらえ、なにがしかの法則性を仮定しながら、共有できる理解にいたろうと試みる。

(エ)上記の(ア)に述べた「己を空しうして場のすべてをわが身の裡であるかのように仮構する」とは、デキゴトにまつわるすべてのヒト、その場に参加するすべての人の感性や感覚、価値意識などが、如何に自分のそれと異なるものであろうと、わが身の裡のこととしてとらえることである。これはちょっとした難題(アポリア)をはらんでいる。己を空しうしながら己の身の裡を対象として見つめてデキゴトにまつわって生起する感性や感覚や思念を理解するという離れ業をやってのけている。これが出来てこそ「せかい」を理解する土台が築かれる。

(オ)この夢は、先に起こった安倍元首相銃撃事件の子細が明らかになりつつあることに関連しているような気がしている。この事件を、単なる私怨によるデキゴトとしてではなく、社会的な関係に根因を持つデキゴトとしてとらえないと、表層の因果関係だけに終始して、事態の意味する頃を見誤ってしまうような気がする。つまり、現在社会の情勢分析として考えよという啓示であると受け止めている。

2022年7月15日金曜日

手術はブラックボックス

 午後の手術だが、前夜の夕食後は食べ物を口にしてはいけない。翌朝9時以降は、飲み物も禁じられる。代わって点滴が行われる。食べたいという気持ちにならない。

 16時と聞いていたのに、14時45分には看護師が来て、手術着に着替えさせ、両脚にエコノミー症候群を予防するストッキングをはかせる。事前に足首周りと脹ら脛の周囲を測っていた。踵と足の甲の部分が空いていて、なるほど履くとぴっちりと脹ら脛が締め付けられて緊張感が走る。これがどういう作用をするのか、教えてほしいと思った。

 8階の個室を車椅子で出て4階の手術室に入る。もうまな板の上の鯉だ。帽子を被せ、手術用ストレッチャーに乗る。ここまでに何度も名前の確認をする。今日の手術部位を私に確認するから、小指だけじゃなく、親指と人差し指の間のチェックもするというと、そうそう切るかどうかは様子を見てねと、執刀医が口を挟む。それで担当の執刀医が来ていると分かる。

 まだ3時だ。血圧を測り、心電計を取り付ける。看護師は足の様子を触り、気分はどうかと尋ねる。医師が向こうで世間話をしている。3人揃ったから始めようかといってるように聞こえ、随分いい加減だが、こういう雰囲気は悪くない。

 と思っていたら、私の名前が呼ばれ、聞こえますかという。はい、聞こえますと応えると、明日退院したいですかと聞く。具合が良ければ・・・と応えると、じゃあ、そうしましょうという。どこかへ移動しているようだ。6時半と誰かが口にするのが聞こえた。えっ、もう終わったの?

 気づいたら個室のベッドに戻り、パジャマに着替え、腕は上につり上げられ、心電計が取り付けられている。7時であった。左手は包帯でぐるぐる巻きにされ、痛みがある。看護師も指が痺れてますかと訊ねる。どの指も痺れ、切ったと思われる指と掌が痛い。点滴が二本。生理食塩水と抗生剤だ。熟睡はしていないが、眠ってはいたのだろう。看護師が出入りし、薬剤が取り替えられている。トイレに行くときはナースコールを押せという。最初の押したのは12時近くだったから、5時間くらいは寝たと思う。吊り上げた紐をほどき、心電計のつなぎ目を解き、私の体がふらつくのを支えるようにする。あとは3時頃、5時半すぎと点滴の効果が出てきている。

 医師は来ないが、退院は既定のこととして話しが運んでいる。いくつかの説明を受けたという書類に署名し、コンプライアンスおいうが、責任の在処は患者にありますよといわんばかり。単純明快は歓迎だが、この署名書類の多さは、ちょっと頂けないな。

 朝食後に3人の医師が来た。一部の包帯を巻き直しただけで、一人が小指をつかんで、ほらっ伸びるじゃない、良かったねと、小指が痛がっていることを意に介さず、私に笑顔を見せた。

 雨の病院駐車場の混雑渋滞で後れてきたバスに乗って来たカミサンを入口で出迎えて帰宅した次第。こうして私のはじめての手術体験は、な~にも気づかないで寝ているうちに終わってしまったのでした。何処をどう切ったかまったくわからない。ブラックボックスの手術であった。

何をどうするかが明々白々

 入院した。何時に何処へ行きどう手続きするかは、前回来院時に書類に記されている。提出書類を出し、3階の売店で手術時使用のお襁褓を買う。8階で日常の服用薬を預けたあと、個室へ通される。荷を置いて麻酔医のレクチャーを受ける。全身麻酔に伴う合併症や事故により、何万分の1~5の割合で死亡するケースもあることを知る。入れ歯はもちろんのこと、ぐらつく歯があるかどうかにも気を配る。場合によっては抜歯する事への同意書にも署名した。なるほど、こうした危険を承知して手術を受ける「責任」を法的にクリアしていくわけだ。

 部屋に戻ると、お昼が置いてあった。食べて歯を磨き終わった頃、看護師がやってきて、手術までに何をどうするか、準備と手順の説明を受け、全身麻酔と手術中の行動制限(術箇所の固定、術中の脚の拘束など)に署名する。部屋着、術中の着衣などレンタルを申し込むと直ぐに用意してくれた。

 部屋からは、芝川が二手に分かれたあとの見沼田圃の広々とした緑地が見おろせる。雨模様の天気に静けさが漂う。あとは本を読むだけ。トイレへ行きたくなり廊下に出て看護師にどこにあるかと聞く。部屋は何処? ここ、と指さすと部屋へ入ってきて、このドアがトイレと指さす。ハハハ、去年入院した皆野病院と異なり、部屋ごとにトイレがあるんだ。これはありがたい。

 コロナウィルス向けばかりではないだろうが、外部から雑菌を持ち込ませないようにする仕組みは徹底している。ロックとその解除は単純明快。清々しい。

 夕食までに一冊読み終わった。北村紗依『批評の教室――チョウのように詠み、ハチのように書く』(ちくま新書、2021年)。この方は50歳手前のシェイクスピア研究者、舞台芸術史、フェミニスト批評家という触れ込みだが、映画批評などをもっぱら楽しんでいて、面白い。本書そのものは、プロの批評家になるための入門書といっても良いようだが、著者は自分が面白ければそれだけで批評は価値があると考えているから、私のような素人にも楽しみながら読める。いや、楽しむというよりも、さすがプロは違うと感嘆させられる。参照する視野の広さ、しかもそれらを精読したと思われる形跡、そして自分の関心を身に引きつけて展開するだけでその世界が際立ち、それを読む人が集まってコミュニティをつくるというネットワーキングができあがる。いわばオタクたちの集いというわけだが、それはまた、プロの世界で際立つ批評のポイントにも通じる。でもまず、自分の楽しみを踏まえてテーマを絞り、関連資料に目を通すのが持続のコツといいながら、あまり楽しいと思わないテーマでも仕事だからと取り組んだケースを紹介して、ま、この程度は楽しみになるとお手前を披露する。

 一つ思うこと。「精読」は、自分を映す鏡を磨くような所作だ。きっちりと精読していけば、より自分の姿が浮かび上がる。この著者は、そうは書いていないが、市井の老人の胸中に澎湃と浮かび上がる「精読図」はその点に焦点が合う。何につけ、一つ一つ丁寧にわが身の裡と往き来する自問自答を積み重ねながら読むことが、わが身の裡に胚胎する知らなかった自分の発見につながる。それは、経てきた人生の時空を超えて往来しながら、じつは現在から読み替えも加えつつ、径庭を総括する趣になる。でも、あくまでもこれは、わが庭でのこと。わが庭からみた「せかい」の、違和感や驚嘆や感嘆を記し置いているだけだが、本書は「分析」において比類の無さを見せつける。映画批評にしても、一つの作品の由緒由来や類似作品をたどり、批評家の関心にポイントを絞って比較しつつ、その芸術性などの価値付けもしていくというこの著者の技は、若い人たちのエネルギーと蓄えを感じさせて、デイジー(雛菊)に思いを寄せたい心持ちになる。

