エマニュエル・トッド『老人支配国家日本の危機』(文春新書、2021年)で日本は核武装することが賢明と奨められている。この方は、フランス生まれ、日本びいきの人口学者。核は攻撃兵器ではなく、相手の攻撃を抑止する兵器だというのである。本書が出版された時にはまだ、ロシアのウクライナ侵攻は起きていません。中国や北朝鮮の核の脅威に対抗するためには、日本は核武装するべきだ、と。アメリカの核の傘はあてに出来ない、ときっぱりと見切っています。
今年の2月24日から後のウクライナ戦争をみていると、説得力があります。何しろロシアが「核兵器を使うよ」といっただけで、ヨーロッパもアメリカもロシアへの攻撃を控えてしまいました。もしウクライナが長距離攻撃兵器を手に入れて、宇宙からの米英インテリジェンスに手を貸してもらえば、ロシアの攻撃力の源泉に打撃を加えてウクライナ現場の悲惨を軽減することができるでしょう。なのに、その兵器提供をしないとアメリカが公表しているのは、プーチンに対して全面戦争にしないように呼びかけているようなものです。ウクライナをほどほどの戦場現場として活用して(ロシアの国力を貶めながら)、じつは米欧ロの直接衝突を危機を回避していると言えます。ウクライナにとっては,目下最大の武器の支援国アメリカに、同時に、お前さんたちで戦えと突き放されて(アメリカの世界戦略に)利用されているようです。
これは、日本が中朝露と向き合って危機にさらされたときに、直面する現実でもあります。エマニュエル・トッドは、そうした世界政治の現実を踏まえて、日本に核武装を奨めているのです。では、私たちはその提言をどう受け止めたらいいでしょうか。
2020年1月の「日本の防衛という問題」をseminarで扱ったとき、出席者のMさんが「核兵器をアメリカから借りて武装したらいい」と発言したことがあります。そうか、日本の産業家たちの間ではそういう論議が起こっているのかと(Mさんの付き合っている関係の人たちを思い浮かべて)私は受け止めていました。本気で核武装なんて考えられないとも感じていました。それと同時に、北朝鮮が必死に核武装に縋るのも、80年ほど前に日本が金融資産の凍結や石油資源の禁輸でアメリカに追い詰められていた姿と重なり、むしろ判官贔屓で(そうするより他に道がないよな、と)同情するような心持ちでみていました。それが、ウクライナへのロシア侵攻をみて一気に現実問題になった。こりゃあ、本気で考えなければならないという次第です。
エマニュエル・トッドがいうように核は使うために持つのではありません。戦争を抑止するために持つのだという抑止論は、冷戦時代から耳にしてきました。ヒロシマ・ナガサキを知っていれば、最終兵器といって良いほどの破壊力と分かります。だが、ウクライナ戦争をみていると、核兵器だけでなく戦争というのがもはや私たち庶民にとっては,最終的なことだと強く感じられます。
ロシアが非人道的な攻撃をしていると欧米メディアは非難していますが、そもそも非人道的でない戦争があるのかと,市井の民は思う。劇場を破壊し、幼稚園や小学校に攻撃を加えていると映像が流れる。攻撃目標をきっちりと絞れないロシアの兵器に対する非難かもしれないが、実は人々の生活を破壊して抗戦意識を挫き、敵国内の統治者への反対運動を盛り上げていくというのも、戦術の一つです。つまり戦争は、そもそも統治者同士の争いがそれぞれが統治している人々を人質にして戦っている。
「人は石垣人は城」というのも、そういう意味で総力戦ですよというもの。長期戦にせよ短期決戦にせよ、国の体幹がかっちりしているかどうかが問われます。総力戦というのはWWⅠ後に謂われるようになりましたが、それ以前から、産業や資源や生産性やそれを活用する知恵や正確さや練度、人々の統治者への求心性や民度も含めて、「国力」として問われることを意味していました。つまり総力戦とは、戦争という(対外的な行為へ)統治行為に力を結集することのできる度合いを表しています。となると、民主的統治よりは強権的統治の方が(統治者の意向が通るという意味で)求心性は高い。
