2022年7月16日土曜日

世相の読み取りと己が立ち位置

 実に鮮明で論理的な夢を見た。何かの集まり。一人の女の人が、自分の子どもたちのデキが悪いことを申し訳なさそうに話している。何か言わなくちゃあとワタシは手を挙げかけるが、何をどう喋っていいか、まとまらない。と、別のワタシが話し始めた。

「この土地に**と子どもに関する誰それさんの主宰する集いがあってね、二度ほどそこへ参加したことがあるんですが、そこでこんな話しを聞いたことがあります。」

 と前置きするのですが、なぜか彼の謂わんとすることが私ばかりか、その場にいる人たちには、分かってしまっている。二度ほど参加したというのは嘘、彼は話しに聞いただけだってことを。だが、続いて口にした彼の話がその嘘を、どうでもいいことのように思わせていた。こんな話しであった。

 この土地の集いの母親が起ち上がって、うちの子はデキはいいのですが、デキない子の心持ちを受け止めることが出来なくて、とっても非道い応対をしてしまうんですと、訥々と話し始める。それを伝える別のワタシは子細を言葉にしていないのに、なぜかその場の人たちはコトの転結を承知している。

 そうだ、あれは、非道かった、母親としてはどうしていいか困ったろう、と同情というか共感というか理解というか、当事者の心情共々どう考えたらいいものかと、その場にいる人たちは思案している。そのとき最初に発言したデキの悪い子どもたちを持った女の話は(そんなことを思い煩うなんてどっちでもいいじゃないと)相対化されている。デキのいい子どもの非道さが、どうして生まれてきたのかを、この社会の問題として考えようという気風が漂っていた。

 何だこの夢は、といま考えている。

(1)この夢に登場する人はみなワタシである。

(2)デキがいいとか悪いという人の特性の評価にはTPOがある。それが場を区別せずに(それを思う人の)心裡で使われて、アイデンティティになったり社会的な優劣に転化している。

(3)いろんなデキ・不デキの事柄の価値づけには社会的に優劣がある。人柄とか才能とか絵画とか音楽とか運動能力の何に力点を置いて価値評価をするかについては社会的集団的無意識がその優劣に働いており、社会的気風は、それを基準に(順接的に)考えるクセがある。

(4)上記の夢は、何処にどう価値評価するかを定めることなく中途半端。ただ皆さんの前に投げ出している。いつもの私からするとどちらに重心を置くか即断しているはずだが、そんなことはどうでも良く、ただその女はデキの悪い子のことを抱え込んで身を縮めている。その母親は世間的に評価の高いわが子の非道な振る舞いに途方に暮れている。そうして、この場のワタシ全員がそれをどう考えたものか思案している。

 これは、「ワタシ」の裡側「せかい」の目下の構図ではないか。

(ア)モノゴトにすぐに結論を出そうというこれまでのワタシのクセは、それ自体が啓蒙的なスタンス。だが、人の思案を共有するステージを構成するのがお前さんの立ち位置じゃないか。お前さんの考えというよりも、その場のミナサンの思索を噛み合わせ、流動化させ、次元の違うステージへ移っていくことが娯しい。己を空しうして場のすべてをわが身の裡であるかのように仮構する。

(イ)そこには、デキゴトを巡って浮かび上がるいろんな要素が粒子のようにブラウン運動をはじめる。それは、その場を共有する人たちが(みなそれぞれの人生の径庭を経て抱え込んだ様々な思念をもとに)繰り出すデキゴトにまつわる要素のもつ、細かな違いを押さえて、なおかつその違いを噛み合わせて、現在のモンダイが何処にあるかを探っていく。(ウ)上記のようにコトを運ぶ道筋を記すと簡単に思えるが、複数の人の持つデキゴトにまつわる要素というのは、ほとんどわからない。当人にだって、なぜ自分がそのように感じるのか考えるのかはわからないことが多い。ということはまず「わからない」ということを共有する。わずかに、その場に居合わせて表明された他者との差異によって浮かび上がる違いが、デキゴトにまつわる場面の展開にどのような作用をしているのか。その動きをとらえ、なにがしかの法則性を仮定しながら、共有できる理解にいたろうと試みる。

(エ)上記の(ア)に述べた「己を空しうして場のすべてをわが身の裡であるかのように仮構する」とは、デキゴトにまつわるすべてのヒト、その場に参加するすべての人の感性や感覚、価値意識などが、如何に自分のそれと異なるものであろうと、わが身の裡のこととしてとらえることである。これはちょっとした難題(アポリア)をはらんでいる。己を空しうしながら己の身の裡を対象として見つめてデキゴトにまつわって生起する感性や感覚や思念を理解するという離れ業をやってのけている。これが出来てこそ「せかい」を理解する土台が築かれる。

(オ)この夢は、先に起こった安倍元首相銃撃事件の子細が明らかになりつつあることに関連しているような気がしている。この事件を、単なる私怨によるデキゴトとしてではなく、社会的な関係に根因を持つデキゴトとしてとらえないと、表層の因果関係だけに終始して、事態の意味する頃を見誤ってしまうような気がする。つまり、現在社会の情勢分析として考えよという啓示であると受け止めている。

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