 えっ? どうしてデイジー? ってお思いになった方は、本書をお読み下さい。

 いやいや、こうして個室に籠もってボンヤリと過ごしていると、人が生きる原点に戻ってきたような気分になる。どうして四国のぶらりお遍路の旅にこうした気分に浸れなかったんだろう。簡単素略な佇まいが、わが身に刻んだ幼い頃の、故郷の記憶によく見合っているのだろうか。

2022年7月13日水曜日

そぼ降る雨に見送られ

 自転車置き場の屋根を叩く雨の音が夢心地に響く。久々の本降りだなと思うが、目は覚めない。病院までどう行こうかとぼんやりと思案する。明日の手術に備え、今日は午前中に入院の日。術後の退院も「やってみなければわからない」と医師は3日はみておけという。しかも(私が尋ねたからだが)、その後一ヶ月は温泉はダメと口調が強い。

 手掌の手術にどうしてこんな大げさなと思っていたが、手術時間は2時間、全身麻酔、筋縮している小指の腱には神経や毛細血管がまとわりついていて、それを手術のときに傷つける可能性もあると聞かされ、容易じゃないことだけは伝わってくる。そう分かると、手術なんかするんじゃなかったかなという思いが浮かびあがるが、いまさら止めますとは言えない。そこへ加えて、医師は「なぜ筋縮が起こるかはよく分かっていないが、突然痛みもなく発症して、気づいたら筋縮が広がっていることがある」と、小指以外の部位を触診して親指の方にもその予兆があると呟く。それも今回切開したときに様子を見てみるというから、ますます只事ではないという気配が濃くなる。

 朝風呂に入ってから来いとか、爪を切ってこいとか、シャンプー・ソープ、おむつを一組もってこいとか、いろいろと指示が多い。去年山の遭難事故で入院したことがなかったら、慌てふためくところだ。だが、パジャマや手術用の浴衣はレンタルもあります、おむつも売店で一枚だけ売ってくれますと記されている。寒い季節じゃないから、ほんとに往き来の衣服と下着何枚かだけを用意して持ち物は簡素そのもの。

 自転車で行こうと思っていたが、医師は「車とか自転車は、最初から用意しない方が良い」と、手術の結果をみてからと慎重であった。近くの駅からバスで16分。タクシーに乗ればとカミサンは言う。だが、タクシーを使ったりするとほんとの病人になるような気がする。ネットを見ると、午前中は降水確率は60%だが降水量はゼロ。外へ出てみると雨は上がっている。バスで行くことにした。

 入院時に付き添いが必要と「入院案内」にあったし、入院案内看護師はどなたが来るかと聞く。だが担当医師は、来なくていいですよという。来てもコロナもあって部屋には入れないし、面会も出来ない。こういう現場医師の判断は、なんとなく好ましい。信頼というのは、こんな些細なことから紡ぎ出されるのかもしれない。

 さてそういうわけで、これから荷造りをしてシャワーを浴びる。パソコンは持っていくが、wi-fiが使えるかどうかは分からない。いつ退院できるか分からないというのは気に掛かるが、ま、成り行き任せ。ひともすなる手術というものをわれもしてみんとて、行ってきます。

 このブログも、したがって、退院してくるまでお休みです。ではでは。

2022年7月12日火曜日

対象が漠然とするわけ

 安倍元首相の銃撃について「安倍晋三を死なせたのは誰か」と記事があるのを読んで、ほほう、そんなことがあるのかと思った。安倍銃撃を誘ったのはSNSやいろんなメディアを通じて悪口を投げつけ安倍元首相を口撃していた世の風潮だと言う。なんとなく針小棒大なものの言い方だと思った。書いたのは、フジTV上席解説委員の平井文夫。

 どんな方かと「検索」したら、なるほど彼が身を置いている「世界」が悪口雑言に満ち満ちていると分かった。ほとんど見出しだけだが、2年前から彼に触れた非難がならぶ。嘘、でたらめ、でまかせ、大誤報とか、「坂上忍の監視員」などとある。TV番組での発言が取り上げられているから、喋る方もウケを狙い、非難する方もそれに輪をかけて悪罵を投げつけるって構図だろう。ひょっとすると安倍晋三元首相の身を置いていた世界も、似たり寄ったりだったのかもしれないと、ツウィートやSNSと縁のないわが身との隔たりを思った。

 だが、と立ち止まる。平井文夫の言う「悪口雑言の風潮」という狭い世界の犯人捜しよりも、宰相という政治的立場がもつ象徴的な意味が、今回の銃撃対象に選ぶことにつながっているんじゃないか。とすると、7月10日「民主主義への挑戦?」で記したふじみ野市の立て籠もり事件とか大阪の心療内科クリニック放火事件のようなケースとしてみるというよりは、秋葉原の通り魔事件のように、攻撃対象は誰でも良かったケースと同じような感じがする。

 今の時代、社会的事象に対して、誰に責任を求めたらいいか分からないことが多い。社会システムがそうなっているから、そうでしかなかったということが結構多い。社会システムの責任は誰に問えばいいのか分からない。となると、その象徴的な存在として政治家とか企業経営者とか、ただの市民という人たちが目に浮かぶ。つまり現代社会の関係的存在の茫漠とした形が、象徴的存在という有り様や、言葉が持つ表象性が落ち着きどころを探して、行き着いた先が安倍元首相だったってことではないか。

 となると、アメリカの学校や街での銃撃事件同様、何にぶつけていいか分からない「憤懣」が鬱積して爆発するのであるから、「民主主義への挑戦」などという生やさしいものではなく、社会全体に対する鬱憤を晴らす行為の象徴のような事件と言わねばならない。これは、今回の銃撃犯のケースと特定するだけでなく、もっと底広く世の中に広がっている鬱屈の根に目をあてなければ、何処に噴き出すか分からない。いや、政治家の警護を強化するという、何処に噴き出すかという対処療法ではダメで、もっと根柢的に社会をどうつくっていくかを考えて行かねばならない。

 安倍晋三の功績が、それに見合うものかどうかを見極めて評価しなくては、また同じ頃が繰り返されるってことを、図らずも平井文夫さんのコメントは示しているようだ。

2022年7月11日月曜日

タイトルだけの集まり

 今日は東奔西走した。といっても、せいぜいさいたま市の中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりしただけ。でもそれだけで、この暑さもあってすっかり草臥れて、ボーッとして過ごしてしまいました。

 午前中は5kmほど離れた市立病院へ行き、コロナウィルスのPCR検査。明後日から入院するのに、必須の条件。ついでにちょっと聞いておきたいことがあって相談窓口へ行った。偶然私の前に入室した老人が持っていた用紙が私の質問と同じ「誓約書」。彼の老人は、「どうして連帯保証人は、入院患者と別世帯の独立した生計を営む人」なのか説明してと口にしている。そう、それ。私はすでに連帯保証人欄へ家のカミサンの名を書き入れている。「これじゃダメか」と訊く。窓口の人は「入院受付の人に聞いてくれ」とたらい回し。二人の老人が、そちらへ行くと、番号札を取れという。続けて取ると、どうぞこちらへと椅子をすすめる。そして、同じ問いを繰り返す。入院受付の人は、「そういうことになっている」としか応えられない。それでいて、「欄外に連帯保証人欄を空欄にしなければならない理由を書いておけば、それでいいです」という。

 彼の老人は「どうしてなのかを説明してと言ってるのだが・・・」と納得しない。だが受付の人は、それ以上は応える必要を認めないというか、応える権限を持たないというか、応えようとせず遣り取りを打ち切ってしまった。

  私は「息子が遠隔地にいて」とだけ書き添えて、このまま提出しようと決めた。彼の老人は納得しないまま部屋を出て行ったが、さてどうしたものだろうか。

 そのあとでPCR検査を済ませ、一旦家へ戻ってから西大宮へ向かった。

 6月の四万十の旅の「反省会」をするからと、集合の声がかかった。鳥の専門家たちは仲がいいのだ。私はほとんど門前の小僧であるから師匠の縁でつながっているだけなのだが、じつは十年ほど前にコスタリカやアラスカへ行った折、アメリカ人のバードガイドと昵懇のMさんという野鳥の会の古老が顔を出すというので、ご無沙汰を詫びる意味もあって、会いにいったのであった。