民主的統治は、一つにまとまるのに時間がかかります。いや、論議が広く行われれば、まとまることさえ覚束なくなる。深いところでの(何のために戦争なんかするのよという)身に刻まれた、感情的・理念的一体性が醸成されていなければならない。むろんそれは動的なものだから、今回のウクライナのようにロシアの侵攻によってウクライナを護れという求心性は格段に高まった。ウクライナはロシアではないというアイデンティティの内的確信も高くなった。だからこそ、ロシアは(人道的配慮とか軍事目標施設以外は攻撃しないというお為ごかしは振り捨てて)ウクライナの志気を挫くために何でもするという非道さを発揮しているのだと私は考えています。
本筋に話を戻しましょう。まず核兵器をアメリカから借用するということについて、高市という自民党の政審会長も広言していますが、何処まで本気でそれが力を発揮すると信じているのか疑問に思います。アメリカから借用するというとき、当然、それ(核)を使用することについてアメリカが承認するかどうかが問われないはずがない。アメリカ自体が攻撃を受けなければいいというのが、トランプばかりでなくバイデンのホンネです。日本が持っているだけでいいから貸してくれっていうのをフリーハンドでOKするとは思えません。むしろトランプさんなら、日本が(アメリカに頼らず)自力で防衛しようというのであれば(軍事経費節減もなり)、日本が核武装することは認めると言うでしょう(いつだったか、そう言っていたような印象を持っています)。借りるというのが、主体性をどれだけ保証するものか、大いに疑問です。
では、自力で核武装するのはどうだろう。これは,ちょっと面白いチキンレースに思えます。かつて、明らかに負けると分かっていた(無謀な)アメリカとの戦争に踏み切った日本。かれらはプーチン以上に何をするか分からないと、アメリカも中国も北朝鮮もロシアも思うにちがいありません。今回のウクライナのような事態に置かれたとき、日本がもし核兵器を持っていたとすると、金正恩とプーチンと日本の為政者とどちらが(人類破滅へ向かう道筋へ踏み込む)危険性があるか。20世紀を総括してみる国際関係的視線では、どっちもどっちという評価を得るのではないかと私はみています。まず何よりも、国連憲章の51条で、WWⅡの同盟国、日・独が攻撃的な姿勢をみせたときには国連の承認を得ることなく攻撃に踏み切ってもいいと「敵国条項」があるのですから、北朝鮮は別としても、国連安保理の常任理事国である中国やロシアは、それこそ先制攻撃をするお墨付きを手に入れているのです。
日本の為政者も、どこまで先を見通して戦略を立て、どこまで細部を承知して方針を打ち出し、何処まで現場に目配りして状況を把握しているか、私はまったく信頼を寄せることが出来ません。ましてアメリカの為政者がどこまで信頼するか。これは躊躇なく、NOと言えます。
それができるのであれば、もう60年も前から日米の議論の俎上に上がっている「日米行政協定」の改訂に踏み切っているはずです。アメリカにとって日本は、いわば「属国」です。ドイツやイタリアのような対等の付き合い方をしていません。そういう国だとみていない。そしてそれを実現しようというほど、日本の為政者は知恵知識を傾けて、日本の自律的な決定権を取り戻そうとしてこなかった。これは、明々白々な事実です。
いまのところでは、こう結論づけられましょうか。
日本の政治状況は今、核兵器を持つかどうかを論議する次元にはない。まずアメリカと対等に遣り取りすること(別に同盟関係を崩せと言っている訳ではない)が出来るように、(中国やロシアとアメリカの政策とは別の原理原則を立てて)外交を展開する力を取り戻す必要がある。それも出来ないのに、核兵器を持つの抑止力が必要のと云々するのは、戦いたくて仕方がないゲーマーがイチかバチの危ない橋を渡るようなこと。戦後過程のちゃぶ台返しです。
戦中生まれ戦後育ちの市井の老爺としては、おいおい止めて下さいよ、と声をかけたい気分ですね。
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