今朝(7/19)の朝日新聞に宮台真司が「元首相銃撃事件」に関するコメントを寄せている。「個人的な恨み」を抱えて苦悩する声に応える国家も社会もないと、今の世の中の生きづらさを指摘しています。つまり、コトを起こした容疑者本人は「個人的な恨み」を晴らす動機しかなくても、社会的なデキゴトとしては「世直しのために統治権力に政策変更を迫るテロ」であったと受け止めないと、何度でもこうしたことが繰り返されると言っています。為政者への警鐘とともにメディアばかりか市井の私たちにも我がこととしてデキゴトを見つめる視線を提示しているように感じます。
「為政者への警鐘」というのは今回の事件を容疑者の間違った標的への銃撃だったと受け止める論調です。安倍元首相は流れ弾に当たったようなものとみて、安倍政治の功績をたたえ祀りあげようとする動きはすでに「国葬」という形で提起されていますが、これは容疑者の「個人的な恨み」を他人事としてみているということの他ならない。それは「呼んでも応えない」国家や社会の姿そのもの。デキゴトが起きる度に自分はどういう意味で当事者だろうかと考えることをクセとしてきたワタシには、我が意を得たりという思いがしています。
これは逆に考えると、世の中のデキゴトをいつも私たちは観客席にいて観ているだけ。舞台に立つ人々の振る舞いをみながら、バカだなあと思ったり、自分はこれほどひどくはないよねと状況を押さえて安堵したり、ときには罵声を浴びせて正義の味方を気取ったりしています。でも、そう振る舞っているヒトは宮台真司が言う「寄る辺ない個人」でもあります。つまりわが姿を観て嗤っているとこの社会学者は言っているのですね。
こういった、社会との応答関係が安定的に築かれているかどうかを私はコミュニティ性といってきました。国家が応えないのは、重々承知。80年の経験則です。私は二十年ほどの間、定時制高校の教師をしていたことがあります。1970年代のはじめは「金の卵」ともて囃された若い人たち、第一次オイルショック(1973年秋)の後は全日制高校へ行けないあぶれた人たちで溢れていました。そもそも学校の教師なんて信用していない青年たちと向き合って、言葉を交わすことが出来なくては、仕事が勤まりません。といって、友達のような顔をしていては学校の教師の仕事が果たせません。
世の中から背負わされている学校の役目は、生徒に人類文化を伝え、なおかつ成績を付けて序列化し「社会に送り出す」選別システムでした。だが、学校が伝承する人類の知的文化はとっくに定時制に足を運ぶ彼らに愛想を尽かされて色褪せ、すでに世の中の最底辺に位置している彼らが這い上がる階梯には、定時制高校の発揮する序列化は役に立たない。学習指導要領とか学習成績とかはほぼ役に立たない状況でした。
では教師として何が出来たか。世の中の(人類史的に伝えてきた)振る舞い方を伝え、まずは自律的に自らを立てる術を身につけ、同時に場を同じうする人たちと互いに関わり合う関係のありようの作法に心を傾けるような実際的な場を提供することでした。学習指導要領では「特別活動」と名付けて、教師仕事の周縁に捨て置かれていることですが、逆に言うと定型がなく、現場主義的に形づくっていかねばならない領域でした。そもそも眼前の生徒たちがどのような状況に置かれ、なにをどう感じ取り、どう思っているから、社会的に考えると不都合な、ぶつかり合いや犯罪に近い、このような混沌が生まれているのか。それに対する見取り図を描くことをしなくては、教師として何をどうするか決めることも出来なかったと言えます。
ふり返ってみるとそれが一つひとつ、彼らの呼び声に応答しようとしていた社会の声であったわけです。むろん当時は、わが振る舞いを社会の応対と考えていたわけではありません。目前の教室秩序を打ち立て、とりあえず「教師-生徒」関係が成立するように場をつくる。それが精一杯でした。
もちろん「授業」という儀式を相互了解の上で場が成り立っていますから、その場の中味もないがしろには出来ません。だがそれ以上に、毎夜学校に足を運んできて、4時間の授業を4年間受け続ける活力を醸成しなくてはなりません。坦々と繰り返される授業という営みを受け続ける活力の素は、同級生や学校全体の人たちとのコミュニティの居心地の良さでした。それこそ、世の中の不幸を全身に背負って生きてきたような生徒たちが寄り集うわけですから、居心地の良い関係はそう簡単には出来上がりません。でも、声を上げると応えが返ってくる。そういう応答関係が、あたかも自問自答のように感じられるようになるのが、アイデンティティに転化して誇らしく感じられる場をつくるのだと思うようになりました。教師は学校をつくる、生徒は学校が育てる。そう考えて仕事をしていたことを思い出します。
すっかり引退した今は、市井の老爺として世の中を眺め、溜息をついてすっかり変わったなあと慨嘆するばかりですが、この宮台真司のような学者がこういう指摘をして(わが身の思いが正鵠を射ていると)扶けてくれているように思い、「希望」を感じています。
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