 ところが、西大宮のタイ料理レストランは、テーブルの間にアクリル板を置いて仕切っただけの開放的な設え。前後左右に他の客がたくさん座っていて、賑やかだ。いかにもコロナ禍から自由になったという雰囲気に満ちている。ちょっと遅れていったこともあって、すでに他の方々はメニューの注文を済ませている。四万十の「合宿」では生ビールを皆さんで飲んでいたから今日もそうなるのかと思っていたのに、皆さんクルマできているという。パソコンで「合宿」の写真を写しておしゃべりしようと考えいたようであったが、それも叶わない。食事を済ませ、紅茶やジュースを飲みながら軽くおしゃべりをして解散となった。何だか、タイトルだけの集まりに顔を出し、何をしたのかも分からないままに解散したような気分であった。

 それなのに、帰ってきてから後、何もやる気が起きない。パソコンを開くことも億劫になり、いつもなら寝る時間の今ごろになって、やっとこうやってよしなしごとを書き付けている。じつは先述のMさんは私の一回り上の午年。御年92歳だが、まだ山歩きとする気力があり、この集まりがあると知って私のところにメールが届いた。そこでは、7年前に私が書いた「オーストラリア・ノザーンテリトリーの旅」のことに触れて、面白かったとお世辞を記していた。矍鑠たるものだ。

 今日もしっかりと食べ、話す口調もしっかりとしている。いや、わが身に引き換えてみると、あと12年後にこういう状態をでいるのは難しいなと思うほど。いやそこまで生きられるかどうかもわからない。

 Mさんの顔を見ただけで今日の集まりは十分だったと自分なりに意味づけをして、あらためてあと12年の寿命へ向かおうと思った次第です。

2022年7月10日日曜日

安倍銃撃事件は、民主主義への挑戦なの?

 安倍晋三元首相が銃撃され死亡した。まだそれほど子細は明らかにされていないが、メディアが「民主主義への挑戦」と報道したり解説しているのに、違和感が湧く。確かに選挙中ではあった。街頭演説中の元首相が対象となると、選挙を妨害するとか、政治的背景があるのではないかと推測するのは、ま、当然である。

 だが容疑者当人は「母親の宗教的関係への恨み」と喋っていると報道されている。安倍元首相がその宗教団体と関係が深かったともいっているという。となると、政治的動機というよりは、私怨というか、今年1月に起きたふじみ野市の立て籠もり事件の犯人が亡母の診察をしていた医師を散弾銃で殺害したのと同じようなケースではないかと思った。となると、この事件の真相に迫るには、ふじみ野市の事件や去年12月の大阪の心療内科クリニック放火事件のようなケースと同じように考えていかないと、事件の本質を見誤るのではないか。もし関連付けるとすれば、それがなぜ元首相を銃撃対象とすることになったかという点で、政治システムとの関わりが浮き彫りになるかもしれない。だが「民主主義への挑戦」という文脈で受けとるのは無理があるのではないか。

 もし牽強付会に「民主主義への挑戦」であったと考えると、安倍元首相と銃撃犯のいう彼の宗教団体との深い関係があったかどうかはわからないが、銃撃犯があったと思い違いをする程度には「なにがしかの」関わりがあったのであろうか。その関係がもたらすなにがしかのモンダイを銃撃犯が(どこかに)訴えていたにも拘わらず、安倍元首相またはその関係者が取り合わなかったのかもしれない。モリカケや桜を観る会など元首相が啖呵を切るように知らぬ存ぜぬと繰り返し、行政的な手はずをそれに沿って整えさせるという手法は、「民主主義への挑戦」とも言えるようなモンダイであった。でもまさかそんな文脈でメディアが報道するはずもない。

 じつはこの元首相は、議会制民主主義がどれほど権力者にとって好都合に出来ている(国民にとって)危うい仕組みであるかを如実にみせてくれたという意味で、現今の民主主義の本質をよく体した政権運営をしたと私は受け止めている。憲法の規定は権力を抑制するものという私の法制観は内閣法制局の解釈によって簡単に覆った。しかも解釈を変更したわけではないといえばそれが通ることも政治の現実なのだと教えられた。集団的自衛権もそうだ。きちんとした議論を経て、国民の意見を付き合わせたわけでもなく、宰相がどう考えるかによって官僚たちが辻褄を合わせる。モリカケに至っては、宰相の言質を正当化するべく辻褄合わせをせんがために「行政記録」を書き換えさせることまでやってのけた。これは、安倍元首相が口を極めて誹る「押しつけ憲法」によって戦後民主主義教育を受けた私たち世代の民主主義法制度観をひっくり返すものであった。私は習近平(が香港や台湾に対して振る舞った態度と)と異なり、自分の都合の良い理念(内政不干渉)だけを取り寄せて、不都合な(中国本土と社会も政治システムも異なる自律的な)現実を無視するようなことはしないから、さっさと私の理念のほうを修正して、実際に展開する現実を受け容れるリアリズムへ切り替えはした。でも、私の長年抱いてきた理念の由緒由来と、それがひっくり返ったきっかけとかワケは、見極めておきたいと思っている。

 そう考えてみると、安倍元首相の政権運営は、まさしくホッブズの謂うリヴァイアサンであることを示していた。主権をすっかり政権に丸投げして選挙のときだけ主権者気取りで過ごしてきたわが身の不甲斐なさを証しているように思えた。どういうことか。選挙は、たしかに政権の正統性を保証する。だが、そこまでが国民主権であって、あとは、政権保持者が官僚組織を取り込んで、謂わば勝手に国政を行っている。立法府という国会があるじゃないかと誰かが言うかもしれない。だが国会の議論は、国民の意思にどう耳を傾けているだろうか。立法府の政府提案以外の法案はどれほど提出され、そのうちどれほどが成立しているだろうか。あるいは、議員提出の法案にしても、それの作成にどれほどの僚組織の助力に拠るところが占めているかを考えてみると、ほとんど行政権力の独裁制といってもいいくらい日本の政府権力が強い。それを如実に証してみせたのが安倍政権であった。あるいは安倍政権を継いだ菅政権は、行政的な実務に邁進することが政権運営の本務とばかりに、説明責任さえすっぽかして、つまらない常套句を繰り返して良しとしてきた。これもまた、アベ=スガ政権が「民主主義への挑戦」をしてきたと思わないではいられない事実であった。

 さてそういうわけであるから、安倍元首相の銃撃時間を「民主主義への挑戦」と呼ぶのは、安部宰相時代に何が行われてきたか、その間に日本の民主主義がどう転換してきたかを忘れさせてしまうことになるのではないか。そう私は懸念している。どうしてこういう文脈の勘違いが起こっているのか。なにかそこに、マス・メディアを含めた現代日本の政治を見つめている人たちに共通する「片寄り」があるのではないか。そこら辺を解き明かす政治哲学の登場を、そろそろ待ちたいと願う心持ちである。

2022年7月9日土曜日

楽園の将来

 宮古島から帰ってきました。3泊4日の探鳥の旅でしたが、私にとっては初めての宮古島。他の3名の人たちは鳥観の達者な専門家。もう何度も宮古島に足を運んでいる。相変わらず私は門前から中に入ろうとせず、師匠の縁に導かれて門内境内の達者たちを見て驚嘆してばかりです。でも先月の四万十・ヤイロチョウ探鳥の「合宿」の旅と異なり、車で移動することが多く、毎日の歩行は8千歩くらいのもの。食事も、ホテルの朝食は別として町中の食堂での昼食やレストラン、居酒屋での夕食となり、食べ過ぎるということがなく、体にはやさしい旅でした。

 石垣島よりも小さいが、コンパクトにまとまったリゾート地の風情に驚きました。宮古島というのは、底辺の長い二等辺三角形の等辺の一辺が東西に30km余延び、南北にもうひとつの一辺がやはり30km余延びて、長い底辺が南東から北西へ50kmほどあるという姿。三角形の頂点に小さい来間島(くりまじま)が橋で結ばれ、北西の頂点の先に池間島が橋で繋がり、南北辺の中央部の4kmほど西に大きな伊良部島と小さな下地島が、日本一長い無料の伊良部大橋で結ばれている。他にも大小取り混ぜて島は点在するが、今回それらは見るだけの宮古訪問となった。

