2022年7月25日月曜日

腐るよりは滅びるイメージ

 人道的な戦争があるのか、とウクライナの日々伝えられる状況をみて思う。宣戦布告をするというのがかつての騎士たちの決闘の儀礼に由来するように、人道に対する罪というのも、武装集団が対決して雌雄を決するという19世紀的な戦争概念が欧米的な価値意識で装われたものだ。ロシアがクラスター爆弾や生物化学兵器を用いることがあっても、それは欧米が自分の価値判断で非難していることに過ぎない。プーチンからすると、フンと言っていれば済むこと。きれいごとを言うんじゃないよ。

 太平洋戦争でアメリカが人道的な戦争を行ったかというと、とんでもない。ヒロシマやナガサキにしても自国の戦死者を少なくするためという「正統性」をつけて、おおよそ非人道的な爆撃をしたではないか。いや核兵器に限らない。東京大空襲にしても、私が受けた高松の空襲にしても、焼夷弾や艦載機による機銃掃射もおおよそ市民を殺戮する目的で遂行されていた。ただ、こちらは(まさに当事者として)戦争相手国の国民だから仕方なくそれを感受して逃げ回っていたわけで、それを戦争犯罪と切り分けるのは、戦争をゲームのように政治の延長で考えている奴らの言い分だと(今でも)思っている。

 じゃあ口を噤ぐんで、イスラエルが核兵器など持っているともいないとも言わないのと同じように振る舞えば、正しさは担保されるのか。そんなことはあるまい。何かを突きつけられても「それはフェイクだ」と言えば、ちゃらになる。似たり寄ったりである。

 それをTVなどで大真面目に非難して喧伝する欧米為政者やメディア・プロデューサーの人道センスは、民草からすると、お笑いである。たしかに今回は、ロシアが一方的にウクライナに侵攻したから、判官贔屓でウクライナの味方をしているから、ロシアって非道いと思っているだけだ。戦争事態を画面で見ていると、人道もへったくれもない、戦争自体が迷惑。悪だ思う。

 ウクライナの戦争報道をみていると、為政者やメディアの登場者は、まるでリアル版戦争ゲームをしているかのように、ルール違反を指摘したりフェイクだと誹ったり、攻撃反撃の正統性発言している。民草は嗤うしかない。もしウクライナに身を置いていたら、嗤うどころじゃない。ロシア兵だったら、これまた笑っていられない。

 戦争は必要悪だろうと、反論する人があるかもしれない。正しい戦争があると思うから、そう言う。プーチンだって、今回の戦争はネオナチの暴虐からロシア系住民を護るためだと正統性を飾っているではないか。国民国家の論理から言うと、国内向けにせよ国際向けにせよ、いずれの国も正義性を主張する。それはしかし、統治者の政治世界を含めた論理世界の話じゃないか。市井の民の世界とはどんどんかけ離れていっている。

 こう考えてみては、どうだろうか。習近平は、中国も「人民民主主義」という統治制度だといった。人民の「真の利益」を代表する共産党の指導を受けた統治や法治政治は、「人民の暮らしを護る最善の道をとっている」と。つまり、統治の結果を考えると、果たして議会制民主主義と呼ぶ(選挙のときだけ主権を発揮する)アメリカ(日本)のやり方とどちらがいいかと、民主主義概念を見直すように求めたと、私は受け止めた。

 ロシアの7割の人々がウクライナ戦争を遂行するプーチンを支持しているという。これもまた、情報統制とか洗脳とか裏から手を回した恐怖政治だとかいろいろと打つ手の違いはあろうけれども、市井の民の囲われた井戸の中で求められた応えとしては、日常的な振る舞いの自由度に於いて、ロシア国民よりも私の方が優位に立っていると思っているだけじゃないか。

 しかし、アベ=スガ政権のときの(今はキシダも加えて)、「寄らしむべし知らしむべからず」風の自民党統治のやり方にひたっていると、戦争は、民草の暮らしや都合に構うことなく行われるものだという思いが湧き起こる。選挙のときだけの主権者のご機嫌を損なうことなくコトを運べば、あとの民草は統治対象となる自然存在。つまりプーチンにとってのロシア国民と変わりはない。

 その政治に浸って暮らしを護っているワタシが、どんなことでロシア国民を嗤うことが出来るか。せめて、ロシアの反プーチンの気概を緩めずに繰り返し抵抗している元TV局員女子のように、身が滅ぶとも、言いたいことを表明し続ける。

 つまり腐るより滅びる道を選ぶ。そうした誇らしさを持ち続けたいという思いがチラリと頭を掠めた。などと……、何を言おうと構えわず放っておいてくれる日本で、呟いている。これも、バカみたい。

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