2022年7月23日土曜日

時間の感覚と内面世界

 ご近所のストレッチ仲間と飲んでいたとき、大連へ行ったのは何年前だったっか? と誰かが訊いた。

「えっ、5年くらい前と違う?」

 と答えると、一人が

「ほらっ、私と一緒だ」

 と言う。5人で行った。他の人は、もう10年近いんじゃないかと遣り取りしている。私がトイレに立った間に話しがはじまったらしい。飲んでいる5人のうちの4人が一緒に行った面々。一緒に行ったあとの一人は、いまはもう80代の後半に入り、飲みに出ることができなくなった。代わりといっては何だが、70代になったばかりの若い人が加わっている。5年くらい前と応じはしたものの、私も全くの勘。コロナ以前と以後という区分けはきっちり頭に入っているが、それ以前となると、五里霧中だ。ただ、先日のイタリアの氷河崩壊でマルモラーダの名が出て、ドロミテに行ったのが2013年と分かったとき、身の裡の感触と違って随分近かったのだと感じたから、ちょっとさばを読むような気持ちで5年といったのであった。

 今朝になってブログ記事を見ると、2016年の10月21日から24日までの3泊4日で大連へ向かい、瀋陽まで脚を延ばしていた。5年と9ヶ月前になる。「大連紀行」を四百字詰めで30枚くらい書き記していた。

 5年前も10年前もあまり変わりがなく、記憶の中に同居している。なんだろう、この時間印象のいい加減さは。あんなことがあった、こんなことがあったというのが皆、丼の中に雑多に入っている。

 時系列がいい加減なのは、それらのコトゴトの間を関係づける物語りがないせいではないか。同じく中国のシルクロードの旅を、山友に誘われてご一緒したことがあった、それと大連とどちらが先だったかともし問われたら、大連が先、シルクロードが後と応答できたに互いない。というのも、(今調べたら2018年5月の)シルクロードの旅は、瀋陽への旅の印象を書き換えるほど新幹線に関しても、人々の暮らしについても中国の変わりようが鮮烈な印象だったからである。これも帰ってから紀行文を記したから、訪問の「前後関係」が(わが身の裡に)発生した。

 ということは逆に、時間の記憶に正確であることというのは、時系列で整理されたコトゴトだからではないか。時系列で整理するのは、その旅なりデキゴトが、前後関係とか、私の年齢としっかり絡み合って認識されているコトだ。孫の小学校卒業とか、大学入学とか成人といった恰好で、爺婆から離れていった記憶は、それなりにきちんとこちらの年齢と相関して物語化されている。

 山歩きのことと、seminarのことと、鳥を観たり観光旅行に付いていったりしたことと、ご近所のこととは、整理ボックスが違うから相互関係がつかめていない。たぶん私の頭の中ではゴチャゴチャに放り込まれていて、問われるという想起域への刺激があれば、アレよりは前、ソレよりは後という風に関係づけたモノゴトとともに記憶の混沌の海から引きずり出しておおよその見当を付けるのだろう。

 歳をとって、思いが昔と今とを往き来することが多くなると、時系列が掻き回される。と同時に、昔のことは、社会的なデキゴトや政治的な画期となるメルクマールの記憶と平仄を合わせるように考えたことが多かったせいか、いろんなことが総体として、時代の空気のように身に刻まれている。10年や20年の違いはどっちでもよく、そのデキゴトを比較して思い浮かべたりしている。つまり時間を往き来することが時系列をかき混ぜてしまう。これも、年寄りの時間印象を茫洋としたものにしてしまうのかもしれない。

 これは、時間とか空間に関する物理的な実在と心理的な実感とのカンケイとして取り出すことが出来るのだろうか。宇宙空間の11次元ということと関係づけて展開している論考などがあると面白いなと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