 リゾート地風情というのは、建築中かと思われるものもふくめて、平屋のコッテージが軒を連ね、聞くと、リゾート開発が進んで、完成した建物を別荘地のように求めたり、移住してきて暮らす人が増えていたが、ここ2年半以上コロナウィルス禍で凍り付いたように止まってしまった。建築途中で放置されたり、購入はしたものの足を運ぶことがなくなってしまったりしているという。やっとここにきて、コロナが落ち着くかなということで工事が再開されたところもあるが、またぞろ三桁の感染者数が出て、人口比では全国トップクラス。それもこれも、観光で成り立っている島に人がやってきて、ウィルスを持ち込んでいるからに他ならないが、痛し痒しというところのようだ。

 来島客は多い。羽田からの直行便はANAやJALとあり、満席であった。那覇との便は1日何便もあり、石垣島との便も運行されている。帰りの空港は、そちこちへの乗客でごった返し、手荷物検査が追いつかない様子であった。手荷物検査が終わってから、土産物店で泡盛の古酒でも手に入れようと私は考えていたが、検査が終わってみるともう搭乗がはじまっていて、土産物屋に目を通す余裕はなかった。

 島を訪れる観光客が多いというのは、夕食のレストラン・居酒屋で痛感した。予約がなければ入れない店が何軒もあった。お昼も満席で、断られることが何カ所かあった。ウィークデイ。若い人が多い。現地のガイドをしてくれた石垣島在住のMさんの話だと、十年くらい前は5万人だったのが、5年前には5万5千人、今は6万人ほどに増えているらしい。人口が増加しているとすると社会増だろうが、本当にそうかどうかは、詳しくチェックしてみなければならない。ただ、年寄りの数が埼玉に比べて少ないとは感じた。リゾート地としての仕事が増え、しかし移住してくる働き手たちの住むアパートが間に合わず、新築する端から契約が埋まっていくという。他方で、使い古した公営住宅の廃墟も結構多いように見受けたのだが、一体これらはどうしたのだろうか。

 一つ気になったのは、上空から見ても高い山がないこと。せいぜい標高50mもあればいい方。川はない。水はどうしているんだろう。地下水だそうだ。たぶん50m程の深さのところに水を通さない岩盤が緩い傾斜で層を成し、その上に層を成している浸透性の良い珊瑚の堆積層に染みこんだ雨水が地下水をとなって海へと続く。その要所要所に堰止める擁壁を打ち込み、言わば地下ダムを造って水を確保している。それをポンプで汲み上げて高台の上に大きな水槽タンクを設え、そこから飲用水や農業用水、工業用水も供給しているという。昭和62年頃に工事を施したというから、本土はバブル経済のとき。まだ40年経っていない。その頃までは随分と水には不自由していたにちがいない。ホテルの水道水は飲み水としてはうまかった。

 サトウキビ畑が広がっている。マンゴーを育てるハウスが畑に棟を連ねている。石垣島ほどには水田がない。豊富ならざる水のせいか。

 関東と違って日の出日の入りが1時間ほど遅い。それもあって、4時頃に起き、5時前に出発して8時過ぎまで朝探鳥。朝食を済ませてから再び出発して夕食を済ませてホテルに戻るのは9時頃という行程を、足掛け4日間続けて過ごしたのは、ヤイロチョウのときと同じ。気温は関東とほぼ同じ。日差しは強い。だが、車の冷房装置もあって、疲れ方は格段に少なかった。

 石垣島同様、この宮古島もガイドをしてくれたMさんの自然観察動物園という風情で、掌を指すように何処にどんな鳥がいて、どうやれば見ることができるか熟知している。そのガイドに沿って、早朝から夕方まで鳥三昧に過ごした。中でも南東端の東平安名埼の港から沖合2km程のところにある岩礁(パナリ)に集まっているクロアジサシ、マミジロアジサシ、ヒメクロアジサシの群れを観に行ったときには、10人乗りの漁船に船長を含めて6人がのり、岩礁近くに何度も船を寄せてなかなかスリリングなお邪魔の仕方をした。満潮を狙って出かけた。潮が足りないときに近づくと、3人ほどの乗船で船底が岩について、海に降りて押すようなこともしたというから、ライフジャケットを身につけたのも、あながち大げさではないのかもしれない。

 こうして、私ごときが目にするのも勿体ないような鳥観の専門家たちを見て、彼が交わす言葉を間近で耳にしてすごしたことは、人が持つ才能の奥行きをたっぷりと感じさせてくれました。いまさら私が手にするのは、もう遅いのですが、でもそういう才能を持った人たちの近くにいてその発露を感じて過ごせただけで、もって瞑すべしだと思ったのでした。楽園の門前から、ちょっと中を垣間見せてもらい、そこに身を委ねる雰囲気の端っこを味わって来た次第です。 

2022年7月5日火曜日

氷河崩壊のマルモラーダ

 イタリアで氷河が崩壊したとニュースが流れている。ドロミテのマルモラーダ。2013年の7月に故加藤滝男さんのガイドでここに登った。2013年は雪が深く、アイゼンを蹴り込んでも引っかからない。フェラータにセルフビレイのカラビナを引っかけて上り、最後の深い雪面は、膝で雪を圧し固めて、足場をつくり、ストックを差し込んで身を持ち上げるようにして登り切ったことが、思い出される。70歳の年。最年長のAさんは82歳であった。もう一人の同行者は67歳のNさん。滝男さんはAさんの山の教え子。その縁で私たちもご一緒することが出来た。帰国後の2013年7月10日~18日にかけて、8回にわたって「ドロミテを歩く」をブログにアップしたが、そのブログサイトは2014年に閉鎖になって、現在のこちらに引っ越してきたから、今はもう見ることはできない。

 たくさんの人が登りに来ていた。今回の犠牲者が多いことも納得できる。

 そういう事情もあり、今回氷河が崩壊したマルモラーダを歩いたときの記録だけを抜き出して再掲する。2013/7/14と2013/7/15の2回にわたって書いている。


            □ ドロミテを歩く(4)いよいよ山頂間近の稜線に躍り出る


★ 一挙に雪原の世界へ


 晴天。8時半からのリフト運転なので、それにあわせて、朝はゆっくり、7時半に朝食。8時40分にはリフトの人になっていた。

 2074mから2626mまで登るリフトは、約1mの高さの柵に囲まれた縦1m、横50cmくらいの長円形の籠。後ろの短辺の一端が開閉できて、そこからリフトに乗ると係員が後ろ扉を閉じてくれる。イスはない。だから着くまで立っているしかないもっとも座り込んでいる人も見かけたが)。前方がだんだん開けてくる。中段を過ぎると、雪をかぶった氷河と高い岩山の岩壁と雲におおわれた山頂方向が、視界に巨大にかぶさってくる。リフトでもってマルモラーダに呑みこまれていくような感触がある。

 うしろをふりかえると、下方のフェダイア湖が青っぽく湖面を広げている。その向こうに、マルモラーダに対峙するように、これまた巨大な山、ピッツボーエ3152m、サッソルンゴ3151mが鎮座する。これらもまた、雪をかぶって威風堂々たる風格をみせている。風はなく、静かな神々の世界へ登っていくような気持ちになる。東を見ると、遠くに昨日麓を通ってきたチベッタ3220mが聳える。西にはマルモラーダに隣接するグラン・ヴェルネル3210mの雪もつかない岩壁が視界を塞ぐ。


★ アイゼンの雪を食む音の気持ちが引き締まる


 リフトを降り立つ2626mは、雪ばかりの世界だ。駅舎とレストランがあり、ここまでは軽装、ハイヒールでも来ることはできる。じっさい、その展望を愉しむために上がってくる人も少なくない。その前の小さな広場で登攀の用意をする。ハーネスをつけ、アイゼンを装着する。

 何組かの用意を終えたグループが出発する。チェコ軍の関係者が休暇で来ているのであろうか、6人ほどでパーティを組んでいる。なぜチェコと分かるか。リフトの駐車場に止めた車のナンバーから、国名がわかるという。加藤さんが話しかけたとき、チェキッシュ(チェコ人・チェコ語)という言葉が聞こえた。

 サクサクとアイゼンが雪をかむ音が、登ろうという気持ちをまっすぐに立てる。加藤さんはピッケルをザックにつけザイルをしまって、先頭を歩く。Aさんがそれに続き、ゆっくりした歩調。私たちはストックをもってバランスを崩さないようにしている。

 Nさんは久々の雪山に心が躍っているようだ。思えば25年も前になる。彼とザイルを組んで、前穂高の北尾根を歩いたことがある。5月の連休であったか3月末のころであったか忘れたが、深い雪の上をNさんが先行し、私が撓んだザイルをまとめて後を追った。細い稜線の、たっぷりの雪の上の縦走は緊張を強いられた。もし彼が上高地側に滑ったら私は涸沢側に身を投じなければならないと考えながら、片時も気持ちを緩めることができなかったことを思いだした。それに比べると、今日は気楽だ。

 30分ほど登りひとつの丘に立つと、これまで岩峰に隠れていた小屋が見える。まだかなりの部分が雪に埋まっている。そちらへの指標も雪面に顔を出す。踏み跡はまだないから、いまのところ誰もそちらに向かっていないのであろう。ところどころ、氷河のクラックがあるのではないかと思われる、少し色の変わった凹みがそこここに見える。加藤さんの話では、3日前にも2m位の積雪があり、こういうときの氷河の裂け目は新雪におおわれて危ないという。

 Aさんが「ここから引き返す」という。私たちの足を引っ張っては迷惑と思っているようだ。加藤さんがいくつか待ち合わせ方法を打ち合わせて、彼はリフトの方へ引き返していった。Aさんは82歳。加藤さんが山をはじめたころの「師匠」にあたる。2人であちこちの山に登った話を、道中でも聞いた。Aさんからすると加藤さんは出藍の誉れである。今回加藤さんが案内を引き受けてくれたのも「ドロミテの最高峰に登りたい」というAさんのたっての依頼があったからだ。ドライブにしても、navi役を務めるAさんと運転役の加藤さんの息はぴったりと合っている。私たちは、加藤さんが同道してくれるのならぜひとも、と参加させてもらった。私たちからすると加藤さんは、雲の上の人。その人の歩き方、ザイルの使い方、ガイドの仕方を観させてもらう機会は、まずない。


★ フェラータという固定ルートの安心感


 チェコのグループが追い越してゆく。彼らの歩調は速い。背も高い。2mちかいんじゃないか。さすがヨーロッパ人だとNさんが感心してみている。加藤さんは、ときどき振り返って、Aさんが無事にリフトに着いたかどうかをチェックしている。リフトの裾で手を振っている姿を認めてからは、振り返らず、ぐいぐいと登って行った。傾斜は急になる。先行した人たちの姿は、ガスにおおわれてぼんやりとしか見えない。

 斜面に何筋か、雪崩れた形跡が見える。その雪崩が押し流してきた雪の塊、大きなデブリを乗り越えて、さらに上る。先頭のグループが雪面から岩稜に取りつきはじめているのがわかる。ガスは濃くなったり薄くなったりしながら、両側の岩壁が立ちあがって雪の傾斜をさらに強める。

 岩壁のところどころに穴が開いている。「あれが戦争のときの攻撃と防備の岩穴ですよ」と加藤さん。飛行機による攻撃に絶妙の効果を発揮したという。中がつながっているのもあるそうだ。ベトナム戦争のときのベトコンのトンネルを思いだした。ああいう穴を穿つ、その途方もない辛苦と忍耐と執念がいまだにつきまとっているかのようだ。いまはぽつんと高い岩壁の中ほど、どうやったらあそこに行けるだろうかと思えるような箇所に、往時を偲んでにらんでいるように中空の眼をあけている。

 急な傾斜の雪面をトラバースして岩稜に取りつく。ハーネスに着けた自己確保用のシュリンゲロープ)を使う。全長5mの長さのシュリンゲの中間を自らのハーネスにつけ、両端末をしっかり結んでカラビナを装着する。そのカラビナを、岩稜に固定された径15mmくらいの太さのワイアに掛ける。そのワイアは5mほどごとに岩に固定されている。カラビナをかけ替えるときに必ず一つはワイアにかかっているようにすると、万一何かの拍子に滑落したとしても最大5mの滑落でとまる、という仕組みだ。これだけで、登山パーティがザイルを結んで確保する手間と緊張感とが解消する。一人ひとりが自らをシュリンゲで確保できると、岩稜のぼりのときに両手が使えるというのも、いい。何人ものパーティが同時に登攀できるのも、効率的だ。このワイアのルートのことを、フェラータと呼んでいた。このフェラータが設えられているせいで、単独行の人も(技量に応じてだが)安全に登ることができる。

 ところが今年は積雪が多く、上部のフェラータが雪に埋まっていた。ちょうど、稜線に出る手前8mほどのところが雪におおわれたステップになる。見上げると、すでに登頂してきた人たちが、下山しようと、様子を見ている。もちろん私たちが登るまで見ているのだが、加藤さん、Nさん、そして私と、1人ずつ雪面にストックを突き刺して、アイゼンの前爪を蹴りこんで身体を引き上げてゆく。

 こうして、山頂を望む稜線上に出た。山頂はまだ、くっきりとみえない。


              □ ドロミテを歩く(5)岩と雪に身体がなじみ至福の時


★ 開店早々、雪に埋まる山小屋


 稜線に出てみると、岩壁の反対側は広い大きな山体を思わせる雪原が広がっていた。といっても平らではない。雪の向こう側は崖になっているのかどうかわからない傾斜をしている。スキーのシュプールらしい跡が残っているから、ここを昨日あたり滑り降りた人がいるのであろう。

 加藤さんは下山してきた人に上の様子を聞いている。雪が多く抜けることを断念したとか、ガスのなかで、山頂までもいかないで引き返している、という話をしているようだ。あるいは、「何、山頂までは20分だよ」と軽快に往復してきたことを告げるパーティもあった。

 私は、今自分が登ってきたところを、下る人たちの様子を見ている。登るときよりも、下りの方が高度感が大きい。わずか8mの雪の壁がその下の岩壁も一目に収め、切れ落ちて断崖絶壁にみえる。下山する人は、一人ひとりピッケルをとりだし、ずぶりと雪面に突き刺してアイゼンのつま先を蹴りこんでいる。もう別の隊は、ガイドらしい人がピッケルを上部の雪面に打ち込みそこに支点をとってザイルで降りる人を確保している。加藤さんはあとで、あのガイドは基本的な確保をしていたと評価していた。

 山頂部が少し見えてきた。加藤さんを先頭にザイルを結んで、歩きはじめる。雪が少し和らいで、アイゼンの底にくっつきはじめる。一歩一歩踏みしめて、前へすすむ。ガスが濃くなったり薄くなったりして、どれくらいすすんでいるかわからない。20分で行けるって言ってたがもう30分だぜと自分に愚痴を言いながら、でも歩を休めない。山頂の十字が見える。十字のモニュメントを建てているのだ。加藤さんはしかし、それと違う方向に歩を進める。そちらに小屋が見えてきた。ほとんどが雪に埋まっているが、裏側に通じる踏み跡が開かれている。最近2mの積雪というのが、実感としてよくわかる。

 小屋の前には、雪をかき分けて木のベンチが設えられてあり、3人の人たちが休憩している。ドイツから来た人たちらしい。そのうちの女性が「まもなく71歳」という。なんだ私と同じじゃないか。「1942年生まれですよね、私と同じだ」というと、そうだ何月生まれだと聞く。10月というと、「私は9月だ」とうれしそう。負けた。この女性をガイドする男性2人も同じくらいの年齢だ。ザイルで結んでいる。ピッケルも持っている。こういう歳になっても、こうした山に登れる、それがうれしい。

 コーヒーをトレイにのせて持ってきた人がいる。小屋が注文を受けてサービスをしているのだ。単なる避難小屋かと思っていたが、営業小屋らしい。加藤さんがすかさず、私たちにもコーヒーをと頼んでくれる。お昼の生ハムを挟んだパンにかぶりつきながら、暖かいコーヒーを頂戴する。飲んだカップを返しがてら小屋を覗いてみる。30歳くらいの若い人がひとりで小屋番をしているようだ。

 聞くと、3日前に雪をかき分けて小屋をあけた、これから3か月、ここで小屋番をする、という。小屋の奥の部屋には寝具や何やらがまだ片付け途中のように散らかっている。その向こうの窓は半分雪が塞いでいて暗い。小屋の南側はすっぱりと4、500m切れ落ちた断崖。

 十字架のところに行く。高さ4mはあろうか。十字に組んだ立方体の鉄の骨組みの下の方に岩を詰めて重しにしている。視界が開けてきた。その先のフェラータは完全に雪に埋まり、山頂部を超えて向こうの雪原に出るのは難しい。登ってきた道を引き返すことにする。


★ 快調な下山、一番の至福


 下山は快調であった。ほんとうに15分ほどで稜線の、崖を下るポイントに来る。ここの下山は、私がザイルの先頭になり、最後尾を加藤さんが確保してくれる。登るときにふりかえってみた8mの雪壁は、すでに何人かの下山者が踏みしめて、ステップを切ったように踏み跡が残る。ストックを雪面に突きこんで、足をステップに降ろす。次のステップを見極めて降ろす。ところが、先行者の歩幅が大きい。がたいの違いを見せつけられたようだったが、難なく岩のところに降り立つ。ついでNさんが降りる。彼は原則的にアイゼンのつま先を雪面に蹴りこんで降りてくる。そうかああすれば、歩幅の違いを気にすることもなかったと思う。加藤さんもつま先をキックしながら降りる。

 ここから標高差150mほどは、岩壁のフェラータを伝った下降になる。フェラータをつかんでもぐらりと来ない。ストックを腕にぶら下げ、右手をときに左手をフェラータに掛け、カラビナの確保をしながら順調に下る。Nさんとの間のザイルがあるから、引っ張りすぎないように、たるみすぎないように歩度を調節する。

 このとき感じたのだが、登るにつれ下るにつれて身体が雪や岩になじんでいくのがわかる。どこかごろごろした違和感があってそれが緊張感に連なっていた歩きはじめ。それが、急斜面に慣れてきてステップを切るのが無意識にすすみ、岩角をつかむのも、アイゼンの足をうまく岩棚にのせて身体を押し上げるのも、ほとんど意識を経過することもなくパッパッと運ぶ。下山のときの脚の置き方もどこを見るかも掌を指すように動きが先行して、気がつけば降りているという感触は、この世界に身体がなじみはじめていることを示している。いつも思うのだが、これこそが、こうした世界に身を置く一番の至福だ。

 岩壁を降りたったとき、目の前を、先ほど小屋で顔を合わせて挨拶をしたドイツ人の3人パーティが先行しているのに、追いついた。彼らは、しかし下山の、雪の急な斜面の方に向かわず、雪面をトラバースしている。はて、向こうの大きなクーロワールを登り返すのだろうか、と思いながら見ていると、彼らの前方の雪面が雪崩れはじめる。音もなく、すーっと上方から崩れ、雪を集めて下方へと流れる。「あっ、雪崩れ!」と私は声を上げる。彼らも足を止め、それを見ている。午後の気温が上がっているせいで、表層の新雪が雪崩れ易くなっている。ドイツ人パーティも、道を変えて、私たちの方へ軌道を修正した。

 急斜面を下ってザイルを解き、まずは雪崩のデブリを過ぎるところまで急ぎ足で下る。加藤さんがひざを痛めていたことを、このとき知った。Aさんからマルモラーダに登りたいと依頼を受けたとき、加藤さんはひざを痛めていたのだそうだ。もし直らなければ、代わりのガイドを紹介するとしていたが、Aさんは「加藤と一緒に行きたい」と懇願したという。それもあって、加藤さんはだいぶ無理をしていたようだ。申し訳ない。そういう気配も見せない彼のガイドぶりには頭が下がる。


★ 無事の下山を祝う


 視界が良くなった。日差しが照りつける。下を降りていくパーティも見える。雪崩の後を示す筋が多くなっている。小高い丘を越えるとリフト乗り場の建物が目に入る。疲れが消える。

 さらに下方のフェダイア湖が青色を深くしているように思える。その向こうのピッツ・ボーエのピラミッドが鮮やかに所在を主張している。その西側のサッソルンゴの二段重ねの頂上部が俺だってと胸を張っているようだ。途中、ストックをひとつ拾った。まだ新しいLEKIの奴だが、先行者がザックに括り付けていて落としたものだろう。リフト乗り場にもっていけばわかるだろうと拾って下山を続ける。下につき、加藤さんが声をあげても、落としたと名乗り出る人はいない。加藤さんは、リフトの管理事務所に預けた。「ありがとう、連絡があったら渡します。」と応対があったというが、その響きには、こういう細かいことが、この土地とガイドに対する信頼を高めるのだという思いがこもるようであった。

「ビールを飲むのは下に降りてからにしましょう」と加藤さんは、私たちを急がせる。降りてみて分かった。リフト下の茶店の外の椅子にAさんが座って手を振っている。加藤さんが先を急いだわけだ。さっそくビールを頼み、4人で乾杯する。とりあえず、今回の旅の大きな念願がかなった。Aさんは、私たちが岩場に挑むトラバースに入るころまで目で追いかけ、その後リフトで降りて、中腹までの岩場を登って遊んでいたという。

 チェコの人たちが通りかかって声をかけ、握手を求めてきた。山頂小屋で会ったドイツ人3人も下山してきて挨拶を交わし、私たちの脇のテーブルを囲んでビールを持ち上げていた。登ったぞという満足感が湧き起る。Aさんの無念をほとんど眼中に入れていない。ごめん。

                                    ***

 氷河が崩壊する様子を見た。氷河の崩壊というよりも全層雪崩のようなスピードであった。ちょうど、私達が登ったのと同じ季節。気温が10℃もあったというから、イタリアも暖かくなっているのだろう。気候変動に対するヨーロッパの深刻さが突然飛び出してきた感じがする。コロナ禍でAさんともNさんとも顔を合わせていない。Aさんは91歳になっているはず。お元気だろうか。そんなことを考えてネットでチェックしたら、加藤滝男さんが2020年3月に亡くなっていることが分かった。76歳。コロナウィルスで大騒ぎがはじまった頃だ。思いもよらない訃報に、暗然としている。

 追伸:今日これから8日まで宮古島へ出かけて、鳥を観て来ます。しばらくまた、このブログはお休みします。

2022年7月4日月曜日

自然を生きる困難

 クッツェー『マイケル・K』(筑摩書房、1989年)を図書館の書架に見つけた。クッツェーの『モラルの話』を読んで、ポストモダンの作家のように思ったことを、2019年9月「すみなれたからだ、なのに」「すみなれたからだ、なのに(2)」と2021年11月「ジェンダーは文化の棚卸し」に記している。

 同じ作家の作品と思えなかった。モダンを突き抜けて人類史を背景にしたヒトの生きる様を描いている。本書のエピグラフ(本文に入る前に置かれた詩や警句など)はこう書いてあった。

  戦争は万物の父、万物の王

  ある者を神として、ある者を人として示し

  ある者を奴隷にし、ある者を自由にする

 原著は1983年。まだアパルトヘイトが公然と行われており、周辺のアンゴラやナミビアと戦争していた時代だ。本書の原題は『Life&Times of Michael K』。「マイケル・Kの人生と時代」ってとこだが、その世界を生きていくマイケルの姿を、プロットを限って描きとったのが、本書である。

 読み進めていて気になったのが、マイケルが黒人なのか、オランダ系ボーア人なのか、イギリス系の南ア人なのか、分からないことだ。その(人種的)区別が必要ないほど、社会システムと政治状況とに絡め取られ、人と人とが向き合っているということか。戦時体制下にあることは一読瞭然だが、「キャンプ」と称する保護隔離施設が強制労働力としてとか兵士として次のステップに移る準備段階として用意されている。夜間外出禁止令も発令されていて、浮浪者収容も行われている。

 三部に分かれる本書は、第一部で街を出て母親の生まれ故郷を目指すマイケルが登場する。移動許可証の発行を願い出るが一向に届かず、体の悪い母親を手押し車に乗せ、姿を隠すようにして野宿しながら向かう。途中で命を落とした母親の骨とともに、マイケルは独りで話しに聞いた故郷(らしきところ)へ辿り着くが、そこはすでに人の住まない荒れ地。マイケルはそこで食べるものを採り、畑にタネをまいて野菜を作り、谷間に身を隠して暮らす。ときどきゲリラが通り過ぎ、ゲリラ掃討の部隊がやってくきて、彼は発見される。彼は「キャンプ」に収容され、食べ物を与えられ(しかし咀嚼することが出来ず)、恢復を期待されて治療を施される。他方でゲリラの情報を得ようとする事情聴取を受けるが、何も答えることが出来ない。

 第二部は、その(欲望の全くない)マイケルの有り様がひょっとすると手厳しい時代批判ではないかと受け止めたキャンプの医師の、述懐と思念を交え、社会システムが保護隔離する世界から解き放たれて自由に身を処したいという思いを、訥々と自己批判的に綴る。マイケルはその手をするりと抜け出て、町へ戻る。

 第三部は、再びマイケルが自由な放浪者(らしき者)として町で出逢う(役人や兵士と違う)人たちと出逢う。そしてマイケル自身の身の変化に気づく気配が坦々と記録的に記されていく。

 たったこれだけの作品なのだが、マイケルが自然に帰るというか、自然に身を置く動物のヒトとして生きていこうとする様に自由を感じている気配が重なって浮かび上がる。  二元論に閉じ込められた世界、なにがしかの意味を読み取ってそれを自らのアイデンティティとする志向性からも自由になることが、マイケルの眠るように存在する有り様だ。そこでは「何かを欲すること」さえ、消え失せる。

「ボーッと生きるな」ってのを「don't sleep」というらしいが、とするとさしずめマイケルは「ボーッと生きろ」と言っているようだ。ポストモダンの前に、自然を生きることを主題にした作品をモノしていたのだと思うと、クッツェーの「モラルの話」も、もっと根源的に考え直してみる必要がありそうだ。

2022年7月3日日曜日

ディズニーランド化する国民国家

 1年前の6月21日~7月2日の飛び飛びのブログ記事で、カート・アンダーセン『ファンタジーランド――狂気と幻想のアメリカ500年史』に触れて、リアルとフェイクのハイブリッドの時代を考えた。最後の(6)は、伊坂幸太郎がカート・アンダーセンと似たような文化のとらえ方をして書いた小説『モダンタイムス』に触れて書いている。

(1)コトはとっくに起こっていた!

(2)狂熱の啓蒙主義500年が陰謀論を生んだ

(3)トランプ現象は地球規模のディズニーランド化

(4)理性への傾斜とマス・メディア、著名人の誕生

(5)宗教的熱狂の振れ幅と「哲学」の組みこみ方

(6)小さなことのために働く


 400字詰め原稿用紙で40枚くらいのエッセイだが、読み返していて気づいたのは、今や国民国家がディズニーランド化しているということだ。ロシアは、かつての大国ロシアか「ソ連」の栄光部分を引きずって物語を紡ぎ、親ロシア派を保護するためとして軍事行動に出ているが、これもカート・サンダーセンに言わせれば「ロシア・ファンタジーランド」。その夢に身を任せた人々がプーチンという英雄を支えて熱狂している。欧米は言うまでもなく、これまで主役を張ってきた。それに陰りが見えてきたところへ、降って湧いたウクライナ戦争。あたかも当事者になった如く、しかし相互依存の経済関係を築いてきたからいまさら身を引くに潔くってわけにいかない。日本は、アベ・=プーチン外交は何だったのよという疑問を残しつつ、何をしていいか、どちらへ行くか見極めを付ける物語を紡ぐことが出来ず、ボンヤリと欧米の周りを取り巻いて応援をしている風情だけ。中国は、欧米スタンダードを覆す秋が来たとばかりに模様を見ながら、世界の形成が書き換わる主導権を握ろうと構えを整えている。

 つまり、いずれの国家も、情報化社会の環境的な舞台設定があったからではあるが、自らの紡いだ物語りで国民を囲い込んでいく。武力と情報戦と経済力で決めてやろうと、国民の意思動員を画策して情報統制を強め、愛国者以外を閉め出すか沈黙させ、政治手続き的正当性をかざして、拳を振り上げている。

 コロナウィルスで一旦国民国家単位で鎖国状態を経たことがさらに推力を与えた。国民国家権力が前面に出てきて、経済的な自由は後景に退いている。国民の生命は国家が保障しているといわんばかりだ。では、各国ごとに必需品のサプライチェーンを整えているかというと、どうもその気配が見えない。相変わらず、エネルギー資源が足りなくなると言っている。

 もしウクライナ支援をするがためにロシアからのエネルギー調達を諦めなければならないのだとしたら、それが私たちのウクライナ戦争だと、誰か政治家がアジ演説でもすれば良い。それなのに、そんなことはおくびにも出さない。これを好機と身を乗り出しているのは原発賛成派のご一統さん。何とも恥ずかしくないのかよと言いたくなる。

 こうも言えようか。世界のどなたも力のある方々は、ご自分のお気に入りの絵柄を描いて、それに見合う道具を振り回して、#me-firstを主張する。力が無いか、そういう絵柄を描くのが得意でない人たちは、どっちへついていったらいいか、形勢を見計らっている。ご自分に好都合の「情報」ばかりが押し寄せるように耳目に寄せて来る。不都合な「情報」は、それを遠くへ押しやるように作用する「物語り」が積み上げられてきて、何がフェイクで何がリアルか、もう見分けが付かなくなる。そのうち、見分けようという意欲も失せてしまって、もうどっちでもいいやと、結局ご自分の好都合領域に閉じこもるようになる。まさに、カート・サンダーセンが取り上げたディズニー不動産の開発した住宅地。物語の中に設えられて、そこへ物見高い見物客も来て、羨ましそうにエールを送ってくる。そこに住む人たちは、自分たちをディズニー世界に閉じ込めて、あたかも出演者同然にリアル世界をそこで過ごす。

 こう書いていて思うのですが、ヒトというのは、何につけ物語化して自分の生きていることを意味づけしないではいられない存在かもしれません。物語化すると必ず、身の裡の欲得や利害にかかわる妄想が膨らみ、社会というヒトの集団に於いては、正邪も理非も善悪も美醜も、ヒトとつるみ、ヒトと比べ、他国と比べ、競い争うようになる。それが大真面目に、大がかりに大時代的に行われる。それがロシア・プーチンの妄想を生み、アメリカの身勝手な正義を成り立たせ、中国の強権的支配の正統性/正当性を支える論拠になるというわけだ。いずれも言葉を通じてと言うところがキモ。世界がディズニーランド化するというのは、グローバル化と情報社会とコロナウィルスがもたらす究極の形なのかもしれませんね。

 それをこそ、遊びを通じて崩してしまうのが、竹林の技ではなかったか。梁塵秘抄がそうであり、落語がそうであり、川柳もそれに連なる。いや、いつかも書き記し始めた我が朋友マサオキさんの、言葉遊びの神髄ではないかと思い当たる。

 つまりことばをつかうヒトの本性の原点を見据えて、根柢から自己批評的に振る舞う。そこにこそ世のシタッパの気概があると言わんばかりにマサオキさんの茫茫たる藝藝が炸裂する。本ブログ記事「茫茫たる藝藝(1)」(2019-11-22)などこの時期の何編かの記事を思い出した。それについては、また機会を別にして記してみよう。

2022年7月2日土曜日

なんとも丁寧な事前診療

 半月後に手の平の手術を受ける。手の平はふつう漢字で「掌」と書くが、医師たちは「手掌」と呼んでいるようだ。

 診断名はデュピュイトラン拘縮。何とも日本語では発音しにくい病名が付いているが、この病気の発見者の名前というから、致し方ない。手掌の小指を動かす腱が引き攣って小指が曲がったままになる症状。もう七、八年も前に発症したが、傷みがあるわけでもなく、さしたる不都合はないと思ってきた。ただ、ロープなどを握ったときに力が入らない。小指が握力にかなり決定的な作用をしているのだと、人生七十何年ではじめて気づいた。でも、そうロープを使うような山歩きはしないと思って放置してきた。

 ところが、同じ症状が右の手掌にも発症した。3年くらい前か。こちらは、小指と薬指の両方が引き攣っている。むろん痛みはない。ま、いいか。寿命と日常生活に不都合が生じるのとどっちが先かだなというふうに考えて、放っておいた。だが去年末くらいか、左手で握った茶碗を落とすようなことがあった。湯飲みを取り落としたことが続いて、こりゃあちょっと困ったぞと思った。ちょうど整形外科のリハビリに通っていたから、医師に相談した。専門医が市立病院にいるから紹介状を書きましょうと応じてくれた。

 3月だったか、市立病院へ行ってみて貰う。手術をしましょうという。二ヶ月先だったので、こちらが「ぶらり遍路」を考えていたのとぶつかる。じゃあ、6月に来て、そこから細かい相談をしましょうとなった。手掌の手術なのに、レントゲンをとるだけでなく、心電図を取ったり血液検査、尿検査をしたり、事前検査が細かい。その結果を見て、心臓にちょっと不安があると分かり、同じ病院の循環器医に診察してもらって、もう一度相談しましょうとなった。これが、6月の半日で行われた。

 先月下旬にその診断を受けた。不整脈と右心房の肥大があるが、手掌の手術には支障がないと判断してくれた。だが、そのついでに、5年前の秋にこの循環器科でカテーテルを入れたことも記録に残っていて、私のかかちつけ医が循環器系の専門医だということも関知して、エコー検査を受けたことはあるか、それは折を見てやっておいた方が良いと手術とは別にアドバイス。是非と申し込むと、さかさかと手術などの日程を配慮して、7月末のエコー検査とその結果の診断の日程を入れてくれた。

 その後の、その同じ日の手術医の診察。手術間前日に入院、退院は様子を見なければならないから、週明けの退院を考えておけという。連休になっている。5泊6日にもなる。これは長い。と言うと、早ければ術後一泊して退院できるがねと、それ程こだわりをもっていない。なんだろう、この医師の感触は。「あなたの手掌の様子を見る限りでは、縫合が上手くいくと思いますが」と付け加えた。医師にそれ以上を聞いたわけではないが、推察するに、拘縮がひどく手の皮に弾力がないと縫合しても切開部に亀裂が残り、そこが自然治癒的に皮膚が形成されて行くには時間がかかるということのようだ。またそのときに医師は私の左手掌を細かく触って、「この拘縮は突然に起こる。親指と人差し指の間にも、ちょっと痼りがあるようだから、この際、ついでにみておきましょう」と、事もなげに言う。えい、もう、まな板の上の鯉だと観念した。

 さてその後が、何とも驚くほど丁寧であった。入院手続きの方法が整形外科の担当者から説明を受ける。会計係へ行く。まず入院事前相談の窓口へ行けと言われる。看護師が面接、これまでの入院歴、手術歴、日頃のかかりつけ医、服用薬、身支度、持ち物とか来院方法とか、付き添いはあるか、緊急時の連絡先などを聞かれ、確認する。その後に栄養士が面接。アレルギーとかいればとか固いものをかめるかなど子細をチェックする。その後事務職員が手続きの連帯保証人などについて説明を受けて終わった。朝9時の診療開始から、4時間が経っていた。

 手術なるものをしてみんとてするなりとどこかに書いたが、初めての手術。これほど事前のチェックが細かかったとは思いもよらなかった。手渡されたパンフレットには、「セカンドオピニオンが必要なときは、いつでも担当医にお話し下さい」とゴチックで大書してある。ぱっと見には「責任回避」の常態化かと思ったりするが、それは偏見というものか。システム化されているから煩わしさは感じないが、なんとも「ご念のはいったことで」と挨拶をしたような、丁寧な手続きであった。

 おおそうだ、それだけではない。入院のまえにコロナのPCR検査を受けて陰性でなくてはならない。その日程も聞き取って、検査医時刻、場所なども決まっていた。この病院の仕組みたるや見事というほかない。

 こうして、じつは来週初めからちょっと遠方へ遊びに行く予定も含めて、退院後の前後まで予定がビッシリと入ってしまった。暑い夏、酷暑に耐えながら亜熱帯化する日本の年寄りは、結構忙しない日々を送るのでした。

2022年7月1日金曜日

外のことに気を取られている

 1年前(2021/6/30)の記事「馴れと慣れと茹でガエル」は、コロナウィルスの感染者数を前年と比較して「かわいいもの」と笑っている。

  2020年6/29……東京47、埼玉11。

 2021年6/29……東京317、埼玉68。

 2022年6/30……東京3621、埼玉1172。

 いやはや、カワイイなんてものではない。取るに足らない。

 2020年の6月末は、10日程前に「県境越境自粛解除」なるものを出して、go-toへ乗り出そうとしていたのではなかったか。2021年の6月末はオリンピック開催実施を決めて、感染防止バブルをしっかりやりますと政府はいい、IOCの下請け機関か日本政府はと批判を浴びていた。今ふり返ると、それとても(感染者数は)現在の1割に満たない。でも今年は、海外往来自粛も解除して、もうwith-コロナでいきましょうと前のめりになっている。

 去年は《ひょっとすると、「危険察知」能力が拡散して、希薄になっているとも考えられる。》と茹でガエルが茹で上がる寸前で、しかも《日常の過ごし方自体が、「お祭り騒ぎ」に仕組まれている》のだから、若い人たちが平気の平左になったとしても不思議ではないと世の趨勢を見て取り、《昨年以来の日本の高齢者の振る舞いは、褒められていい。わが身を考えてみても、自画自賛したくなるくらい、自己防衛に徹していた。》と賞賛というより、そもそも行政ってそういう(あてにならない)もんだよねと諦め顔の年寄りって感じだった。とは言え、未練たらしく次のように付け加えている。

    《もはや政治家に何かを期待する気分はないが、彼らが勝手なことをしているのに、そろそろ掣肘を加えたいと思う気分だから付け加えるのだが、大きな絵柄を描いて、上記したような「将来に対する不安」を解消する「地平」を指し示すのが、政治家の役割。細かな(非感染)五輪バブルの手立てを疎にして漏らさぬように講じるのは、役人の仕事。そう心得て、振る舞ってもらいたい。ゆめゆめ、民草は「茹でガエル」とみなして笑い飛ばすことをなさいませぬように。》

 今年は参院選の真っ只中。為政者が腰を低くしているかというと、そうではない。コロナ禍という痛みにあたふたしていた昨年に比して、今年はロシアの仕掛けたウクライナ戦争が日々実況中継されている。何か身に痛みを感じたとき、それを取り去るには、それ以上の痛みを別のところに与えるという作法を、麻酔が発達してなかった頃にはやっていたと耳にしたことがある。いやあるいは、心理学実験か何かの報告書だったろうか。つまり、ウクライナ戦争が目前に展開されて、そう言えばウクライナではコロナはどうしているんだろうとTV視聴者は気にするけれども、TV局スタッフや出演者が口にしたのを見たことがない。馴れでも慣れでも茹でガエルでもなく、外のことに気をとられてコロナ禍はどうでも良くなっているのじゃないか。

 市や区の広報誌は「4回目のワクチン接種を実施しています」と案内している。だがその「案内文書」が届かない。昨日で3回目接種から5ヶ月が過ぎたのにどうしたんだろうと、カミサンは心配している。「参院選でそれどころじゃありませんよ」っていうんじゃないのと、私は笑っている。

 などと思っていたら、東京都が「警戒段階をひとランク上げた」とニュースが流れている。忘れたわけじゃないんだ。担当部署はそれなりに気を配ってるんだ。ならば、1年前、2年前と比べて、こうだったのに、今こうしていると、足跡を辿るのにも気配りする部署はないのかね。

 そもそも論を言ってどうにかなるものではないが、小池知事もぼちぼち「東京にヒトが密集しすぎる」と首都圏拡散論を打ち出しててもいいんじゃないのか。そういう爆弾発言で気を引くのは、得意技じゃなかったか。人口減少モンダイと一緒にして、一挙解決を探る道筋を付けられそうに思うが、どんなもんだろう。